リヴァイアサンの騎士
ローズ・バウティ…パルネアから来た侍女。日本からの転生者。耳かき信奉者。
ジルムート・バウティ……ポート王国の護衛騎士。騎士序列一席。ローズの夫。耳かき信奉者。
セレニー・ポート……元パルネア王国第一王女。政略結婚でポート国王妃になった。金髪巨乳。
クルルス・ポート……ポート王国国王。金髪巨乳しか女と認めない嗜好を持つデリカシー皆無の国王。
クザート・バウティ……ジルムートの腹違いの兄。王都ポーリアの隠れた守護神。騎士序列二席。
『リヴァイアサンの騎士』
遥か太古の昔、ポート湾に怪物が住み着いた。名前はリヴァイアサン。海蛇に近い姿をしているが、体は小舟が木の葉の様に見える程巨大。湾内で向きを変えるだけでも大波が起こり、ポートの民は、漁に出る事も海辺に行くこともできなくなった。
ポート族の長の命令で、リヴァイアサンを討伐すべく戦士達はポート湾へと向かった。
鋼より硬い鱗で覆われたリヴァイアサンを倒す為、彼らは自ら銛を持ちリヴァイサンの体内へと入り、見事これを討ち取った。
リヴァイアサンの血を浴びて戻って来た戦士達はリヴァイアサンの力を得て、怪力を持ち溺れない様になった。
そこまで読んで、本を閉じる。
ポート騎士の妻になるのに必要な内容だと、お母さん達がくれた本だ。
正直に言えば、この本の内容の必要性が感じられない。しかし、今その疑問をすぐに解決する事は出来ない。
お母さん達はバウティ家の館を出てしまったのだ。
理由としては、バウティ家の館で耳かきサロンを続けるには限界があったのだ。もっと客層を広げる為、大きな空き家を買い取り、耳かきサロンを営業しつつ住む事にしたからだ。
クザートも居ない。新婚の弟と同居なんて死んだ方がマシだと言う言い分で、館を出て行ったからだ。
理由が正当なだけに、どちらも引き留める事は出来なかった。
同じポーリアの市内に住んでいるから簡単に会えるのだが、城勤めをしているとなかなか会う機会が作れない。
だから、未だにこの本の真意を聞けていない。
何処の国でも、自国の民を持ち上げる為に特別な伝承を持ち出すものだ。パルネアにもある。
それにしても、怪力とか溺れないとか大袈裟だろう。そんな強靭な人が夫なら、騎士で戦争に赴いても死なないのだから、妻は心配せず家でお茶をしていればいいのだ。
なんて思うのだが、あのお母さん達が、何の意味も無く昔話を読むように言うとも思えない。
ジルムートに聞くのは……あまり気が進まない。
騎士の事情に首を突っ込むのは、ジルムートの過去に触れる事を意味する。
ジルムートにとって過去は地雷だ。……しかも私が彼の過去、父親を死なせてしまったという悲しい出来事を知っているとは思っていないのだ。
知らない方が良かったとは思っていない。知る必要があったのだと、今は思っている。
しかし知っている事をジルムートにだけは知られてはならない。
同情で結婚した訳では無いのだ。
私はジルムートの事を好きで、信じているから結婚したのだ。その事を疑われたくない。
……やはりお母さん達にこっそりと聞きに行く事にしよう。
しかし、この本の内容を確認している暇も無い程の状況になってしまい、本の存在をすっかり忘れる事になった。
「ご懐妊です」
ポート王国に来て四年目、セレニー様が妊娠した。
医者の言葉に、セレニー様が嬉しそうな笑顔になった。
気分が悪いと寝込んでいたので、医者に診てもらったのだ。
「食べられそうな物は人によって違います。今は体に栄養を与える事よりも、食べたい物や飲みたい物を、好きな時間に差し上げて下さい」
今日は気持ち悪いからと、食べ物を全く受け付けなかった。
その事を告げると、医者は考えながら言った。
「酸味のあるさっぱりとした物を好まれる方が多いので、試してみてはどうでしょう」
侍女は皆総じて若い。
妊娠や出産の経験が無い。当然私もそうだ。
食べられる物や飲める物を求めて、厨房とやり取りをする日々が始まった。
セレニー様の妊娠はポート中にめでたい話題としてあっと言う間に伝播したが、私は喜ぶどころでは無かった。
他の侍女仲間にも相談してみたが、ポートで定番だと言うレモン水はセレニー様には合わなかった。
少しでも飲み過ぎると胸焼けがすると言って寝込んでしまう。
パルネアでの定番を調べたところ、妊婦にはトマトだった。ジャムにしてあらゆる物に付けて食べ、気持ち悪くなるのを防ぐ様だ。
そこで厨房に頼んでトマトをジャムにしてもらった。
その結果……セレニー様はこれを気に入った。しかし、そのまま食べる以外受け付けない。瓶に入ったジャムをスプーンですくって食べる。
飲み物もトマトジュースになった。これしか飲まない。
クルルス様が物凄く心配そうに、セレニー様の赤い食事風景を眺めている。ちなみに、クルルス様とは最近一緒に食事をしていない。クルルス様に出された食事の匂いで、セレニー様は気分が悪くなってしまうのだ。
セレニー様の妊娠が分かった日。
視察から戻ってすぐにクルルス様は、馬と汗の匂いをさせながら上層まで駆け上り、着替えもしないでセレニー様の所にやって来た。
「くっ!」
部屋に飛び込んで来た夫を見た途端、セレニー様は顔を背けた。
原因は匂いだ。
セレニー様は今恐ろしく匂いに敏感で、護衛騎士や侍女達にも香水禁止令が出ている。
クルルス様も相当ショックだったらしく、匂いには注意を払い、風呂に入ってからでないとセレニー様の元に来ない様になった。
セレニー様が食事を終えるのを見届けて、クルルス様はまた来ると言って、セレニー様のおでこにキスして立ち上がった。
くすぐったそうに、セレニー様はそれを受け、笑って手を振る。
優しい夫婦の交流に、笑顔になりながら思ってしまう。
いいなぁ……。デコチュー。
護衛のジルムートは、無表情だった。
私達には結婚した時の約束で、違いに不必要に触れないと言う約束がある。耳かきは互いにしているが、夫婦らしいふれあいは一切していない。
実際にやられたら対処に困るので、見ているだけでいいかと思い直す。
ふと見るとクルルス様が手招きしていたので行くと、廊下の少し先で立ち話をする事になった。
「ローズ、セレニーは大丈夫なのか?」
「お医者様は、順調だとおっしゃっていました」
「トマトだけだぞ?本当に体がもつのか?」
見ていて心配になる気持ちは、分からなくも無い。
「ずっとは続かないと聞いています」
ここで経験者が言うなら安心出来るのだろうが、私にはそんな経験は無い。
「食べる物が無くて餓死する様な事態にならなかっただけ、マシだと思って下さい」
本当にそうなるのでは無いかと、心配したのだ。
「まぁ……そうだな」
ポートにおける女性の地位は、まだ低い。
結婚した女性は夫の所有物と言う考えが強いので、私以外、既婚女性は城で働いていない。夫が外で働くのを許さないのだ。
乳母の手配も、今の所保留にされている。
「セレニー様に子育ての事を教えてくれる方が居ないのですが……どうされるおつもりですか?」
私が心配してクルルス様に言うと、
「自然の成り行きだから、産まれたら出来るのでは無いのか?」
なんて、答えが返って来た。セレニー様は野生動物じゃなくてお姫様です。
「クルルス様は、お子様が産まれた途端に立派なお父様になられるのですね?」
じとっと私が見ると、クルルス様は慌てて言った。
「そ、そうは言っていない。乳母を付けた場合……ポート方式の子育てになると問題がある。俺はそれを懸念しているだけだ」
確かに、ポートの古い社会気質を刷り込まれるのは避けたい。
私は、恐る恐る提案をした。
「パルネアから、侍女を呼んでもよろしいでしょうか?」
「それで、解決できるのか?」
「パルネアでは子育てをしながら女性が城に出仕している事も、決して珍しくありません。セレニー様をご存知で、まだ働いている既婚の侍女を頼りたいのです」
「城の上層に出入りさせれば、帰国させるのはまず無理だ。誰も応じないと思うのだが」
ポート王国では王族の居住区である城の上層の構造を知ってしまった者は、ポート国民として国籍を移せない事になっている。
他国から移籍してきた者には、出国制限も付く。私もそうだが、ポートから出られないのだ。
「その条件で構いません。お祝いでセレニー様のお兄様であるシュルツ様が来られる時に、連れて来てもらえるように、交渉をして頂けませんか?」
条件が絞られてしまうのでなかなか合致する侍女は少ないが、私には一人だけ心当たりがあるのだ。
あの方なら来る。いや、是非とも来て欲しい。
「セレニーの体調の安定が先だが……パルネアからシュルツが来るのは決まっている。その条件はあちらに提示してみよう」
シュルツ様はセレニー様の兄で皇太子殿下だ。おっとりとして優しい方だ。『ぼんやり王子』と言うあだ名は、こっそり心の奥に沈める。
「よろしくお願いします」
私は礼をして、クルルス様を見送った。少し先でクルルス様を待っていたジルムートがこちらを見ている。さっと手を挙げると、あちらも手を挙げて去って行った。
その様子をこっそり見ていた侍女達が、近づいて来て言った。
「陛下にお願いなどして、大丈夫なのですか?」
この国では、女性が男性に頼みごとをするのはいけない事だと言う考えがあるのだ。私が不敬罪に問われると思っていた様だ。
「セレニー様の為に必要ですから。クルルス様は確かに怖い王様ですが、道理の分からない方ではありませんよ」
ほう……と、ため息の様な感嘆のため息が上がる。
別の侍女が、頬を赤く染めて言う。
「夫婦で手を挙げて合図だなんて、心が通い合っている上に恰好良いです」
「羨まし過ぎます!」
妬まれるよりはマシだけど、挨拶一つでそこまでとは……男性から手紙や花束なんか渡されたら、ポートの女性は皆、ショックで気絶するのでは。
ポートでは男性が女性を口説くと言う事をしない。習慣が無いからなのだが、当然プレゼントも殆ど無い。
ジルムートが耳かきを弁償の為とは言え持って来たのも、町に特例で私を連れ出した行動も、男性の地位が圧倒的に高いポートでは、異例中の異例だったのだ。後で知ったが、デートの意味は皆知っていても、所詮庶民のする逢引きで、家柄優先の騎士や金持ちの商人はしないと言う認識だったらしい。
更に結婚まで長い間義妹だった上に、結婚してからも変わらず外で働かせている。これは、異例を通り越して異常だと思われている。
そのせいでジルムート最強説が疑われ、おかしな噂が立っている。
侍女達はジルムートを怖がらなくなったけれど、ジルムートの悪口や陰口を言う者が増えたらしい。……主に、下層の若い騎士や役人だ。
ジルムートだけでなく、下層に居るクザートまでその噂を放置しているのは、同じ立場で相手をするのが馬鹿らしいからだと分かっているが……ムカムカする。一発殴ってやればいいのにとか思ってしまう。
噂を全く気しないジルムートと違い、私は子供だとつくづく思う。
そして、そんな私よりも目の前の侍女達はもっと幼い。
ここ数年の傾向として、城で働く侍女達は、権力者である父親に抵抗し、嫁に行かされるのを拒んで逃げて来た者達ばかりだ。
彼女達は我慢して家にいたが、親に従ういい子になり切れなかった自分を責める傾向があり、大人しくて自信が無い。
一夫一妻で子供が減った事もあり、政策を受け入れた真っ当な家では女の子も大切にされる様になったそうで、親が他国の高貴な女性に劣らない様に教育やマナーに力を入れて育てた、純粋培養のお嬢様が多い。
そんな若い侍女達は今の働く姿を認めるだけで、素直に信頼して心を開いてしまう。
大事にされていたみたいだが、それだけ存在を低く見られていたのだろう。……無防備で凄く心配になる。
今、私が見せてしまったジルムートとの関係が原因で、彼女達が結婚した後、絶望するかも知れないと考えるとどうにも落ち着かない。
せめて自分の中に誇れる物を持って強く生きて欲しいと思うけれど、今はセレニー様にかかり切りだからそんな気持ちを伝える暇も無い。
クルルス様に招くように頼んだ侍女。それが私の考えているあの方になったら……。
セレニー様にとって頼りになるだけでなく、正に強く生きる女のカリスマとして、若い侍女達に一つの答えを見せられるのに。
軽く頭を振る。……期待は禁物だ。
後は私の手に負えない国同士の事なので、結果を待つ事にした。




