コピート・モルグは頑張っていた
「兄上……泣かないで」
ミハイルは、顔にハンカチを押し当てて泣いているハリードの頭を撫でている。明らかにおかしい光景だ。
俺としては、色々と我慢の限界を超えているのだが、まだ我慢しなくてはならない。
もう一人、話を聞かねばならない者が居るのだ。
「ディア、ハリードが落ち着くまで、お前の話を聞きたい」
ディアは背筋を伸ばした。
「何なりとお聞きください」
そこで俺がずっと抱えていた疑問から解く事にした。
「何故、ハリードの館に通っているのだ」
これさえ無ければ、あんな事には。と、昨晩の事を思い出しかけて、ぐしゃぐしゃと丸めて頭の中で捨てた。
「クルルス様に頼まれました」
「正直に言え」
ディアは、顔色を変えて口を閉ざす。
クルルス様は全責任を負っているが、起点には居ない。起点には別の誰かが居る。
何故なら、自分の息子を安心して任せられる侍女をあえて減らし、妻を疲弊させるなど、おかしいからだ。
ディアもローズも、王の権力に縋って上手に誤魔化したつもりだろうが、そうはいかない。こっちはパルネア人侍女の夫を一年やっているのだ。その前から何年も見ていた。言い逃れの方法は熟知している。
「クルルス様です」
ローズが慌ててディアに助け船を出すが、それを全力で叩き壊す。俺は怒っているのだ。
ローズを見据えて俺は低い声で告げた。
「今はディアに聞いている。……これ以上何か言うなら口を塞ぐからな」
何でどうやって塞ぐかは、勝手に考えろ。
青くなったり、赤くなったりしているローズをそのままに、俺はディアの方を向いた。
「城は深刻な人手不足だ。小さなカルロス様が居るのが分かっているのに、何故こんな事になっているのだ」
起点に居る誰かは、ミハイルの存在を知らない。だから予測した結果から、今の状況は大きくずれてしまっているのだ。
「依頼者は、アリ・マハドル様です。クルルス様に許可は取るからこちらへ通えと言われました」
ディアが白状した。
「やはりそうか。……兄上と研究所に行って、アリ先生と何を話したのだ?兄上との関係について何か聞かれたか?」
「いいえ何も……。パルネアでのモイナについての話ばかりでした。クザートの事は全く話していません」
「は?」
呆気に取られて、俺は間抜けな声を出してしまった。
「本当です。研究所に着いてからは、クザートとずっと別行動でした。アリ様と話をしたのは、帰り際に数十分だけです。ずっとモイナが別の研究員の方々と居るのに付き添っていたので」
ディアの答えは、迷いが無い。本当にそうだったのだろう。
「クザートは研究所からの帰り道、ずっと考え込んでいて、何も言ってくれませんでした。私はお城の仕事があるのに、アリ様にいきなり見知らぬ館に行ってくれと頼まれた事を、相談する事も出来ませんでした」
クザートは、自分の力が漏れている事について、全くディアに話していないらしい。
俺は仮説を立てた。
アリ先生からディアに何か言うのを、クザートは全力で止めたのだ。俺でも過去の話はローズに知られるのは我慢ならなかったのだから、クザートも同じだった筈だ。凄い迫力だったに違いない。
それでアリ先生はクザートの説得を諦め、クザートが自らディアに話すように仕向ける事にしたのだ。ディアをハリードの館に向かわせ、クザートに迎えに行かせようとしたのだ。そこまですれば、話をしない訳にもいかないと考えたのだ。もしうまく行っていれば、話は一日で済んだだろう。
「こちらに通い始めてすぐに、クザートがこの館に来ました」
ハリードが顔を上げる。……聞いていないと言う顔だ。
「ハリード様もミハイル様も、お城に行っていて留守でした。私はこの館の中をお掃除していました。クザートが来てくれて、これで色々と話ができると思ってとても嬉しかったのです」
ディアの反応は、正にアリ先生の望む通りだ。しかし、嫌な予感しかしない。
「その時、館の中はどうなっていた?」
嫌な結論を先送りすべく、一応質問をしてみた。
ディアが暗い表情になる。
「広い館ですし、すぐに綺麗にするのは一人では難しく……お恥ずかしい状態だったかと思います」
俺でも怒ると思う。
アリ先生に頼まれて、黙ってローズがハリードの館に通っているとする。知ってすっ飛んで言ったら、汚い館を掃除しているのだ。
そんな場所には置いておけないと、引っ張り出そうとするに決まっている。
「クザートは、私にすぐ帰ろうと言うので、この館には子供も住んで居るから、このままには出来ないと言いました」
モイナの母親として、とても良識的な意見だ。でもクザートは聞かなかったのだろう。カイマン家の内部事情など、知った事では無いと思ったに違いない。
そこで、ディアの目に涙の玉が浮かんだ。
「放って置けと言いました」
兄上……やらかしたな。
「パルネアでずっと放って置かれて、私がどんな気持ちだったのか、全く分かっていないのだと思ったら、大嫌いって叫んでいました」
ディアの涙がぽとぽとと膝の上に落ちて、スカートを濡らす。同じ人間なのに、こっちの泣き顔は綺麗過ぎて心が痛い。
こんな綺麗な女に嫌いだと叫ばれたら、好きでなくても心が折れそうだ。クザートが閉じこもって出てこない理由がようやく分かった。
「クザートは、何も言わずに帰っていきました」
「……それで誰にも相談できず、出仕のふりをしてここに通っていたのか」
「はい。本当はローズに相談するべきだと思っていたのですが、言えませんでした」
「何故だ?俺のせいか?」
「いいえ……私、ローズに嫉妬していたのです」
ディアは悲痛な思いを口にした。
「嫌いだなんて嘘です。パルネアに居た頃は、異国の人だからと誤魔化して諦めていた気持ちを、ここでは整理できません。だって会いたければ会えるし、触れたければ触れられる場所にいるのです。それなのに、クザートは何も言ってくれなくて。ローズがジルムート様と仲睦まじく過ごしているのを見て、とても切なくなってしまったのです」
思いがけない言葉に、俺だけでなく、ローズも目を丸くしている。
同じ上層に勤務していて、俺達は一緒に居る機会が多い。ディアはそんな俺達を見ていたのだ。結果、クザートと上手く行かないディアの気持ちを刺激していたらしい。
「ここに居れば、お城であなた方を見なくて済みます。それもあって、ここに居ました」
「何というか、その……」
俺の言葉を遮る様に、ディアは首を左右に振った。
「お二人の在り方は節度があって、不快感を与えるものではありません。……私の愚かな心が全部悪いのです」
俺は暫く考えてから、言った。
「ディア、とにかく少し休んでもいいから、城に戻ってくれ。ここの事は俺に任せて欲しい」
とにかくクザートに状況を話して、ディアは疲れているから休ませて……。
と、思っていたら、いきなり隣から声がした。
「そんなに好きなのに、何で好きって言わないんだ?」
俺は驚いてコピートの方を向いた。
「好きなのに好きだって言わないから、人を見て嫌な気分になったり、クザート様本人に大嫌いなんて、思っていない事を言ったりするんだろう?」
「おい、コピート!」
俺が制止しようとしても、コピートは止まらなかった。
「隊長が止めても言う。城の上層がどれだけ迷惑を被ったと思うんだよ。俺、一生分くらい働いた気がするし、隊長はカルロス様の子守りの上に、こんな訳の分からない事の処理まで背負っている。ローズ様が何も言わないからって城の仕事丸投げとか、おかしいでしょう」
俺だけが怒っている訳では無かったらしい。しかも、意見には突っ込む隙が無い。
「ローズ様に聞いた限りでは、侍女は金を積んででも館に置きたくなる様な凄い仕事だそうだが、違うのか?」
コピートの言葉に、泣いていたディアは涙を拭って顔を上げた。
「その通りです」
「クザート様に好きだと伝えて来いよ。どうなるかは知らないけれど、はっきりしないままだからそんな事になるんだ。とにかく、今のまま城に来られても迷惑だ」
コピートの言葉で暫く沈黙した後、ディアはすっきりした顔になった。
「そうですね。……そうします」
「ディア?」
「ディア様?」
俺とローズが驚く中、ディアはあの聖女の微笑みを取り戻して、言った。
「コピート様のお言葉で、目が覚めました。これ以上ご迷惑をおかけしない為に、決着を着けてから城へ出仕します」
俺は慌ててコピートを立たせると、部屋から引きずり出した。背後では、ローズがディアの側に移動していた。
「何て事をするのだ。兄上が騎士廃業になったらどうするのだ」
俺が睨むと、コピートもこちらを睨み返して来た。
「俺は間違えた事は言ってないから謝らないし、ディア殿を煽った事も後悔しない。早く出仕してもらわないと本当に困る」
意図的に煽ったのか。質が悪い。
しかし、やる気無しが何故そこまで怒るのか、分からない。
「中層の議員達が、長く出仕して来ないクザート様の事を嗅ぎまわり出して、ラシッド様がそいつらを殺そうとしているし、ナジーム様が、結局下層の代行もやっているし。俺、その阻止や手伝いして、上層の指揮まで執っているから死にそう」
聞いていない。俺に黙っていたのか。
「上層では、年下の俺に使われて、他の騎士達が凄く不満そう。俺は図々しいから平気だけど、普通の神経の騎士なら具合悪くなってると思う」
それも知らなかった。俺が居ないとそうなるのか。
「俺は新婚だよ?家でファナと一緒に居たいのにその時間も無い」
……それは、良く分かる。
「クザート様とディア殿が出仕すれば、全部解決すると思って俺は我慢した。出仕しない理由聞いたら、怒って当然でしょうが」
こいつ、頑張っていたのだな。
俺はコピートの頭に手を置いて、思わず撫でていた。ルミカにやっていた癖だ。
「色々苦労をかけたな。よくやってくれた」
コピートは手を叩き落すくらいするかと思ったが、そうはしなかった。大人しく撫でられて、恥かしそうに視線を逸らしたまま言った。
「ファナが馬鹿に殴られた時、俺、力を使ってしまって落ち込んでいたんだ。そうしたら、ローズ様が隊長は優しい人だって言ったんだ」
俺は驚いて撫でる手を止めた。
「騎士を辞めたいなら、相談していいってあの人本気で言ったんだ。王様は無理だけれど、なりたい者になればいいって。何言ってるんだよって思ったけど、ちょっと信じたくなった。それで隊長の事をよく見る様になったら、クルルス様の護衛をこなしながら、凄い量の仕事を一人で背負いこんでいるのが分かってしまったから……手伝わなきゃって気になったんだよ」
気付かない内に、ローズのお陰でコピートは色々考えを変えて、俺に懐いてくれるまでになったらしい。くすぐったくて、嬉しい気持ちのままに、また頭を撫でてしまった。
「もういいって!」
さすがに手をはたき落とされた。でも俺は嬉しい。
「今聞いた事は全部任せろ。後は俺が……」
「そうじゃなくて、皆でやるようにしてくれよ!他の騎士も上手く使ってさ!いつまでもリヴァイアサンの騎士頼みじゃ、隊長の所も、俺の所も、子供が出来ても騎士にしかなれないじゃないか」
子供……。
「王政は、いつか知らないけれど廃止されるんだろう?その時に、王族は自由になるのに、リヴァイアサンの騎士はそのままだったら困る」
頼もしくなったコピートの事が嬉しくて、思わず俺は笑ってしまった。
「分かった。考えてみよう。でも、敬語は使え。親になる気ならな」
「使いますよ!敬語。使えばいいんでしょ!馬鹿にしないでください」
また少し笑ってしまった。
少なくとも、コピートは成長している。新しい意見をくれる貴重な存在になったと言えるかも知れない。
相変わらず、腹立たしい事は腹立たしいままだし、クザートの事を考えると心配になる。しかし、悪い事ばかりでは無い。
俺ばかりが辛い訳では無いのだから、一緒に頑張ればいいのだと思った。




