ローズの大失敗
結婚以来、寝た場所と起きる場所が違うと言う事が何度も起こっている。
私自身まだ納得できていないのだが、ジルムートに耳かきをされると朝まで寝てしまう様になったのだ。
「反対だ。向きを変えろ」
なんて言われて向きをころりと変える所までは辛うじて意識があるのだが、それ以後の記憶が……無い。
ベッドに座って頭を抱える。
着ている服は普段着のまま。髪の毛はボサボサだ。
寝苦しいと思ったのか、髪の毛を留めているピンやリボン、服の腰紐は取り除かれてサイドテーブルに置いてある。
私の私室は、いつも話をしているジルムートの私室の隣にある。
石造で数百年に一度しか建て替えないと言うポートの館には、部屋と部屋を直接結ぶ内扉は一切無い。
一旦廊下に出て隣の部屋へ入ったのだ。使用人に見られていたら……
「いやぁぁぁぁ、見ないでぇぇ」
枕に顔を押し付けて、思わず叫んでしまう。
しかも、夫に頭のピンや腰紐を外されているのに気付かずに爆睡とか女としてどうなのか。
これでは、まるで耳かき酔いだ。
酔っ払いの様に耳かきに酔って、ジルムートに介抱されている現実。
私がどんなにジルムートの耳に技術を駆使しても、ジルムートはそんな風にならない。
ぐんにゃりとしていても意識はあるから、暫くするとすっきりした顔で起き上がる。何故私もそう出来ないのだろう。
そして、この後の展開に悶絶する。
ジルムートは確信犯だ。
私がこうなる事を知っていて耳かきをするのだ。その挙句、朝食で顔を会わす私が羞恥に耐えているのをニヤニヤして眺めるのだ。
嫌だったら、耳かきをされないようにすればいいのだが……酒好きが酒を止められない様に、耳かき好きはやっぱり耳かきが好きなのだ。
翌朝どれだけ恥辱にまみれても、耳かきをしてくれるゴツゴツした大きな手を拒む事は私には出来ない。
ずれた下着を整えつつ、のろのろと起き上がる。
パルネアに居た頃はコルセットを着用していたけれど、ポートに来て以来コルセットはしなくなった。
はっきり言えばコルセットは苦しくて痛い。紐を編み上げるのにも時間がかかる。私は嫌いだった。しかしポートでは、コルセットは少数派だった。
何と、日本に居た頃に近いブラジャーがあったのだ。
ポート人女性の民族衣装は、へそ出しで上下セパレートになっている。
お祭りの時しか今は着ないらしいけれど、千年前までは普段着だったそうだ。元々そんな服に慣れていた人達だから、コルセットなんて我慢ならなかったのだろう。
お陰で身支度が楽になった。
日本だったらおばさん用のブラジャーと言われそうな太いストラップのブラジャーだが、この世界では高級品だ。既製品は無いから全てオーダーメイド。レースも付けると、かなりのお値段になる。
王妃付きであり騎士団で最も強いとされる『序列一席』と呼ばれる騎士の妻である為、質素過ぎる物を身に着けていると問題視される可能性がある。だからそれなりにお金はかけている。
しかし、私が本当に望むのは高級感よりも機能性。
金属やプラスチックのホックがこの世界には無いので、皮紐やリボンを結んでブラジャーは固定しなくてはならない。
背中に編み上げて結ぶ場所があるから一人で身に着ける事が出来ない。
いちいち使用人の女性を呼んで脱着するのが嫌だったので、結婚した時に思い切ってお針子さんに相談して、フロントホックみたいなブラジャーを頼んで新調したのだ。
胸元にリボンの結び目が来る様にしてレースの花をあしらってもらった。可愛い仕上がりになった上に脱着が楽なので気に入っている。
お針子さんに胸の大きな女性には無理のあるデザインだと言われた事は、極力忘れる様にしている。
胸の谷間に紐の結び目が当たる心配の無いささやかな胸。それをデメリットでは無くメリットと考えられる様にして何が悪い?
そんな訳であっと言う間に支度が整って、私は重い気持ちで食堂に顔を出した。
ここに暮らして知ったのだが、ジルムートは朝から毎日風呂に入っている。朝晩二回入っているので、いつもさっぱりしている。クザートもそうだった。騎士は風呂好きらしい。
「良く眠れたか?」
「はい……」
渋々頷いてジルムートの斜め前、角の席に座る。
クザートやお母さん達が居た頃からこの場所が定位置だったから、そのままになっているのだ。
使用人達が食事の配膳を終えると、私達は黙々と食事を始める。
壁際に使用人が控えているので、昨晩の話は絶対にしない。ジルムートは、私が不機嫌に食事をしているのをニヤニヤして眺めるのが常だ。
しかし今日は予測と違い、至って普通だった。いつも通りの顔で豪快に食事を済ませていく。
あれ?
「美味しかったです」
疑問符を浮かべつつ私が使用人に食事の終わりを告げると、ジルムートが待ったをかけた。
「もう少し食べた方がいい」
そう言うとジルムートが合図をして、使用人達は部屋を出て行ってしまった。
「ジル?」
何が起こったのかと問いかけると、答えの代わりに目の前にスプーンが出て来た。
ジルムートがスプーンを差し出しているのだ。
「口を開けろ」
「自分で食べられます」
「全然食べないじゃないか。俺が食べさせてやる」
そのスプーン、ジルがさっきまで使っていた物でしょ?
「そんな恥ずかしい事出来ません!」
私が真っ赤になって言うと、ジルムートはニヤっと笑った。背筋が一瞬寒くなった。
「母さん達が言っていたのだが、痩せるとき女は胸から痩せるのだそうだ」
何?その恐ろしい情報!
青くなっている私に、ジルムートは悪魔の様な笑顔で言った。
「約束だから必要以上に触れたりしないが、必要があれば触れる。……ローズの何処がどう変わったかは、ちゃんと知っているつもりだ」
もしかして、胸が更に小さくなったと言われているの?
ジルムートは出していたスプーンを引っ込め、すっと指で私の胸の中心を指さした。
「その下着は、耳かき文明の産物か?」
もしかしてフロントホックの事を言っているの?
絶句していると、ジルムートの笑顔が悪魔から魔王に変化した。
「俺に黙って、前世の知識を漏らしたな?あれだけ危険だと警告したのに」
「そんなつもりは……」
と言うか、ジルムート相手にブラジャーのフロントホックについて語れと言うのか!
怖い笑顔のままジルムートが言った。
「それはやめろ。すぐに」
「何故ですか?」
ジルムートの顔から笑顔が消えた。
「昨日寝かそうとしたら、下着がずれているのが服の上からでも分かった」
「え……」
そう言えば、最近朝起きるとずれている事が多かった。今朝も何気なく引っ張って直した気がする。
背中できっちり三段、紐を編み上げているブラジャーならそんな事にはならない。胴にがっちり固定されているからだ。
事態を理解して、一気に頬が熱くなった。
耳かき酔いの挙句、介抱してくれた夫に、下着がお粗末である事を知られてしまったのだ。
ジルムートが眉を吊り上げ、低い声で言った。
「下着の役目を果たしていない下着は却下する。これは夫である俺からの命令だ」
「……はい」
フロントホックの再現は大失敗だった。ジルムートの言う通りだ。女として余りにダメ過ぎる。
怒っていると思い恐る恐る見れば、心配そうな顔でジルムートがこちらを見ていた。
「もっと自分を大事にしろ。全体的に肉付きが薄くなった。これ以上痩せたら体に障る。もっと食べてくれ。これは夫である俺からの頼みだ」
ジルムートはそう言って、パンをちぎって私の口元に持って来る。
そんな顔で、そんな事を言われたら拒めない。口を開けるとパンを放り込まれた。
むぐむぐしていると、スープ入りのスプーンがぬっと出て来た。
素直に口に入れてから、ジルムートの使っていた物である事に気付くがもう遅い。
何か言う前に食べ物を突っ込まれるので、結局反論できないまま、食べさせられる事になった。