ジルムート、子守りになる
リンザ・オルレイ……上層で侍女をしている商人の娘。コピートの妻であるファナへの傷害事件をきっかけに辞める侍女も居る中、ローズを尊敬して侍女を続けている。
クザートが出仕して来ないのは分かる。しかし、何故ディアが出仕して来なくなったのか。
クザートの所へ行って聞こうとしたが、クザートは出て来なかった。
俺の結婚と同時に、うちに昔から居る使用人を数人連れて、別の館に移り住んだのだが、その使用人達も寝室には入れてもらえず、食事を差し入れているだけらしい。
「兄上」
扉の前で呼んだが、返事が無い。
凄い量の力が漏れているから、中に居るのは分かる。
「ディアが出仕して来ません。何かご存知ですか?」
「帰ってくれ!」
怒鳴り声がして、俺は思わず首を竦める。胃が痛くなりそうな緊張感が強くなった。力が更に漏れているのだ。怒鳴られた事にちょっとショックを受けながら退散する事にした。力が安定しないせいで神経質になっているのなら、刺激してはいけない。
クルルス様に聞くと、首を左右に振った。
「ジル、クザートの事も、ディアの事も考えるな。いいな?」
クルルス様は何か知っているみたいだが、俺は首を突っ込んではいけないらしい。
そうは言うが、ローズがまたやつれて来た。俺はとにかく休ませてやる事しか出来ない。
カルロス様が回転して動けなくなるので、皆緊張して見守っている。もう一度回転できる様になったら窒息の危機は終わるが、今度はベッドから落ちない様に見守らなくてはならないらしい。……回転して移動するのだそうだ。
医者の言葉に、ローズは固まっていた。他の侍女達も顔から血の気が引いている。
侍従達も育児に参加出来るのなら良かったのだが、セレニー様は子育てに男を介入させない。クルルス様以外に抱かせようとしないのだ。
ポートの王族は、乳を妃にもらう以外、侍従達が交代で世話をする。だから年配の侍従は子供の扱いに長けている。現役で、クルルス様の世話をしていた侍従がまだ残っているのだ。だから、若い侍女とローズだけで世話をしているのをハラハラして見守っている。
「何故、セレニー様は侍従達に子守りを頼まないのだ」
酷く眠そうなローズに聞いてみると、ローズが苦笑した。
「私にも分かりません。……セレニー様は警戒しています。カルロス様に、男性を近づけるのが嫌だと強く思っています」
「そうは言うが、人手が足りないのだ。少しは頼るべきだ」
「私も……そうしてくれたら……凄く……」
「おい、ローズ、ローズ!」
全部言わない内に、ローズはガクっと眠ってしまった。揺さぶっても起きない。どれだけ疲れているのかと思う。
最近、耳かきも互いにしていない。ローズは安らぐ暇が無い。俺にも無い。
俺は騎士だから、侍女の仕事に介入出来ない。クルルス様は考えるなと言ったけれど、こんな時の為にディアをポートに呼ばれたのではないのか?
ディアは何処に居るのだ。
母さん達は出仕していると思っているし、クザートは閉じこもって出て来ない。クルルス様は教えてくれない。考えるなとまで言う。
でも、これを放置する事は出来ない。
「クルルス様、このままではローズが病気になってしまいます。何とかして下さい」
翌日、俺はクルルス様にそう直訴した。
「セレニーに侍従達も使う様に説得をしている。男にカルロスの世話を任せるのは嫌だと言うばかりで、俺も困っている」
セレニー様は、あまり我が儘を言わない。どちらかと言えば質素なパルネアから来ただけあって、世話をあまり必要としない王妃だ。それだけに侍女の数が少ない。
ディアの働きを当てにしていた分、侍女は新たに増やしていない。
今から侍女を増やしても、セレニー様は新しい侍女にカルロス様を任せたりはしないだろう。
「セレニーはカルロスの泣きそうな雰囲気だけですぐ目を覚ますのだ。俺も起きて手伝いたいと思うのだが、俺はそんな物で起きられない。カルロスは気付くとセレニーの乳に吸い付いていて、俺のする事は腹の一杯になったカルロスを抱いて寝かせるだけだ。それも俺の方が先に眠くなって寝てしまうから、結局セレニーがやっている」
どうやら父親としてクルルス様は、あまり役に立っていないらしい。クルルス様の言葉を聞いて、俺は昨日から考えていた事を、恐る恐る言った。
「俺でもダメでしょうか」
「はぁ?」
予想通りの反応だ。
「セレニー様に納得してもらえる男の子守りで、少し慣れて頂けないかと考えたのです。俺は輿入れの護衛からずっとセレニー様と顔を合わせていますし、ローズの夫です」
クルルス様は何か言おうとしていたが、少し考えてから言った。
「セレニー本人に聞いてみよう」
クルルス様に連れられて、セレニー様の部屋に行ってみると、ローズがぼんやりと立ってカルロス様を抱いていた。
セレニー様は、疲れた様子でソファーに座っている。
他の侍女はリンザ一人だけだ。朝はもう二人居たのだが……多分交代で休まないと体力を維持できないから休んでいるのだ。まだ朝だと言うのに。
ローズが抱いている間は動かないから、リンザもセレニー様も少し楽になる様だ。
しかし、カルロス様は更に巨大化している。ずっと立って抱いていれば、ローズが疲弊するのは当然だ。
「……セレニー」
余りに凄惨な光景に、クルルス様が恐る恐る声をかける。
声も無く、セレニー様が顔をこちらに向ける。凄くやつれている。ローズよりも遥かに。
昨日の夜、ローズが館に帰って来てしまったからだと思い至る。クルルス様が役に立たないなら、セレニー様が朝から疲労困憊していて当たり前なのだ。
クルルス様は暫く考えてから、決意の表情で言った。
「大変な思いをしているのに済まない。睡魔に勝てない俺を許してくれ」
セレニー様の目にみるみる涙が浮かぶ。
「酒宴を控えて、早く一緒に眠って下さい。親子三人の時間を多く持てるようにお考え下さい」
クルルス様はそこでセレニー様に近づくとソファーの前で膝を付き、セレニー様に視線を合わせて言った。
「セレニー」
クルルス様は、そんなセレニー様の肩に手を置いてから言った。
「お前は王妃だ。以前の様に、外交や政治の話をする場に一緒に出て欲しい」
クルルス様の言葉に、セレニー様の目から涙が流れ落ちる。
「カルロスはどうするのですか?」
「カルロスは王子だ。お前だけの子では無い。分かるな?」
暗に、もっと大勢の手を借りる様に促しているが、セレニー様は言い返した。
「王制を廃止するのですよね?私は王妃では無く、あなたの妻で、この子の母親になりたいのです」
クルルス様は、一瞬痛みを堪える様な顔をしてから、真剣な表情で言った。
「お前が妊娠している間に、色々と問題が増えてしまった。お前の助けを借りられない事で悟ったのだ。……俺は無能では無いが、飛び抜けて有能でも無いらしい。ポートの王政廃止は俺の代では無理だ。カルロスにも王をやってもらわなくてはならない」
その言葉に、セレニー様が思わず顔を覆って泣き出した。
「期待させておいて、済まない」
クルルス様はセレニー様の頭を撫でた。
パルネアの方が王制廃止は進んでいる。多分パルネアは、シュルツ殿下が最後の王になるだろう。
政略結婚で輿入れしてきたセレニー様が、クルルス様以上に政務に詳しく、王政廃止のノウハウも持っている事を知ったのは、だいぶ後の事だ。政治家として、セレニー様は非常に優秀な女性だったのだ。
何時か生まれる子供の為に、王政廃止を進めておきたいと話をしていたのは、俺もローズも知っている。二人は良く頑張っていたと思う。
しかしセレニー様が妊娠し、王家が安泰だとなったら、議会は王族の存続に力を入れ始めたのだ。
王政廃止の為にそぎ落とした王族の権限はそのままに、城に飼い殺しにする様な方向だった。それこそ二人の望まない最悪の王族の姿だ。
セレニー様と二人で対抗していたクルルス様は、抵抗するのに一人では足りないと思い知る事になった。……クルルス様の刺さる様な言葉だけでは、議会は態度を改めない。クルルス様の出した提案には、セレニー様の後押しが必要なのだ。
賢く優しい女と言う女神の様な存在に免疫の無いポート人の政治家は、あの方の納得いく政治をしたいと、密かに慕っている者も多いのだ。下らない理由かも知れないが、政策で成果を出してセレニー様にお褒めの言葉を頂く。今、中層議会の議員にとって、想像以上に大きな動機と化しているのだ。
皆セレニー様の復帰を渇望している。クルルス様を王としてセレニー様は前面に押し出していたが、持っている政治手腕とカリスマ性は隠しきれない。王より支持者が多いのだ。
妊娠出産で大きく環境が変化しているセレニー様に言い出せず、クルルス様が悩んでいたのは知っている。男として妻に劣っていると認めたくない葛藤もある。俺はずっと悩んでいるクルルス様の話を聞いていた。
クルルス様は変わった。正しいと思う事でも周囲の理解を得られなければ、実現しないと悟ったのだ。王として正しいと思う事を強引に押し付けている限り、王はいつまでも王のままなのだ。
とは言え、知ってもすぐに実践出来るものでは無い。それがクルルス様の苦悩の原因だ。だから、セレニー様の助けが必要なのだ。
「カルロスの為に使っている時間を半分でいい。ポートの為に使ってくれないか?カルロスがやらなければならない事を、一緒に減らして欲しいのだ」
セレニー様は顔を覆ったまま、返事をしない。
「俺以外の男に預けるのは嫌か?」
セレニー様はそのまま頷く。
「ジルムートでもダメか?」
その言葉に、セレニー様がゆっくりと顔を上げて俺を見る。
「お前の信頼するローズの夫だ。そして俺の友であり、国で最強の騎士だ。こいつが抱いているのに悪さを出来る者など居ない」
俺は、セレニー様を見て言った。
「決して落としたりしません」
ここで頑張らなくては、ローズが倒れてしまう。
「力だけはあります。ローズよりも長く抱いている事が出来ます。泣いたらすぐにお連れします」
俺が必死で言うと、セレニー様は少し考えてから言った。
「カルロスが嫌がらなければ……」
試験だ。抱いて泣いたら即終了の試験。俺はローズの方を見た。カルロス様を抱いたローズは、驚いて俺とセレニー様を交互に見ている。
俺はローズに歩み寄って言った。
「抱き方を教えてくれ」
「え、でも……」
「セレニー様のお許しが出た。カルロス様を抱かせてくれ」
俺を見上げていたローズは、セレニー様を確認してから、俺に抱き方を教えて渡してくれた。
「体を立ててはいけません。頭が重いので、ちゃんと腕で支えて……そうです」
クルルス様、セレニー様、リンザが見ている前で、カルロス様は俺の腕に渡された。
想像していたより、うんと軽い上に俺の腕の中に入ると凄く小さかった。産まれた頃から見ているから巨大化したと思っていたが、直に抱いてみれば大した大きさでは無い。
ローズの腕から渡されて目を開いたカルロス様は、俺を見ている。
緑色の目を見つめて俺は言った。
「落としたり致しませんので、安心してお休み下さい」
どうか泣かないで下さい。
小さな王子に心の中で頼み込む。
すると、カルロス様はそのまま泣かないで俺を見続け、やがて飽きたのか寝てしまった。
途端、部屋の空気が一気に和んだ。
「体が大きいので安定感があるのですね」
ローズがほっとした様子で言う。
「ジルムート様、凄いです」
リンザも感激した様子で言う。抱ける人間が増えて、素直に嬉しいらしい。
クルルス様とセレニー様の側に、カルロス様を抱いて歩み寄る。
セレニー様は、俺とカルロス様を信じられないと言う表情で見た後、クルルス様の方を見た。
「カルロスは、王になるのですね」
「そうだ。そしてジルムートは俺だけで無く、カルロスも守ってくれる」
クルルス様の言葉に、セレニー様はしっかりとした表情で言った。
「私……政務の場に出ます。王妃として、出来る事をやります。お手伝いさせて下さい。ジルムート、騎士のあなたには申し訳ないけれど、暫くの間、カルロスの事をお願いします」
「承りました」
俺はカルロス様を抱いたまま、軽く一礼した。
「ありがとう。セレニー」
クルルス様は、セレニー様を抱きしめた。
そうして、俺は侍女と共にカルロス様の子守りをする事になり、護衛や上層の管理を、暫くコピートに任せる事にした。
「何で隊長がカルロス様の子守りなの?おかしいよ」
「敬語を使え。……ディアが城に来ない。このままではローズが倒れてしまう。ディアの代わりに、誰かが手を貸さなくてはならない」
「だからって、おかしいです。隊長は騎士で護衛として城に勤めているのに」
「試しに抱かせてもらったら、泣かなかった」
コピートは目を丸くして俺を見てから、不機嫌そうに言った。
「だったら、侍従達にも片っ端に渡して抱かせればいいんですよ。一人くらいは泣かない人がいる筈です」
「それは徐々にやる。カルロス様は王子だ。物の様に扱う事は出来ない。それにセレニー様の意思を尊重する必要があるから、急には無理だ」
コピートは納得していないのか、不服そうにしている。納得しないとサボられてしまうので、俺は言った。
「私情になるが……愛する妻が苦労しているのを放っておけなかった」
ローズの事を考えたら、こうするしか思い浮かばなかったのだ。
コピートは俺をじっと見てから、ため息を吐いた。
「それなら分かります。……仕方ないですね。協力しますよ」
「助かる」
「じゃあ、それを伝えがてら見回りに行ってきます」
コピートが出て行って、俺は詰所の椅子に座った。
コピートは、リヴァイアサンの騎士が国に縛られる事自体に疑問を持っている。だから騎士になって国に仕えてもやる気が無い。
機転も利くし、気遣いも出来るのに、敬語をよく忘れるのはそのせいだ。
頭ごなしの命令を嫌がるのは、副官にしてからずっとだ。
それで、ローズのしていた鎖帷子の洗濯の話をヒントに、閃いた事を口にした。
同じ事を一緒にしている者同士の共感みたいなものが、コピートを素直にさせるには必要だと思ったのだ。同じリヴァイアサンの騎士で妻帯者であると言う部分を突いたのだ。
まさかの大当たりだった。こんな風にコピートとすんなりやり取りできたのは、初めての気がする。
そこでふと、平気でローズの事を『愛する妻』と言った自分に気付く。
今更だが、顔下半分を片手で覆った。顔が熱い。赤面もせず鼻血も出さず、よく平気で言えたものだと思う。
さっきは意識せずに言ってしまったが……凄く無いか?俺。結婚前なら、口が裂けても言えなかった事だ。結婚してまだ一年だぞ?
言っても、誰もおかしいと言わない。理解できるとまで言われるのだ。こんな未来が来るなんて、想像もしていなかった。
顔を覆っていた手を下し、周囲を見る。詰所には誰も居ない。それをぼんやりと見てふと思い出す。
『兄上が強いからと罵る者はもう居ません』
ルミカが言っていた言葉は本当だった。
俺は妙に安心して、大きく息を吐いてしまった。




