序列一席は忍耐力が必要です
地下の怪物……ジルムートが十歳から十二歳の間、地下で幾度も遭遇した脱獄犯。異能が無ければ太刀打ちできない様な人間離れした身体能力を持っていた為、ジルムートは今も生きていると信じている。
腹が立つ。凄く腹が立つ。
俺の大事なローズを、地下に入れたコピートがまず許せない。
地下はポートで最も深い闇だ。夜のポーリアを一人で歩くよりも危険なのだ。
出入口が一つしか無く、見張りが居るから出てこないだけで、牢を脱獄し、生き永らえている犯罪者が居るのだ。そいつは怪物と変わらない。俺が子供の事から住み着いて、今も地下に居る。
どういう罪人だったのか、名前すら俺には分からない。ただもう理性の様なモノは残っていない。異常性と本能だけが残っている様な状態だった。
リヴァイアサンの騎士であれば、あいつが襲って来ても返り討ちに出来るが、そうでない者は太刀打ちできない。
あれは実際に見ないと分からない。そういう類のものだ。だから、俺が話しても信じてもらえない。
ハリードなら分かると思うのだが、こんな話をする程、話をした事が無い。
とにかく俺は、あいつが死んだと思っていない。そんな物騒な場所へ俺の居ない隙に連れて行った事が許せないのだ。ローズには二度と地下に入らないで欲しい。
次にハリードだ。同類の様な気持ちを持っていたが、俺とは違う。断じて違う。
ハリードが、弟の面倒を見てきちんと養育していれば、こんな事にならなかったのだ。よりにもよって、何の手続きもしないで、城の地下に連れて来ていたと言うのが我慢ならない。
しかも、使用人を新しく雇えていない。
オズマの代に居た使用人は、主が暴君の様だったから、死ぬと同時に逃げ出したのだろう。後妻だと言う女がどうしたのかは調べないと分からないが、後妻の存在そのものが役所に届け出されていない可能性もある。探し出すのはかなり難しいだろう。
ハリードばかりを悪いとは言わないが、当然俺としては優しくなれない。
最も腹が立つのは、ローズに俺の過去を話した者が居ると言う事だ。
何時からなのか分からないが、教えた者は一人では無いだろう。
昨日の夜、問い詰めた時に気付いた。ローズは全てを知っていて隠す為に、あんな事をしたのだ。……初めてだったのに。俺を怖がって怯えて。あんなのは絶対にカウントしない!
ルミカの言う通り、俺がどんな人間であれ、ローズは拒まない。俺も、拒まれた所で手放す気は無い。一人にはさせられない。
俺ばかりが問題だらけに見えるのだろうが、そうじゃない。ローズはリヴィアサンの騎士よりも珍しい、異世界の記憶を持っている。俺だけが知っている事だ。
俺は変わった記憶だが、耳かき程度の雑学ばかりだから、黙っていれば大丈夫だと思っていた。
しかし、そうではないと思い知る出来事があった。ポートで紙幣が発行されたのだ。俺は戦慄した。ローズの言っていた『紙のお金』が本当になったからだ。
話を聞いた時に、そんな物が出来るなんて思っていなかったのだ。この調子では、紙幣を本格的に運用する為の機関である銀行とやらも、やがて出来るに違いない。……ローズの知識は、絶対に外に出してはならない内容を含んでいると知り、一気に見方が変わったのだ。
ローズは、うっかり前世の記憶を漏らす事がある。体に生まれつき馴染んでいるから、違和感なく口から出てしまう。
俺は、そんなローズを守らなくてはならない。……この力と騎士団での地位があれば、守り切る事が可能だ。どんな手を使ってでも守る。
ローズに嫌われそうな野蛮人の発想だが、俺は決めたのだ。辛かった過去は全て、今の為にあったのだと思っている。
武闘大会の前、ジャハルの話を聞いたのがきっかけで、俺はそう思える様になった。だから、俺の力が不安定になって漏れる事は多分もう無い。この力は俺に必要なものだと、俺自身が認めて受け入れたからだ。
しかし周囲は知らない。分かる筈もない。俺の変化が受け入れられるのは、もっと後だろう。二十年、力を制御できなかったのだ。
頭では仕方のない事だと分かっている。……でも感情が怒りに振り切れて元に戻って来ない。
特に、目の前でガクガクと震えながら、焦点の会わない目で弟に抱き着いているおっさんを見ていると、俺もこんな風にローズに頼らなくてはならない様に見えたのだろうかと、そんな解釈が頭に浮かんで消えない。
馬車の御者台には、コピートが居る。
馬車には、俺とローズが並んで座り、その対面には、カイマン家の兄弟が座っている。
ハリード・カイマンは、俺より二歳年上の三十二歳だ。
金髪に碧眼で、浅黒い肌をした典型的なポート人だ。俺より上背がある上に、騎士服の下にずっしりと筋肉が付いている。俺も筋肉量はある方だが、こいつ程ではない。
顔立ちは、年上のクザートより老けて見える。三十代後半から四十代と言っても通じる。
前見た時には無かった顎鬚を、薄く生やしている。無くても強そうだったのに、老け顔に拍車がかかり、更に貫禄が出ている。
そんな風貌であるにも関わらず、俺より大きな体を丸める様にして、弟のミハイルに抱き付いている。
これと同類は嫌だ。断じて俺はこいつと同じではない!
頭の中で繰り返しそう思いながら、腕を組んで、馬車に黙って座っている。どうせ今声をかけても、まともな答えは返ってこない。……館に着いた所で、普通に対話出来るとも思えないが。
ハリードが、ミハイルと逃げ出そうと地下からの階段を上っている所で鉢合わせて、今に至っている。
地下から地上への出入口が一つしか無いお陰で、地下の怪物は外に出てこないし、ハリードを逃がさないで済んだ。城の構造は本当に優れものだと思う。
取り押さえて、ローズをコピートに呼びに行かせたのだが、俺が見ている限り、ハリードはずっとこの状態だ。弟の方が、まだ落ち着いて見える。
ローズはハリードが酷い有様なので、対応に困って俺の方をたまに見ているが、俺はそれに応じていない。
久々に見たハリードの姿が衝撃的過ぎて、普通の受け答えが出来ないから黙っている。俺も落ち着かなくてはならないのだ。
館に着いて、馬車がゆっくりと止まる。
その音と共に館の扉が開いて、見覚えのある女が出迎えに出て来る。ディアだ。
ディアは、御者台にコピートが居るのに気付いたのか、足を止めて馬車を驚いて見ている。
嫌だが仕方ない。下りて事情を説明する事にした。予想通り、俺を見てディアは顔を引きつらせた。
「ジルムート様……」
「今回、城に出仕して来ない件について、説明してもらう為、足を運んだ。話は館で聞くから、中に入れてくれ」
「でも」
「ハリードもミハイルも一緒だ。あいつらからも聞かねばならない事が山程あるのだ。……ローズも居るから安心しろ」
ローズが馬車から飛び降りて来て、ディアに駆け寄る。
「ディア様!お元気そうで良かったです」
「ローズ……」
「ディア様が出仕しない間に、色々あったのです。……セレニー様が政務に戻られました」
「え?」
「クルルス様からの要請です。それで、セレニー様の信頼に足る人材が足りず、子守りをジルに手伝ってもらっています」
ディアが目を丸くしてローズを見てから俺を見る。
「ジルは序列一席の騎士です。長く手伝わせる訳にはいきません。お願いです。早くお城に帰ってきてください」
ローズの言葉で、俺がディアの居ない穴を埋めている事を理解した途端、ディアは凄い勢いで頭を下げた。
「すいません!お許しください!」
「……ここは目立つ。中に入れてくれ」
俺の言葉で、ディアは侍女らしくなく、走って館に戻ると、扉を大きく開いた。
「皆さま、中へ」
使用人が居ないので、コピートが馬や馬車を館の外に繋ぐ。俺達は先に中に入った。
初めて入ったが、うちの館と大して変わらない作りで、綺麗に片付いていた。
ディアがやった事だろう。
談話室も片付けられて綺麗になっていたが、ソファーは古いままで、上から新しい布をかけてあった。
虫食い穴でもあるのかも知れない。ディアが勝手に手配する訳にもいかなかったのだろう。ハリードがこの調子では、新調の相談など、できなかったのかも知れない。
ローズも手伝い、茶が全員に行き届き、コピートとローズが俺の左右に座り、対面にミハイルを挟んでハリードとディアが座ると、空気が一気に重くなった。
……この状況で、俺が取り仕切らねばならないのか。誰の話からすればいいのやら。
俺はため息を吐いて、まずはミハイルに話しかけた。ハリードは相変わらずで話が出来そうにないからだ。
「自己紹介が遅れたが、俺は騎士団序列一席のジルムート・バウティだ。名前はミハイル・カイマンで合っているか?」
ミハイルは俺を警戒しながら、小さく頷く。
「年は十一歳で合っているか?」
また小さく頷く。
「心して聞いて欲しい」
俺は前置きしてからミハイルにゆっくりと伝えた。ここで怖がられては話にならない。
「お前には怪力がある。リヴァイアサンの騎士の力だ。普通の人間とは違う。ポートで暮らすには、国王陛下に必ず居場所や年齢を伝えなくてはならない。だから、俺はお前に会いに来た」
ミハイルは、暫く考えてから言った。
「俺の力は、そんなに大きくない」
「ハリード程の力は無くとも、普通の人間よりは強いのだ」
「普通の人間と何処が違うの?」
一瞬、言葉に困る。少し考えて告げる。
「ディアみたいな者達が普通の人間だ。俺達に比べて、重たい物を沢山持てないだろう?男でも、俺達程の力は無い」
ミハイルは信じられないのか、兄の方を見た。ハリードが頷くと、驚いて呟いた。
「知らなかった」
それくらい教えておけよと言うイラつきは、とりあえず我慢した。話を先に進めなくてはならない。
「そうか。……俺達はその力を活かして働く為、成人したら騎士団に入らなければならない決まりになっている。ハリードも騎士団に入っている」
そこで、あまり分かっていないミハイルに現実を突きつけなくてはならないので、言葉を一旦切って、名前を呼んだ。
「ミハイル、十五歳になったら、お前も騎士団に入団しなくてはならない。それまでに覚えなくてはならない事もあるから、ハリードと一緒に城の地下へ行くのはもう終わりだ」
俺の言葉に、ミハイルは一瞬目を丸くした後、戸惑ってハリードを見た。
ハリードは、大きく首を左右に振って、弟に抱き着く。おっさんの仕草では無いな。
「嘘だ!信じない」
辛うじて我慢した。俺は今、忍耐力の限界に挑戦している。
「ハリード」
俺の呼びかけで、更に弟にしがみ付くおっさんに、俺は続けた。
「ずっと俺達を避けていたのは、ミハイルの存在を知られない為だったのか?」
俺の言葉に、ハリードは俺の方を初めて見た。物凄く警戒しているが、責めていないのは伝わった様だ。こいつと話すときは、どんなにイライラしても決して責めたりする様な表現を使ってはいけない。アリ先生にそう聞いていたからそれを実践する。
「お前が守ったのだな?」
他の者達は全く分からないと言う顔をしているが、ハリードには伝わったらしい。
瞳が一瞬揺れた後、小さく頷いた。
「そうだ」
久々に聞いた声は、想像以上に普通だった。話そうと思えば話せるらしい。
……弱い子供。オズマの性格なら、最初から無かった事にしそうだと俺は思っていた。だとしたら、届け出が無くても生きているのは、誰かがミハイルを助けたからだ。
ハリードは俺の様に、我慢できずに父親を蹴る様な真似はしない。
多分、立場が逆転してしまった俺やクザートと会いたくないオズマの心理を逆手に取って、城にミハイルを連れて逃げ込んでいたのだろう。
問題は、誰も信用しない対人恐怖症と言う所だ。オズマが死んでも、誰も頼れないからミハイルを連れまわしていたのだ。
オズマのやり口は、人を貶めてとことん尊厳を奪う。俺はそれを知っているから、ハリードをダメな奴だと完全に切り捨てる事が出来ないのだ。
「難儀だったな」
俺がぽつりと言うと、ハリードはみるみる目に涙を溜めて、ボロボロと泣き出した。
気持ちは分かるが……泣き顔が汚い。鼻水も滝の様に出て、顔があっと言う間にぐちゃぐちゃになった。顎から滴る液体が、抱き着かれているミハイルに降って行きそうだったので、俺は自分のハンカチを差し出してハリードに渡した。
「弟と一緒に出仕するのはもうやめろ。悪い様にはしない」
ハリードは顔にハンカチを押し当てて、確かに小さく頷いた。
ここで、カイマン家の兄弟に対する話は、一旦切り上げる事にした。