ローズは落ち込んで反省する
コピートが油を撒いて火を付けた。……ディア様の心に。消えない。物凄い勢いで燃えているから、鎮火できない。
侍女の仕事が凄いなんて、言わなければ良かった。コピートをお仕置きした筈なのに、こんな風に返って来るとは思っていなかった。
「ディア様、クザートは本当にディア様の事、大好きなんです。疑わないであげてください」
私はディア様の脇に膝をついて見上げてお願いした。……私に出来るのはお願いだけだ。
「ローズ、私忘れていたの」
「忘れていたって、何をですか?」
「人には相性があるって事」
よく分からない。合う人合わない人と言うなら、ディア様とクザートはお似合いだ。
「私はクザートに縁を感じていたの。モイナも授かったし、他の殿方をそんな風に見られなかったから」
「だったら、クザートはディア様の運命の人です」
ちょっと大げさに言ってみたら、ディア様に笑われた。
「運命なんてローズが言うのね。全然信じていないでしょうに」
はい。信じていません。
「どうやっても上手く行かない。それって、相性が悪いのではないかしら」
私が首を捻っていると、ディア様は言い直した。
「どんなに好きでも、タイミングが合わない人とは結ばれないって事よ。結ばれても一緒に居られない」
前世で親が離婚した時の事を思い出してしまう。それなら知っている。
「私、凄く頑張ったと思わない?モイナも産んだわ。その上、わざわざパルネアからポートまで来たのよ。大したモノでしょ?」
「ディア様……」
凄く頑張っている。そう簡単に出来る事では無い。
「でも、そこまでしてもダメなら諦めるしかないじゃない。そうしなきゃ、辛くて生きていけないわ」
男性を選び放題で、好きな家に嫁げた筈だったディア様が、そこまでクザートを想っているのに上手く行かないなら、確かにそう考えて諦めるのが一番なのかも知れない。……なんか流されている。私が説得されているんですけど!
「もう少しだけ、待てませんか?」
声が、ちょっと諦め気味で説得力皆無だ。
ここにはずっと居られるのだから、時間をかけて、一緒に居られなかった時間を埋めればいいだけだと思っていた。
でも、それはお互いの気持ちを確認しあった後でなくてはならなかったのだ。それが出来ていない。
確かに、パルネアから使節団が来て、ディア様が来た時、クザートは喜んでいたし、モイナがあそこまでクザートに似ていなければ、ディア様の連れ子扱いにして、ディア様と結婚する気満々だった。ルミカがそれは上手く行かないって事前に忠告していたらしいけれど、それを無視するくらい、クザートはディア様との関係に前向きだった。その動きが突然止まったのが今の状態だ。
どんなに押せと言っても、クザートは動かなかった。自分のやった事を後悔してからだと思う。
そして今、ほぼ七年、クザート不足でカラカラになってしまった気持ちを、ディア様は捨ててしまおうとしている。期間を考えると、確かに捨ててしまう方が自然だ。
クザートは罪悪感に苛まれて動けないままだが、ディア様が欲しいのは、自分を好きで居ると言う言葉であり行動なのだ。何もしないのではこうなっても仕方ない。
時間を稼ぎたくて口を開く。
「クザートは普段はとても面倒見の良いお兄さんなのに、ディア様に関しては子供みたいになるんです。ディア様が捨てちゃったら、クザートが壊れて戻って来なくなってしまいます」
「私には分からない。ローズ程、クザートの事を知らないの」
私は、自分の立ち位置をようやく理解した。
ディア様から見れば、私が義理の妹として同じ館でクザートと暮らしていた日々さえ、許せないのだ。
本当はクザートと一緒にモイナの成長を見守りたかった時期に、私はクザートと一緒に暮らしていたのだ。いくら優しいディア様でも、腹を立てるのは当然だ。
その上、ジルムートと夫婦として一緒に居る所をしょっちゅう見ていたのだから、我慢も限界だったのだろう。
ジルムートだけではない。私もディア様の気持ちを逆なでする事しか出来ないのだ。それを理解したら、項垂れるしかない。
クザートは完全に別れを意識した愛の言葉をもらって、どうするのだろうか。
そんな凄い修羅場の事なんて、分からない。分かるのは、クザートがあらゆる意味で終わってしまう危機だと言う事だけだ。
その後、ハリードの話を聞く等の作業がある為ジルムートとコピートは残り、ディア様もミハイルの世話や夕食の事もあるので、残る事になった。私は一人で館に帰る事になったのだ。
しょんぼりと迎えの馬車に乗って行く時に、ちらりと見えたディア様は、気まずそうな顔をしていた。
言い過ぎだったと後悔しているのは分かったけれど、ディア様の考えは至って普通だ。感情と侍女の仕事は分けるべきだと言う一般論はあるだろうが、そんな事ちゃんと出来る人はそう居ない。気遣いが足りなかったのは、私の方だ。
今度城で顔を合わせた時に、ちゃんと謝って仲直りするしかない。セレニー様は雰囲気に敏感な方だから、私達がぎくしゃくしていたら居心地悪いに違いない。でも、謝罪した所で、そんなに普通に出来るかどうかも分からない。
切り替えなくてはならないと分かっているが、暗いひとりぼっちの寝室で考えてしまった。
ディア様とクザート。どっちにも肩入れしているから、ディア様は私を味方と判断しなくなってしまったのだ。ディア様の中で、パルネア人侍女の後輩と言う私の立ち位置が、すっかりクザートの義妹になっていたのに気付いていなかった。
後ろに向かって倒れて、柔らかい枕に頭を預ける。
「アネイラ、やっちゃったよ」
アネイラに会いたい。ディア様に嫌われちゃったって、愚痴を言って叱られたい。
『馬鹿じゃないの?あんたがディア様をどうこうしようなんて、千年早いのよ!さっさと謝って許してもらう事ね。ディア様優しいから、拝み倒して押し切るのよ』
妄想の中のアネイラは相変わらずツンツンしていて優しい。実際に会いたいと思ったら、ちょっと泣いてしまった。アネイラはあまり反省しないし、落ち込まない。いつまでもウジウジしないのだ。はっきり物を言うので、好みの分かれる子だと思うが、私は大好きだった。救われていたのだ。
今日は色々あり過ぎた。幸い、早く館に戻ってこられた。ちゃんと眠って明日は元気にならなくては。私は涙を拭いて、眠る為に目を閉じた。
翌朝、かなり早い時間に目が覚めた。まだ夜が明けきっていない。ランプは消えているけれど、周囲は薄暗い中で見える程度だ。
寝ていた自分の寝室と違って、ジルムートの寝室だった事にはあまり驚かなかった。腕の重みにもすっかり慣れて、一人で起きるより安心ている事に気付く。
ただ、起きた後の距離感がおかしかった。
朝の挨拶もなしに、私が動いた気配で起きたジルムートは言った。
「泣いたのか?」
ほんのちょっとだ。涙も拭ってから寝たから分からないと思っていた。
そこで先回りする様に言われた言葉に絶句する。
「嘘を言ったら、口を塞ぐぞ」
昨日から、それ怖い。
「ちょっとです」
「帰りから様子がおかしかった。ディアと何かあったのか?」
口を塞ぐぞ攻撃に逆らえないので、素直に昨日のやり取りを話すと、ジルムートは眉間に皺を寄せた。
「私がクザートの肩を持ったら、ディア様は一人ぼっちになってしまいます。それに気付かず馬鹿な事をしました」
寝て忘れようと思っていたのに、起き抜けに傷をえぐられてしまった。
それよりも気になるのは、いつもならちゃんと起きて距離を取って話をしてくれるのに、私を抱いたまま、至近距離で話をしている事だ。
ジルムートは、何も言わずに私の額に唇を押し当てた。
デコチューは最高です!
訓練して良かった。気分の落ち込みも軽くなる。立ち直れそう。
そう思ってうっとりしていたら、場所が変わった。目じりだ。次は頬。そして顎。
あれ?
ゆっくりと下へと場所を変えていくそれに戸惑って声を上げる。首はダメ!何か、おかしな雰囲気になりそうだからダメ!
「ジル!」
ジルムートは、私の制止に応じて顔を上げると、私の鼻にキスしてから言った。
「もう鼻血は出さない」
私達夫婦にとって、大変革とも言える宣言に私は硬直する。何時の間にそんな成長を遂げたのか、全然分からない。
「俺にも夫婦関係の理想と言うものがある。恐怖している妻が、夫の怒りを逸らす為に口づける様な関係は、断固拒否する。だから俺は絶対に鼻血など出さないと決意した」
決意だけで出ないものなのか不明だが、一昨日の夜の事が尾を引いているのは分かった。
色々な事が、ブーメランの様に自分に返って来ている気がする。暗い気分になって、思わず言い返していた。
「私が全部悪いの?」
ジルムートはきょとんとしてから、言った。
「そうは言っていない。ただ俺に遠慮する必要は無い」
「遠慮なんてしてない」
「している。何故、俺の事を色々聞いて知っているのに、知らないフリをしているのだ」
バレバレだったらしい。気まずいのに、近すぎて顔が逸らせない。
すると、ジルムートが笑い出した。
「酷い!笑うなんて」
こっちは必死だったのに。大体一昨日の夜は、どれだけ怖かったと思っているのだ。
謝るみたいにぎゅっと抱きしめられても、腹が立つのでボコボコ叩いていたら、声が降って来た。
「もっと早く伝えておくべきだった。ローズが一緒に居てくれるから、俺はもう大丈夫だ。昔の事など、どうでもいいのだ」
恐る恐る顔を上げると、ジルムートがちょっと怖い顔をしている。怒っていると言うよりも、緊張しているみたいな……。
考えている内にジルムートの顔が近づいて来て、噛みつかれるかと思う様なキスをされた。いきなり何?訳も分からず、酸欠でクラクラしている私にジルムートは厳かに宣言した。
「今のが俺達の初めてだ。その前には何も無い。絶対に何もしていない。分かったな?」
この前のチューが余程気に食わないのだろうから、ここは退くべきだろう。黙って何度も頷く。
それに満足したのか、ようやく適正距離になってくれて、ジルムートは話してくれた。
「俺達兄弟には結婚願望が無かった。どちらかと言えば拒否していた。それは知っているな?だから兄上はディアを手放した」
私が頷くと、ジルムートは続けた。
「兄上とディアの事はもう諦めろ」
へ?
「落ち込んで泣く様な事では無い。ディアの言う通り、相性が悪いのだ。気にするな」
「私には、意味が分からないのですが」
「いいか?ディアはお前と同じ様に、城に出仕して、モイナを育てるパルネア風の暮らしをしたいと思っている。出来ると思っている。俺とお前がそうやって暮らしているからな」
言われてみれば、ジルムートは自分が批判されても私に侍女を続けさせてくれた。そうだ。今でこそ下火になっているが、最初は批判を受けていたのだ。
「兄上は結婚してディアを館に囲い込みたいのだ。侍女などさせないで、他の者の目に触れさせない様に館に閉じ込めたいのだ」
「それはその……」
「犯罪じみた行為だとお前は思うだろうが、ポートの夫婦の普通の在り方だ。母さん達もそうだった。ファナだって今そういう状態じゃないか」
言われてみれば……そうか。ファナとは、結婚してから会わせてもらっていない気がする。忙しいのもあるけれど、コピートの思惑もあったのだろうか。ポート人、怖いよ!
「俺はお前のやりたい様にしないと捨てられるから必死だった。お陰で何も考えずに済んだ訳だが、兄上は違う。ディアがこちらに来る事になって、色々と考えていたのだ」
聞き捨てならない事を聞いた気がするが……とりあえず続きを聞く。
「実際にディアに会って、価値観の差に愕然としたのだ。だから兄上は動けなくなった。思ったままに動けば、仕事を奪った挙句の監禁犯扱いだ。嫌われるのは目に見えている。動かないでじっとしていても捨てられかけている。あれは、どうにもならない」
私が呆然としていると、ジルムートは結論を口にした。
「好きなだけでは、だめだと言う事だ。ディアの言う相性というのはそういう事ではないかと俺は思う」




