ローズ・バウティは疲れている
ディア・マーニー……パルネア人の侍女。新人時代のローズを指導していた侍女。
オーディス・マーニー……パルネアの有名画家。ディアの夫。病死している。
モイナ・マーニー……ディアの娘。オーディスの未公開絵画やスケッチの所有権を持っている。
ローズがやつれて来た。
原因は、セレニー様の妊娠による体調不良だ。セレニー様は何も食べられなくなってしまったのだ。
それが原因でローズは家に帰ってこない日が多くなった。新婚なのに。帰って来ても、即寝てしまう。……寝室は当然別だ。
やはり人種の違いと言うのは大きい様で、ポート人に効果のある方法はセレニー様には合わず、ローズが文献や故郷からの手紙で仕入れた情報を元にトマトを食べさせる事に成功した。
食べる物が見つかったものの、トマトしか食べない。
ジャムの瓶からトマトジャムを食べ、トマトのしぼり汁を飲んでいるだけの真っ赤な食事を幾度も見ていると、クルルス様だけでなく俺も不安になった。
「漁師さんは毎日魚を食べるじゃありませんか。それと同じです」
ローズはそう言ったが、絶対に違うと俺は思う。
「どんなに手を尽くしても、他の物を食べられないのですから仕方ありません」
ローズの言う通りだった。
クルルス様が心配して、栄養のある食べ物を持っていくと、その匂いや味で気分が悪くなってセレニー様はぐったりする。それでも、その気持ちが嬉しいと笑うセレニー様は素晴らしい王妃だと思う。
そんなセレニー様の為に、ローズは王であるクルルス様相手でも黙っていなかった。
「匂いのする物も食べ物も、持ち込まないでください!」
クルルス様はローズに叱られてとぼとぼと部屋に戻って行く。俺はそれを黙って一部始終見ている。
ローズは、最近クルルス様にも容赦ない。
クルルス様が自分の考えで、余計な事をしてはセレニー様の体調を崩すので、ローズも我慢出来なかったらしい。
繰り返す内に、俺を叱る時と口調が変わらなくなってきている。
ここでローズを不敬罪で捕らえる様な王なら、俺は従っていない。クルルス様は素直に叱られている。
そんな訳で反省はするのだが、セレニー様に何かしてやりたい気持ちが溢れると、ローズを怒らせる行動を繰り返す。
俺はどちらの気持ちも分かる。そのせいでどちらの味方にもなれなくて、黙って見ている事しか出来ない。
「トマトが生まれて来たら、どうしよう」
クルルス様の独り言は、聞き流す事にした。
そうこうしている内に、トマトだけの偏食は終わりを告げた。
次に始まったのは、暴食だった。
今までトマトだけだったのを取り戻すように、セレニー様は凄い量を食べる。
無事に食べる様になってほっとしたのも束の間、またクルルス様が不安になった。クルルス様はローズに叱られたくないから、俺に探りを入れる様に命令した。
俺としてはそんな事はしたくないが、主の命令なので一応聞かねばならない。
館の俺の部屋で、考え事をして立って歩いているローズに俺は聞いた。
「セレニー様は、あんなに食べて大丈夫なのか?」
「分かりません」
ローズはさらっと答えた。
「それでいいのか?」
「私は侍女です。主に食べ物を望まれているのに、差し上げないなんて事、根拠も無く出来ません」
正論だ。
「医者は何て言っている?」
「食べたくなると言う事は、お腹の子が順調に育っている証拠だから、今しばらく様子を見る様にとの事でした」
こんな話はクルルス様も知っている事だ。今は家では仕事の話をしたくないのに、何故こんな話をしなくてはならないのか。
俺が心配なのは、ローズの方なのだ。
ローズはピリピリしている。二人きりの私室でも、侍女の表情を崩さない。緊張状態がすっと続いている証拠だ。
「前の世界で子供を産んでおくべきでした」
小さな呟きに俺は反応していた。反応せずには居られない。
「前の世界では、十六歳で死んだと聞いたが?」
耳かき文明(俺がそう名付けた、ローズの生きていた異世界)では、ローズは子供の扱いを受けていたと聞いている。
「そうです。だからもっと長生きして子供を産んで、出産や育児の経験も積んでおくべきでした」
……ちょっと、強く言うべきだな。
カチンと来た。いくら体は求めないと約束している夫婦でも、その言葉を俺の前で言うのか。俺がどれだけローズの事を好きか、知った上で言うのか。
俺は立ち上がった。
「セレニー様の為に、前世まで捧げるのか?」
俺の空気が変わったのに気付いたのか、ローズがはっとして一歩退く。
ローズが逃げ出さない様に、腕を掴む。これをローズが嫌いなのは知っている。嫌な思い出があるからだ。
「ジル、やめて……」
敬語が飛ぶのは、動揺しているせいだ。
分かってはいるのだ。セレニー様が心配で出てしまった言葉である事は。
でもこれを許せる程、俺の心は広くない。それも承知の上で結婚したのはローズだ。
「心は俺の物だと言った」
俺がそう言うと、ローズの顔が真っ赤になった。否定できまい。確かにあの日、俺はもらい受けた。誰にもやるつもりは無い。
「前世であれ、誰かの妻になりたかったなんて夫の俺の前で言うな」
「そんなつもりは……」
途中でローズは口を閉ざした。
少なくとも俺の感覚では、子供を産み育てると言うのはそう言う事だ。
「ごめんなさい」
泣かれては困る。俺は怒りをひっこめた。
手首を離して項垂れているローズの顔を覗き込む。泣いていない事を確認してから言う。
「少し根を詰めすぎている。肩の力を抜け」
侍女として、セレニー様にずっと頼られてきたのに何も知らない。ローズにとって、それは苦しいに違いない。
俺だってクルルス様の期待に応えられないと思うと、同じ様な気持ちになるだろう。
やはり……痩せた。
普段着のウエストが腰帯で絞られて、以前には見られなかった皺が出来ている。
これは良くない。絶対に良くない。
「本当はまだ言ってはならない事になっているが……パルネアから来る侍女が内定した」
本当はもうしばらく黙って居なくてはならない情報だったが、このままローズが体調を崩せば、セレニー様の負担になる。
クルルス様はそれを望まない。だから言う事にした。
「ディア・マーニーと言う女性だ。モイナと言う娘を連れて来る。出産経験者で信用の置ける侍女だと聞いている」
落ち込んでいた顔に、みるみる生気が戻って来る。
「本当ですか?」
「内定だが、パルネアからの申し出だ。娘をどうするか検討中だが、ほぼ確定だ」
「ああ、ディア様」
胸の前で両手をぎゅっと組んで、ローズは嬉しそうに呟く。
何者なのか詳しく聞く為、ローズをソファーに座らせて俺も隣に座り直す。
「ディア様は、私がメイドとして城に入った時に指導してくれた方なのです。侍女の師匠に当たります。私はあの方に憧れて、侍女を目指す事を決めました」
ローズの手本だと言う女性だ。上層で働くのに問題は無さそうだ。出産経験もあるなら、セレニー様の力になれるだろう。
「子供を伴って来ると聞いたが、夫はどうしたのだ?」
ローズが、硬い表情で言う。
「いずれ分かる事だと思うのでお話しますが、モイナの父親は、オーディス・マーニーという事になっています」
誰だ?
俺がきょとんとしていると、ローズは呆れたように言った。
「あなたに芸術の心得などある筈も無いのですが……オーディス様の描く風景画は、城が買える程の価格で取引されています」
ローズが責める様な目で俺を見た。
「ポートの城の中層に飾られているポート港の風景画は、前国王陛下がオーディス様をわざわざポートに招き、描いてもらった物だそうですよ。あれを見るのを楽しみに、海外から来る高官も居ると聞いていますが」
中層の絵が有名なのは知っていたが、俺はそこまで知らなかった。……はっきり言えば、興味が無かったと言うのが正しい。
「画家として世界的に有名な方です。本当にご存知なかったのですか?」
ポート国王の護衛騎士として、かなりダメな男と認識されたらしい。
「勉強不足だった」
「とにかく、オーディス様は世界的に有名な画家で、あの方の未公開のスケッチや絵画を欲しがる好事家は大勢居ます。オーディス様は病気でお亡くなりになる前に、未公開の絵の所有権は全てモイナに譲られたので、モイナは狙われています」
「絵は、どのくらいあるんだ?」
「詳しくは知りません。ただパルネアでは盗難を防止する為に絵は全て城の倉庫に入れられていて、ディア様もモイナも、城に住み込んでいました。……それでもモイナは何度も誘拐されかけていますし、絵は何枚か盗まれました」
「城に入り込んだ賊を、パルネアは捕まえられなかったのか?」
ローズは悔しそうに言った。
「情けないのですが、その通りです。パルネアは内陸にあり、外敵となる国が無いので備えが不十分なのです。城自体、外国人の賊を迎え撃つ様な造りになっていないのです」
セレニー様を迎えに行った時のパルネア城を思い出す。高い壁で囲まれてはいたが、大扉は昼間完全に開いて解放されていた。
王女が結婚すると言う事で、市民に開放されていたのだ。
人々は、セレニー様に対する祝いの言葉や道中の安全等、様々な事を書いた紙を花の形に折って持参しており、それらは使用人達によって、城内に設置された作り物の木々の枝に括りつけられていた。
木々は紙の花を満開に咲かせていた。
幻想的で美しくはあったが……当時の俺は美しさよりも、火を付けようと言う不届き者が居ない国である事に驚いていた。
てっきり騎士達が市民の身分証を改めてから通しているのだと思っていたが、全くそんな事は無かったのだと後でローズに聞いて知った。……ポートではあり得ない。
そんな、のどかで不用心な国だ。城の造りと言うよりも、悪人に対する認識や考え方が甘いのだ。
とは言うものの、防犯を気にしてポートみたいなギスギスした国になって欲しくない。
平和で牧歌的な国土が、絶大な人気を誇る王妃セレニー様の故郷なのだ。
セレニー様の為にクルルス様が国の改革を推し進めている事は、国民どころか海外にまで知れ渡っている。
王制廃止の急先鋒で、戦争ギリギリの交渉を持ちかけて来る尖った皇太子時代の印象はセレニー様が帳消しにしたのだから、誰の影響なのか一目瞭然だ。
取引をする国々の印象が数段良くなり、ポートの治安も景気も良くなっているから、最近ではポートの女神とまで呼ばれている。
俺にとっては、ローズを呑気な耳かき侍女に育ててくれた環境だ。
パルネアと隣国であり友好的な交流を続けるなら、荒事はポートが引き受けるべきだ。
なるほど……そう言う事か。
クルルス様が、パルネアの高官から侍女の経歴の書かれた書類を受け取った翌日、妙に殺気立っていたのだ。
パルネアには海が無い。パルネアの物資は、全てポート経由で海外へ行くのだ。つまりパルネアから絵を盗み出した者達を、俺達が見逃してしまった事を意味する。
密輸を簡単に許す国だと考えられているとすれば、甚だ気分が悪い。軽く見られたものだ。
俺でも腹が立つのだから、クルルス様ならもっと頭に来ているだろう。ポートに親子を招き入れ、再度狙ってきた奴らを徹底的に潰すつもりなのだ。
それはいい。俺も大賛成だ。
「ジル、黒いのが出ています」
「物を盗ると言う行為は病気に近い。一度でも成功すると、何度でもやる者が多いのだ。ポートは商人の国だから、窃盗は国の根源を揺るがす大罪と考えられている」
「そうなのですか。パルネアでは窃盗は軽犯罪です」
ローズは鼈甲も知らなかった。パルネアは流通している品が質素なのだ。盗みを働く様な者も暮らしていないのだろう。
パルネアの城に居る時に、ローズが賊に出くわさなくて本当に良かったと思う。
俺は笑顔で言った。
「こちらで城に賊が現れたら、俺が成敗してやろう。安心していいぞ」
「真っ黒な空気のせいで、いい笑顔も台無しです。ちっとも安心できないのですが!」
ローズは俺の妻だ。どんな奴らが来ても、守ってみせよう。
「ジル!聞いて下さいってば」
「ローズは声も可愛いぞ」
「音ではなく、言葉を理解して下さい!」
最近のローズは疲れている。耳かきをしてやる事にした。
ローズは耳かきを拒めない。耳かき信奉者はそう言うものだ。そして耳かきが気持ちいいと、そのまま寝てしまう。……これは結婚して知った。
眠っているローズを、彼女の寝室に運ぶのは、俺の密かな楽しみだ。
今日も運んでやろうと抱き上げて、ふと違和感を覚える。そして自分の導き出した結論に衝撃を受ける。……これはダメだ。俺が壊れる。
三十歳にもなって、俺は深夜に一人鼻血を出す事になった。