二人の距離
「ジル、最近やけに機嫌がいいな」
クルルス様にそう言われて、顔を引き締める。
「いつも通りです」
ローズが俺の膝で耳かきをされた挙句に寝たのだ。
踏み込まれる事を怖れ、距離を取り続けているローズ。野性的な勘だったのか、ローズは俺をずっと警戒していた。
クザートとは距離が近いのに、俺とは距離を置くのだ。
ローズがバウティ家に養女として入った頃は、酷く落ち込んだ。ローズが懐いてくれないと思っていたのだ。
そんな時、ローズが居ない隙にセレニー様が、俺を手招きして言ったのだ。
「ローズはジルムートを男性として意識しているから、ああやって距離を置くのよ。ローズは頑固だから認めないでしょうけどね」
それは良くない。俺は兄なのだ。そう心に言い聞かせる反面、気分が一気に浮上した。
それ以来、距離を置かれても気にならなくなった。
……兄だと思って欲しくない。
その気持ちに絶対に名前を付けないし、目を向けない。俺は結婚しないから。けれど、その事実はいつも心の中にあった。
そんな所にあっさり招き寄せられて、うっかり近づいて来たローズが悪いのだ。
長い間、俺達の間にあった関係は破壊し尽くした。初対面の時にこじれてしまった関係を、ようやく清算出来たのだ。
俺だけが弱点を晒していたが、お互いに弱点を握る関係になったのだ。いや、俺の方がローズの弱みを多く握っている。別世界から生まれ変わって来た事まで知っているのだから。
他には誰も知らない。
これを思うと背中が痺れるような感覚に支配され、心が満たされる。
良い感情では無いのだろうが、酷く心地よい。心の奥底からにじみ出て、全身を痺れさせる毒の様な快感。
俺は最低だな……。でも、気分は今まで味わった事が無い程に良い。
「空気が黒い!廊下に放り出すぞ!」
クルルス様の声で、我に返る。
仕事中に考える事では無かった。
相談に来ていた役人が、青くなって俺を見ていた。よく見ると小刻みに震えている。俺は何食わぬ顔でそのまま護衛を続ける。
役人が帰った後で、クルルス様に叱られた。
「王の護衛が、役人を怖がらせてどうするんだ!」
正論だ。気を付けなくては。素直に謝罪すると、クルルス様はため息を吐いた。
「……いい加減、ローズを嫁にしたらどうだ」
「俺は結婚しません。ローズも嫌がります」
「何処まで意地を張るつもりだ?」
クルルス様は、俺を見据えて言った。
「家族や国の為に自分を顧みずに生きて来たのだから、一つくらいは自分に我が儘を許してやったらどうだ?」
クルルス様は本当に俺を案じてくれているのだ。しかし、それは出来ない。
「結婚は……できません」
「ジル!」
「俺が父親に生き写しなのは、ご存知ですよね?」
髪の色以外、そっくりだと言われている。年々似てきているのは、自分でも分かっている。
「この顔を、父にそっくりなこの姿を……誰にも好きになって欲しくないのです」
何故、こんなに父親に似てしまったのだろう。どうあがいても自分を好きになれない。
兄弟を、そして自分を冷たく見下ろす表情を、未だに思い出す。騎士としては立派だったかも知れないが、父親としては酷かった。
同じ騎士服を着て毎日出仕していれば、嫌でも思い出してしまう。
「ローズは、お前の内面を見ている。決して姿に惹かれている訳では無い。姿で言うなら、ルミカやクザートの方が、女受けはいい」
俺も母親に似たかった。母達は皆、美人だ。
「いいか?お前みたいな、黒いのを出せる怖い男でも良いと言ってくれる女はローズだけだ」
「ローズは了承しません」
これだけは言える。俺が拒んでも結婚させると言うなら、ローズに拒ませればいいのだ。ローズは拒む。それは間違いない。
「第一、結婚しようがしまいが、ローズは城で権力の中枢に居ます。狙われるのは同じです。俺と兄上で今まで通り守るのが良いと思います」
「ローズは未婚だ。だから他の騎士に任せられない。結婚していれば、少なくとも騎士達は信頼できる様になる」
俺を追い落としたい騎士は、確かに居る。
父を知らず、俺が実際に現場で働いている所を見ていない、二十歳前後の若い騎士達だ。
ローズを攫ってしまえば、俺に敗北を認めさせて失脚させられると本気で考えている馬鹿が数人だが、確かに居るのだ。
俺に、試合なり決闘なりを申し込む根性も無いから、姑息な事を考えるのだ。だから他の騎士にローズを預けられない。
ポート騎士団の古い家系では、血筋に重きを置いている。既婚の女を攫うと言う事は、相手の血筋そのものを穢す行為だから、決してしない。
ローズは単なる養女で、バウティ家の血筋に関わっている女では無い。だから結婚しろと言われているのだ。
「大丈夫です。俺と兄上が居れば、守り切れます」
クルルス様はため息を吐いた。
「妹として縛り付けるなど、誰にも益が無い事は分かっているだろうに」
そうかも知れない。……意地になっているだけなのかも知れないが、これだけは譲れない。
「俺は、結婚する気はありません」
俺は話が落ち着いたと思い、一礼してから数歩で扉に近づいて、勢いよく扉を開けた。
さっきから、外に人の気配がしていたのだ。
ゴン!
何かにぶつかる音がして、ドサっと音がした。
「あ……」
見ると、額を打って尻もちを付いたローズが居た。
「大丈夫か?」
ローズは侍女のプライドが許さないのか、涙目のまま凄い勢いで立ち上がると、一礼した。
よく見れば、額が赤い。鼻もちょっと赤い。
「お話の途中で失礼致します。セレニー様が、もしお時間があるなら花が見頃なので、クルルス様を庭園へお誘いしたいそうです」
俺の問いは無視した。少し大きな声で、クルルス様に話しかけている。
「今から行くと伝えてくれ」
「お伝えいたします」
ローズはまた一礼すると、去って行った。物凄いスピードで。
茫然としていると、背後からクルルス様の声が聞こえた。
「聞かれたか」
振り返ると、クルルス様が苦い顔をしていた。
「俺は困っていないからな。結婚した方がいいのは事実だ。単にお前が自分の都合でそれを拒んでいるだけだからな」
返す言葉が無い。
俺は、セレニー様とクルルス様が、腕を組んで歩くのを、少し離れて眺めながら考える。
弁解しなければ。
ローズに、何処か劣った部分がある訳では無い。別世界の記憶がある事も、俺は嫌だと思っていない。
では何故なのか聞かれても、俺は答えられない。……適当な事を言ってしまったら、嘘を吐く程に自分と結婚するのが嫌なのだと、ローズなら判断してしまうだろう。
でも過去の事も、自分の容姿の事も言いたくない。ローズにだけは知られたくない。
頭の中で、俺は弁解に失敗した。
ようやく近づいて来たローズが、再び遠ざかって行く。隣に座っても、嫌がらない様になったばかりだったのに。
手を伸ばして捕まえたら、子供の様に泣くのだ。
だったら、捕まえなければいい。でも、他の誰かに囚われるなど、考えたくも無い。
最善だと思う方法を考え出したのに、たった三年しか持たなかった。
上手い弁明を思いつかなかったが、とにかく何とか出来ると思っていた。が、……そうは行かなかった。
ローズが俺の迎えを待たずに城を出て、行方知れずになってしまったからだ。
「お帰りになりました」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。教えてくれた侍女を放置して、城の上層から下層に駆け下りて、クザートの詰めている騎士団の執務室の扉を開けた。
クザートが顔を上げる。
「ローズが居なくなった!」
「ローズちゃんなら、医務室で手当てを受けた後、城に与えられた部屋で寝ている」
そう言えば、額と鼻を扉で打っていた。
「鼻血が出て仕事にならないって言って呼ばれたから、仕方なく付き添った。お陰で仕事が全く終わっていない」
ほっとして息を吐くと、クザートが眉間に皺を寄せていた。
「扉の前に立っていたローズちゃんに向かって、いきなり扉を開けたそうだな」
「はい」
「護衛としては仕方ない行動だったと思うが、扉の前でぼんやりしていたのは赦してやってくれ。……熱があった」
ローズが発熱?俺は慌てる。
「大丈夫なのですか?」
「落ち着け。城の医者に診てもらっているし、ちゃんと寝ているから心配するな」
「……顔を見て、謝ってから帰ります」
「そうしろ」
クザートは、そう言うと再び書面に顔を向けながら言った。
「よく分からないが、泣きそうだった。俺の前では我慢しているみたいだったから、部屋を出て来た。泣いて居たらそっとしておけ」
それを聞き終わる前に、俺は走り出していた。
走って行ってどうするつもりだ?
そんな事は分からない。ただローズがあの時みたいに泣いているのだと思ったら、そうせずには居られなかった。
また上層へと駆け上がる。
城で、下へ上へと全力疾走なんて、何の事件かと皆思っただろう。俺が慌てているのだから、王に何かあったと思う者も居るかも知れない。
でも、俺にとってはそれだけ大事な事だったのだ。
しかしいざローズの寝ている部屋に来てみると、扉を開けられない。
幸い、心配していた泣き声はしない。
ほっとした途端、とんでもない考えに気付いた。……泣いて居たら、迷わず開けてしまうつもりだったのだ。
その後、どうするつもりだった?
頭の中に浮かんだ何かが明確になる前に、俺はグシャグシャにした。
誤魔化しきれていないが、俺は誤魔化す。それしか、そうしなければ、ローズの側に居られないから。
大きく息を吐いて、俺は扉をノックした。
「はい」
少し元気の無い声がする。
「入っても、いいか?」
出来るだけ平静を装って、俺は声をかける。
返事が無い。
「ローズ?」
もし俺が嫌なら、入るなと率直に忠告する女だ。それが返事をしない。
俺は心配になって、迷った挙句に扉を開けた。
何処にでもある侍女用の部屋だ。狭くて、機能性だけを求めているから飾り気も無い。
騎士用の部屋も同じ造りだから、妙な既視感を覚える。
もう日が傾いて、薄暗い。
恐る恐る近づくと、ローズはベッドで浅い呼吸を繰り返して眠っていた。
暗いから、傷の具合は分からないが、酷く苦しそうだった。
手の甲で首筋にそっと触れると、びっくりする程に熱い。
「ローズ、おい!」
俺の声に反応して、ローズはうっすらと目を開ける。
「医者の所へ連れて行く」
俺がそう言って上掛けをはごうとすると、ローズが首を左右に振った。
「すぐに、治まります」
苦しそうな声に、俺まで苦しくなった。
「お医者様の、お薬では、治りません」
言葉ごとに区切りながら、ローズは苦しそうに話す。
「しかし……」
「クザートには、言えなかった、のですが、ジルは知っているから」
知っている。そう言われて、思い当たる事は一つだけ。ローズが別世界の記憶を持っていると言う事だ。
「記憶が、戻るとき、熱が、出ます。何年も、無かったから、忘れて、ました」
「分かった。もう喋るな」
苦しそうで見ていられない。
冷やした方が良いだろうと思い、立ち上がると袖が突っ張った。
見ると、ローズが袖を握っていた。
ローズは無意識だったらしく、自分のした事に驚いて、泣きそうな顔で袖を放した。
後頭部を、何かで殴られた様な気がした。
これが……今のローズと俺の距離なのだと思った瞬間、頭の中で何かが壊れた。
側に居て欲しいと、口に出して言わない。言えないのだ。
俺が自分の側に囲い込んでおきながら、距離を置いているからだ。
側に居るのに、優しくしてやらない。……まるで父上と同じじゃないか!自分の事ばかり考えて、ローズの事を考えていない。そんな自分を見せつけられた気がした。
俺は向きを変え、再びローズの枕元の椅子に座った。
「ここに居るから、大人しく寝ていろ」
「ごめん、なさい」
謝るべきはローズじゃない。俺だ。
けれど、何故か目の前でローズが謝っている。
何処まで意地を張るのかと、クルルス様は俺に聞いた。
張り続ける筈の意地は、今、砕かれた。
こうなった以上、今までの態度は改めなくてはならない。
俺はぐちゃぐちゃになった頭で、何処をどうすれば良いのか、必死に考える事にした。




