ジルムート・バウティはぶれない
私とジルムートは、ほぼ無言でお互いの部屋へと引き上げた。
夜も遅かった。引き留めてまだ話をする事も出来たけれど、話した所で良い案が出るとも思えなかった。
着替えてベッドに横になったものの、眠れる気がしない。
侍女と言う仕事は人に奉仕しても、自分が甘えないと言うのが鉄則であり、矜持でもある。
ディア様は凄い侍女だから、私なんかでは受け入れられないレベルの事も、平気で受け止めてしまう。だから、今こんな目に遭っているのだ。我慢できる人に程、しわ寄せと言うのは行く様に出来ている。
オーディスの事を最後まで責めなかったディア様だが、私からすればオーディスは自己満足の為に謝罪しただけだ。
自分の心の平穏を一番に考えていた身勝手な男が、それをディア様によって満たして死んだ。それだけの話だ。
悪意の無い悪意。
自分の行動を善行だと信じているから、相手に無理を強いている事に気付かないのだ。
誰でもやる事はある。しかし、オーディスの場合、酷過ぎる。
ディア様がお腹の子の父親と結婚したいと言わないからって、自分が結婚して財産を差し出せば謝罪になるなんて、ディア様が望むかどうか、聞きもしなかったに違いない。何て馬鹿なのだろう!
これ以上済んだ出来事に怒っていても仕方ない。落ち着かないと。
目を閉じて、大きく息を吐く。
はっきり言えば、私はクザートの事は心配していない。
強い人だ。今までモイナと居なくても平気だったのだから、これからも一緒に居られなくても耐えられる。本人もそう思っている。
しかし、ディア様は違う。
クザートを想い続け、その子供に愛情を全て注いで育てて来た。
ディア様にとって、モイナは全てと言うに等しい存在だ。
二人を引き離す訳にはいかない。それだけは、はっきりと分かる。
しかしディア様はポート城の上層に勤める侍女としてポート国民になり、移動制限の付く身となる。
ディア様はポートから出られない。
モイナはポート国内に居られない。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
「何で呼んじゃったの?私の馬鹿!」
思わず叫んで、枕を壁に投げつけてしまった。枕に当たっても現実は変わらない。
いくら王妃付きでも侍女は侍女。王様に偉そうに説教をしたりしても、権力が絡む事になれば、出来る事など……何も無いのだ。
モイナの無邪気な顔を思い出すと涙が出そうだ。
何がリヴァイアサンの騎士よ。そんなの知った事じゃないわよ!
結局、明け方にうとうとしただけで、殆ど眠れなかった。
朝になって、セレニー様を起こしに行くと、驚かれた。
「ローズったら、何て顔色をしているの!」
「最近忙しいので、寝不足なだけです」
「あまり無茶はしないでね。ジルムートが心配するわ」
「気を付けます」
月並みな返答をして、私はセレニー様の朝の準備を手伝う。
医者による体調変化の問診、クルルス様、シュルツ様と共に朝食、産まれるお子様の為の部屋の家具についての相談……。
午前中はあっと言う間に過ぎて、昼食になり、食後、セレニー様はシュルツ様と庭園へ散歩に行く事になった。
コピートが護衛をしているので、安心して二人を見送る。
私は戻って来た時の為のお茶の準備をする。
終わってぼんやりしていると、リンザが声を掛けて来た。
「ローズ様、セレニー様がお戻りになるまで少しお休みになられてはいかがですか?」
酷い顔をしているから、心配されてしまったらしい。
「ありがとう。じゃあ、少しだけお願いします」
笑ってみたが、上手く行った自信は無い。
上層の侍女達が交代で休憩を取る控え部屋に入ると、ソファーにだらしなく座って目を閉じる。
耳かきがしたい。凄くしたい。
何年も耳垢をためていて、もう栓みたいになっている人の耳垢を、ごっそりと取るの。綺麗に取れたら気持ちいいだろうなぁ。
それが無理なら、あの硬い石みたいな太腿に寝転がって、耳かきされて思う存分寝たい。そして起きたら、今の状況は全部夢で……。
そんな事をぼんやりと考えていると、ノックの音が聞こえた。
「はい」
「ジルムートだ。ちょっといいか?」
ぎょっとして跳ね起きる。
ここは侍女の控室だから、ジルムートは入って来ない。
「ちょっと待って下さい」
身だしなみを整えながらドアを開けると、ジルムートが立っていた。
「休んでいる所済まない。……コピートから侍女伝いに伝言があった。お前の調子が悪そうだと。それでここに居ると聞いて来たのだが……寝ていないのか?」
「あんな話の後でしたので」
ぽつりと言うと、ジルムートは困った様に頭をかいた。
「実を言えば、俺も寝ていない」
ジルムートの様にシャキっとしていられない自分が情けない。
中層で事件のあった日は気を張っていたから館まで我慢出来たけれど、今回は上手く行かなかった。
「私のせいでしょうか……私がディア様にポートに来て欲しくて呼んでしまったから、こんな事に」
違うと否定してもらって、満足したいだけの弱音。弱った心の言葉がするりと口を突いたのと同時に、視界が歪む。
ジルムートがぎょっとしている。
「すいません。仕事に戻ってください」
そう言って侍女部屋に戻ろうとしたら、いきなり体が浮いた。
お姫様抱っこ……では無かった。
初めての出会いを思い出す。ジルムートの脇に抱えられているのだ。
「ジル!」
返事は無く、足早に何処かに移動していく。
私は慌てて上半身を起こしはしたが、足はブラブラしているし、暴れてもびくともしない。
方向からして、ジルムートが城で寝泊まりするのに与えられている部屋だろう。
酷い恰好のまま、私は数人の騎士や侍女に見られる事になった。思わず両手で顔を覆う。
恰好悪いにも程がある。
何て扱いをするのよ!明日から、城でどんな顔をすればいいの?
私の考えなど全く気付いていない様子で、ジルムートは足早に進んで、ドアを乱暴に開けると部屋に入った。
私はこの部屋に未だかつて、一度も来た事が無い。騎士の部屋が続いている場所なので、女性はあまり来ないのだ。
侍女の部屋と一緒の造りだ。
わざわざこちらに連れて来た意図は分からないが、脇に抱えられた状態からベッドに軽々と座らされてしまった。そんなに軽くないと思うが、子供の様に扱われた。……怪力だったっけ。
耳かきで寝てしまった時もこうやって運ばれていたのだと思うと、失望感を覚えた。お姫様抱っこを想像していたせいだ。
何より、そんな抱えられ方をしても爆睡していた自分が嫌だ。
ジルムートは向かい側に座らないで隣に座って私の顔を覗き込んでから、驚いて言った。
「泣くかと思ったが……怒っているのか?」
「……色々とあって、泣けなくなりました」
麻袋みたいな扱いをされたのだ。許せない。
睨むと、ジルムートは拍子抜けした様な顔をしてから、真面目な顔に戻って言った。
「どうしたい?」
「どう、とは?」
「どうなれば、お前は泣かないで済む?」
何の事を言っているのか分かるまで暫くかかる。そして、ようやく昨日の夜の話だと理解した。
まさか、私が望む結果を出そうと考えているのだろうか?
無茶苦茶だ。慌てて言う。
「クザートとディア様の問題です。ジルが必要以上に干渉するのは良くないと思います」
「いいや、もう俺の問題でもある」
ジルムートは続けた。
「兄上とディアの問題であるなら、何故無関係なローズが泣かなければならない?」
「それは……」
「兄上がどう決着を着けるつもりなのかは、昨日聞いた。しかしその方法だとお前が泣く。だったら何とかするしかあるまい」
真面目な顔でそんな事を言わないで欲しい。麻袋扱いされた事も、全部許してしまいそうだ。
それどころか、力いっぱい抱き付いてスリスリしてしまいたい衝動に駆られる。
しかし素直に嬉しいと甘える事は出来ない。
何故なら……騎士団で一番力のある人だからだ。序列一席。その地位はとても重い。しかも有言実行の人だ。やると言った事は迅速かつ確実にやって来ている。
それだけに迂闊な事を言えば、ポート騎士団がどうなるか分からない。
それは困る。絶対に困る。
黙っていると、ジルムートは言った。
「俺だって、本当は嫌だ」
ジルムートは、情けない顔をしていた。
「どうしたら兄上がディアとモイナと暮らせるのか。昨日寝ずに考えたが、良い方法を思いつかなかった」
「そんな物、ある訳ないです。切れ者のクザートが、父親として出した結論を覆すのですから」
モイナを肩車していたクザートを思い出す。
可愛いに決まっている。ようやく会えたのだから、手放したくなど無い筈だ。
それでも、手放すつもりなのだ。ディア様とモイナが泣いても、自分が苦しくても。
「クザートを説得するのは無理です。モイナの安全を保障する事が出来ないのですから。でもディア様もモイナも、クザートみたいに強くありません。……心が壊れてしまいます」
声が震える。引っ込んでいた涙が復活する。
泣くな……我慢だ。
自分に心の中で言い聞かせていると声がした。
「ちょっと触るぞ」
ジルムートはそう言うと、私の肩に腕を回して私を引き寄せた。……抱きしめられていると気付くのに暫くかかった。
今までこんな事をされた事が無いから、頭が真っ白になった。
「お前が気に病む事など何も無い」
回されている腕から暖かさが伝わって来る。
「騎士の身分もバウティ家の重みも知らずに向き合ってくれる相手が、俺達にとってどれ程希少か……今のお前なら分かるだろう」
黙って頷く。
「兄上は、ディアの気持ちに応えた訳じゃない。……本当に思い出が必要で、忘れて欲しく無かったのは兄上の方だ」
私は思わずジルムートを見上げる。
「あのクザートが、ですか?」
「そうだ」
ジルムートは続けた。
「国に奉仕し、兄弟と助け合い、母さん達を守って生を全うすれば、それでいいのだと思っていた。俺達はそう考えて共に育った」
ジルムートは苦しそうな表情で目を伏せた。
「しかし……出会ってしまったらどうにも出来なかった。兄上も同じだったのだろう」
胸が痛い。血を吐く様にジルムートは私を好きになってしまった事を責めている。
「俺はお前を守ると誓った。お前が兄上のせいで泣くなら、何としてでも兄上の考えを改めねばならない」
その言葉で涙腺が決壊した。
「やめて下さい……そんな事、しないで下さい」
涙が溢れて止まらなくなった。
「泣くな」
「でもクザートが納得する様な方法、どこにもないです。ジルも分からないんでしょ?」
「今の所はな」
「考え無しに言っても、クザートが折れない事くらい分かっているのに、そんな事簡単に言わないでよ!」
拳でジルムートの胸を叩いて、私は泣いていた。
酷い有様だが、もうどうにもならなかった。
寝不足、自分の失敗、どうにもならない現実、皆の気持ち……。もうあらゆる事で、思考が限界を超えていたのだ。
「簡単では無い。でも、諦めるな」
「諦めたくないけど、何も思い浮かばない。前世の知識なんて役に立たない。私はただの侍女で、出来る事なんて無い」
泣きながら心のままに言葉を口にする。
ジルムートは、私の頭を撫でながら言う。
「だったら俺が出来る事はやる。どうしたらいいか教えてくれ」
「モイナがクザートとディア様とポートで暮らしても、悪い人が何も出来ない様にして」
「分かった」
あっさりと応じるジルムートを、目をしばたかせて見上げる。
思わず本音を言ってしまったけれど、無理だ。
「でも、そんな方法は……」
「確かに今も考えがある訳では無いが、ローズにこれ以上泣かれたくない。何とかする」
この人……ぶれない。
私の涙を、黒い制服の裾で拭いながら、ジルムートは言った。
「お前は大事な事になると、一人で思い詰める癖がある。俺が居る事をすぐに忘れる」
ジルムートは、私の顔を覗き込んだ。
「もう一人でパルネアから来た侍女では無い。ローズは、ジルムート・バウティの妻で飼い主だ」
意外な言葉に目を見開く。
「耳かき文明の記憶と同じ様に、俺の力も使いこなせ」
ジルムートは、にっと笑った。
「俺一人でもお前一人でも出来ない事を実現する為だ。俺を頼れ」
「私が権力を悪い事に利用したり、大きな失敗をしたりするとは思わないのですか?」
「思わない。お前はセレニー様の信頼を裏切る事などしない。だから、クルルス様の騎士である俺が困る事は何もない」
ジルムートは、私の肩に頭を乗せた。
「前に兄上の事ばかり信頼している様に言っていたが……俺はローズを信頼している。だから俺の事も信頼してくれ」
好きで結婚した人にここまで言われて、拒む事など出来ない。
「分かりました」
少しならいいよね。
私は、ジルムートの背中に恐る恐る手を回して少し力を込める。
一瞬息を詰めたジルムートに、更に抱きしめられてしまった。怪力なんて言うけれど、ちゃんと調整出来ている。ちょっと苦しいけれど心地よい。
好きな人とこんな風に過ごせるのは、本当に幸せな事だ。だからディア様とモイナも、クザートと離れないで一緒に暮らせる事を、願わずにはいられなかった。




