ローズ、ジルムートの耳かきに落ちる
ジルムートが膝の上に居るのは、三年振りだろうか。あの頃は本当に非常識で嫌な男だと思っていた。
しかし、ポート王国全体の男性から見れば、かなり理解度が高く、紳士的な部類に入る。
とは言え、普通に出会っていれば、きっとここまで親しくはなっていなかっただろう。
そんな事を考える程に久々なのに、やっぱり三年前と反応は変わらない。
硬そうな体をしているのに、顔がふにゃふにゃになっている。溶けている。
私の耳かきはそんなに良いのだろうか?
耳垢は相変わらず……無い。
「お母さん達に、耳かきしてもらって綺麗ですね」
「自分でやっている。母さん達にやってもらったのは練習台にされた時だけだ。……痛かったから、もうやらせない」
ジルムートは目を閉じたまま言う。
自分の耳をここまで綺麗に出来るのだから、ジルムートも相当出来る男になった様だ。
「ここまでの腕なら、私の掃除はいらなさそうですね」
軽く、耳の内側を撫でる様に細かい耳垢を取り除いて、耳ほぐしをしながら言うと、
「そんな事は無い。お前の耳かきは特別だ」
特別。そんな事を言われると何だか照れ臭くなってしまう。
「初めて耳かきをされた時、俺がどれだけの異世界を見たと思っている。本当に異世界から来た物だと分かって納得した」
ジルムートの耳かきをするときは、いつも気が動転していたり、怒ったりしていたので、普通な状態でしているのは今回が初めてかも知れない。
この人は、私の話を信じてくれた。
だから言ってもいいのだと思って種明かしをしてしまった。
「私は、実は前の世界で耳かきをするのではなくて、される側だったんです」
私は子供で、おいでって言われると大喜びして膝に寝転がるのだ。
「誰なのか思い出せないのですが、いつも私に耳かきをしてくれる人が居たんです。物凄く上手で、もうそれ以上の幸福は無いって思う様な感じでした」
思えば、あれが耳かきの原点だ。
「この世界で祖母に耳かきをねだったら、ジルに暗器に間違われた、あの金属の棒が出て来て逃げました……」
「あれは、お守りじゃなかったのか?」
「先祖伝来の耳かきでした。……祖母はあれを耳に突っ込んで、ゴリゴリと耳の中をえぐっていました」
ジルムートが首をすくめる。
「それは……認めがたいな」
「私の友達の家では、小枝で耳かきをして血が出るそうです」
「それなら、やらないで一生そのままにしておいた方がいい」
「私もそう思いました。それが全ての始まりでした」
片耳が終わった。
ソファーが狭いので足が伸ばせない。私が立って反対側に移動して、ジルムートが反対の耳を上にして寝るのがいいだろう。
「反対側をします。座る場所を交換しましょう」
ジルムートは素直に応じる。
場所をかえて耳垢を調べる。右利きだから、左の耳垢は取れていない所がある様だ。取り残しを綺麗にしながら話を続ける。
「自分が気持ち良くなりたいと思うよりも、釘や小枝を何とかしたくなりました」
「……なるほど」
「それで薪を売りに来る木こりのおじさんに、色々と注文を付けて作ってもらったんです」
「俺の壊したアレだな?」
「そうです。十六号は秀作でした」
「あの時は本当に悪かった」
「いいのです。パルネアでは広められませんでしたが、十六号の犠牲があったお陰で、ポートでは耳かきが市民権を得ました」
お店に並ぶ耳かき。最高です!
「ポートから船に乗って別の大陸へも耳かきが伝わって行くなんて、思ってもみませんでした。十六号には悪いのですが、結果的には良かったのかも知れないと思います」
ごめんね。十六号。私は忘れない。あなたの犠牲の上に耳かき文化が繁栄した事を。
「ポートに来た頃は、最悪だと思っていた環境も変わりました。今思えば、ジルのお陰だと思います。ありがとうございます」
「いや、俺は何もしていない」
お、照れている。耳が赤い。
私は上機嫌で耳ほぐしを施した。
「はい。終わりです」
ぼーっとしているジルムートに言うと、ゆっくりと起き上がった。
セレニー様に耳かきをしている時みたいに楽しかった。耳垢が詰まっていないから話しながら耳かきが出来るのだ。最近はストレスがあまり溜まっていないから、大物が取れなくてもいいのだ。
ルミカが物凄くしつこかったので、もう男性には二度と耳かきはしないと思っていたが、ジルムートは催促しないし、紳士的だ。世話になっているから今後もたまにならやってもいいかな、なんて思う。
「では部屋に戻ります。おやすみなさい」
私がそう言って立ち上がると、手首をジルムートが掴んだ。
「待て」
……ジルムートを近づけるとロクな事にならないんだった。過去が走馬灯の様に蘇る。
ルミカはしつこいだけで、絶対に私に触れなかった。しかしジルムートは触る。それも油断していると、ガシっと来るのだ。今回みたいに。
最初は腰を抜かした挙句、小脇に抱えられ、私は思い切り噛みついた。
それから半年後、子供みたいに外で泣かされたのは死ぬまで忘れない。工房の人達に見られていたと言う事実も、激しいダメージとなっている。
ここ数年、二人だけの時は一定の距離を維持していたから油断していた。
ジルムートは私の手首を掴んだまま、反対の手を私の方に差し出す。
「やるから、出せ」
「何?」
言っている意味が分からず、敬語が吹っ飛ぶ。
ジルムートが、私の顔を覗き込む。
「この世界では、誰もお前に耳かきをしていないのだろう?」
言われてみれば、そうかも知れない。
お母さん達に教えて指導はしたが、練習台はジルムートとクザートだったのだ。
まずい。
今さっき、うっかり喋った事が、自ら掘った墓穴である事に気付く。
「い、いいいいいです!」
噛みまくって私はのけぞる。
しかしジルムートは退かない。というか、私の顔を見てニヤリと笑った。
「遠慮するな」
「遠慮します!」
首をぶんぶん振るが、手首は引っこ抜けないし、ジルムートは動じない。
「大丈夫だ。傷つけたりしない」
そう言う問題じゃない!
「自分でやっているので、綺麗ですから!」
手を離して!心臓がバクバクして、おかしくなりそう。
「綺麗になっているか、調べてやる」
前もそうだった。手首を掴まれたら最後、ジルムートは絶対に退かない。精神的に裸にされる。抵抗が無くなるまで、これでもかと心を折るのだ。
もう二度とこうならない為に、距離を置いていたのに!
「困ります」
「何故困る?」
ドンドンと音を立てている血流の音で一杯になる。
「人に耳かきをするのに、人にしてもらった事が無いと言うのは問題だ」
「大丈夫です。覚えています」
「この体の記憶じゃない。本当に良いのか?」
ジルムートの視線が、獲物を追い込む狩人の様になっている。
砂時計の様に、関係がくるりと反転する。
こんなに意地悪に笑うジルムートの顔なんて、見た事が無い。そして私はこんなに狼狽えた事が無い。
「俺は知っている。ローズが、どれだけ耳かきが好きなのか」
このままでは、この男にダメにされる!
「嫌だなんて言えないよな?」
誰かに耳かきをして欲しいと言う欲求は、長い間ずっと頭の隅にあった。
でもこの男に、それをうっかり言ってしまうなんて……。今度は私が耳かき地獄に落とされる。
「来いよ」
手首を掴んでいた手が、するりと離れていく。……私の心の奥底に眠っている欲求を理解しているから、逃げないと分かっているのだ。
圧倒的な不利。抗うには、こびり付いた欲求が大き過ぎる。
ジルムートは楽しそうに私を見ている。
それから暫くの沈黙の後、
「ローズ?望みを叶えてやるぞ」
再度、嬉しそうに顔を覗き込まれた。
うがぁぁぁぁ!
心の中で怪獣の様に叫びながら、私はジルムートに屈服する事になった。
心が嫌がっても、体は正直だ。逃げる事無くころりとソファーで横になる。頭は固い太腿の上。石みたいなんだけど!
そうだ。気持ち良くなかったと最後に言ってやればいいのだ。
そう決意して、硬く目を閉じる。
「……奥にあるぞ」
え?そう言えば、最近忙しくて自分の耳かきは、だいぶ前だった気がする。
一生の不覚!
懐かしい感覚が、ゾワゾワと全身に走る。体の力が抜けて行く。ジルムート、やはり出来る男になっている!
うわ……うわ……わ……ぁぁぁぁ
「取れた。人の耳掃除は面白いんだな」
耐えた。まだ意識はある。
すると暖かい感触が、耳に触れる。
「耳かきですよね?」
「そうだ。お前は、耳ほぐしもするよな?俺もやる」
「そ、それは、いいです!」
この世界で、私が独自に編み出した技だ。日本ではしてもらった事が無い。未知の領域。
まさか、こんな形で返って来るなんて。
「遠慮するな。力はちゃんと加減する。安心しろ」
安心したら、終わりなのよ!
むにむにと、耳にジルムートが触れて来る。
ひたすら頭の中で自分を励ます。負けるな。負けちゃダメだ。
そんな抵抗をあざ笑う様に、耳がもみほぐされて行く。
どのくらいの時間そうされていたのか、一瞬意識を手放していた自分に気付く。恐る恐る上を見ると、満面の笑みでジルムートがこちらを覗き込んでいた。
「気持ち良かったか?」
どれだけ意地悪なのよ!
「場所を交代しよう」
今だ。止めるなら今しかない。
しかし体は抵抗する事無く動き、口は閉ざされたままになった。最後の抵抗で、膝枕に頭を預ける事だけは留まる。
「座ってないで、横になれ」
そう言いながら、ジルムートに頭を撫でられた。
ボキっと音を立てて心が折れた。そこからの主導権は、完全にジルムートに移った。
終わった。……完全に終わった。
私は、ジルムートの膝で意識を手放した。