置き去りのエルザ
トルネアスタン……グルニア側の海を渡った先にある大陸の国。ドゥク教と言う宗教の宗教国。とは言っても危険な宗教ではなく、戒律は肉と魚を食べる事やその死骸の利用が禁止されていると言うだけのもの。菜食主義の国。軍事国家であったグルニアが無くなり、農業技術の先進国であるパルネアと新たな国交を結ぶ為、今回ポートへきている。
「そんなのおかしいわ。あの子は男を選ぶのに失敗したのよ?何年も付き合った挙句に捨てられた。なのに、どうして生きて幸せになれるのよ。訳が分からない」
エルザはアネイラも嫌いなのだろう。そう言って険しい表情になった。
「あれだけ綺麗な男性に独占されて何年も過ごして居て、今更他の男性となんて、見劣りして一緒に生きても幸せな筈が無い」
見た目だけの毒沼王子と結婚するよりも、うんと良い選択をしたと私は思っているが、言ったところでエルザはジャハルを知らないからどうにもならない。
「アネイラはね、ルミカが嫌いで別れた訳じゃないの。好きだから、自分の事で精一杯になって苦しんでいたルミカの手を離したの。負担にならない様に。自分がその後どうなるか分かった上でね」
私に八つ当たりして泣きながらも、ルミカを悪く言わなかった。
「そんな事、年齢を考えたら出来る訳ないわ!」
「そうね。私達の年齢なら酷い醜聞。でも、あの子は死んでも良いって思う程にルミカを好きだったから後悔していなかった。どうして一緒に居られなかったのか、ルミカから別れた当時の気持ちを手紙で伝えられて理解して……自分に見合った幸せにたどり着いた」
手紙で教えられたルミカの心境に、アネイラは自分では寄り添えないと理解した。武芸なんて言えば聞こえは良いが、人を殺す技術だ。その技術を使った仕事の方が自分よりも優先されると言われてしまえば、付いていけないと思うのは当然だ。アネイラの選択は賢いし、間違っていないと思う。
私とディア様は、それを分かっても離れられないと思う相手に出会ってしまった。相手も私達を手放さない。それだけの事だ。
「……そんなの、信じない」
「信じないならそれでもいいわ。でもアネイラは死んでない。元気に暮らしているわ」
エルザは、やはり信じたくないと言う様に首を左右に振る。
「あんな綺麗な男性、他に居ないわ。捨てられて生きているなんて変よ」
何となく悟ってしまった。恋愛に疎い私でも理解出来る、女の勘と言うのが働いた。
「あんた、ルミカが好きだったの?」
エルザの顔がみるみる赤くなっていく。間違いない。ルミカが好きだから、アネイラを憎悪していたのだ。
「……マテオも美形だったわね。それで逃げなかったの?」
逃げる事に関しては敏感に周囲を見ているエルザが、マテオに従順に従った理由。……顔だ。エルザは面食いなのだ。
私の視線を避ける様に、エルザは視線を逸らした。私が何を考えているのか分かったらしい。
「マテオみたいな綺麗な男に、こんな冴えない女が口説かれたら、舞い上がるに決まっているじゃない。あの顔で優しくされたら、失いたくないって思っても仕方ないじゃない。誰も、私に優しくなかったんだもの」
エルザは人に優しくされる事に不慣れだ。自分から人に優しくする余裕もない。エルザはこんなにも優柔不断な女だったのかと、今更ながら知る事になって複雑な気分になる。私と同じで恋愛嫌いなのかと思っていたからだ。私の思っていたエルザ像と現実は、あまりに違い過ぎる。
「あんたは、やっぱりもう一度やり直すべきだと思う」
「今更、無理よ」
「マテオはもう美形じゃない。あんな間の抜けた顔の人と一緒に死ぬ気なの?」
エルザの唯一の基準と思われる、面食いの部分を刺激して何とか説得を試みる。
その途端、バタバタと扉の向こうから音がした。入ってきたのは、元の美形に戻れないマテオ・ベルガー。
「エルザに何を吹き込んでいるのか知らないが、無駄だぞ。愚図だから、自分で考えないんだ」
マテオは私の足の縄をナイフで切ると、腕を掴んで立たせた。
「痛っ」
エルザはビクビクして私とマテオの様子を見ている。
「エルザ、ついて来い」
「はい……」
マテオが私の腕を引きずって歩く先に、青白い顔をした女の子達が座り込んでいる。……もしかして、死にかけているのではないかと思い、一気に血の気が引いた。
「あの子達は……」
「魔法を使い過ぎて終わった」
「終わったって!」
死ぬと言う表現もしない。本当に使い捨ての燃料なのだ。
「こいつらのお陰でこの船は港を出ている。船は海流に乗って湾を出る。追って来られまい」
この子達は無駄死にさせられそうになっている。助けなくては。
「ポート湾からこの船は出られません」
「はっ!ポートの異能者も人間だ。こんな暗闇の海をどうやって追って来る?魔法で動いているのだぞ、この船は」
マテオは、リヴァイアサンの騎士について本当に何も知らないのだ。
私はマテオを見据えて言った。
「リヴァイアサンの騎士は、ポート湾で溺れません。一息で湾内を自由に泳いで移動し、怪力で船底を抜いて船を沈める事が出来ます。夜だろうが昼だろうが、嵐だろうが……そんなのは意味を成しません。異能者の騎士の中には、海流を操る方も居ます。この船はポート湾の外へは絶対に出られません」
マテオの顔がゆっくりと驚愕の表情を浮かべる。
「リヴァイアサンの騎士はポート湾の守護を得た異能者です。この湾内から逃げ延びる事など不可能です」
私の言葉に、マテオは酷い形相で悪態を吐いた。
「シュルツめ、俺達を本気で殺す気だったのかよ!建国八家は特別じゃないのか。虫も殺せない様な顔をして、畜生めが!」
マテオは私を引きずって一気に階段を上がって甲板に出た。
大きな船舶用のランプの明かりに蛾が集まっている。その下の甲板が不自然に濡れている。今日は星の綺麗な夜だ。よく見れば、水たまりが幾つもそこかしこに出来ている。マテオは私を羽交い絞めにしてナイフを出すと、私の首に当てながら周囲を見回した。
マテオのナイフが強く当たり、首の皮を切ってピリリと痛みが走る。冷たい感触と痛みに息を止める。と、その時……マテオの動きが止まった。
背後に何かが着地したと同時にマテオの首で嫌な音がして、その場にマテオが崩れる様に倒れたのだ。その直後、抱きしめてくれた人の服はずぶ濡れだったけれど、私は気にせずに縛られたままの手でその胸にしがみ付いた。
「遅くなった」
「ジル」
泣いている場合ではない。私は慌てて言う。
「女の子達が死にかけているの……助けて!」
すると、階段を上って来たクザートが言った。
「残念だが手遅れだ」
涙がボロボロと零れ落ちる。素敵な男性を好きになって一緒に幸せになるなんて、どんな女の子でも一度は夢見るものだ。失敗してもやり直せる筈の夢。その夢の果てがこれだなんて、あんまりだ。
その時、その場にぺたりと座り込んだエルザは、俯き絶叫した。
「私を!置いて逝くなぁぁぁぁ!連れて逝けぇぇぇぇ!」
真っ暗な海に吸い込まれ、その叫びに応える者は何処にも居ない。
帰ってから館でジルムートから聞いた話は以下の通りだ。
城で地下への見張りが倒れている事が分かり、城の騎士は一気に厳戒態勢に入り、逃亡したオリバー・ヘイズ(マテオ・ベルガー)の探索に入った。同時期に、目を覚ましたマクシミリアンが城へ来て私の誘拐も発覚した。
リヴァイアサンの騎士達は、私が妊娠している事からポーリアの各方面に散り、私から出ている異能を辿っていたらしい。クザートとジルムートは異能が大きい分、感じ取る範囲も広く、ほぼ同時に港に辿り着き、二人で海に飛び込んだのだそうだ。後は私も見た通りだ。
「ねえ、どうして私は死ねなかったの?」
クザートに連れて行かれる際に聞いたエルザの言葉に、私は答えを持っていない。
これは後で聞いた話。
エルザの実の両親は、エルザがエリザベス・カフカである事を隠し通す術として、魔法を教える代わりに人と関わらないと言う処世術を身に着けさせた。養子に出たのは十二歳の時だったらしい。一方で必ず生き延び、素敵な殿方と幸せになりなさいと母親は繰り返しエルザに言い聞かせた。母親なりの思いやりが、教え込まれた処世術と一致しなかった為にエルザは混乱し、何が正しくて間違いなのか分からなくなってしまったのだ。素敵な殿方と言われても、エルザは人と関わらないから基準が無い。あるとすれば見てくれを見る目だけだ。だからルミカやマテオに惹かれてしまったのだ。
エルザは、きっとマテオと一緒に死にたかったのだ。愚かでも何でも良くて、他の女の子達みたいに同じ時に死にたかったのだ。一人は寂しいから。しかしその望みは叶わなかった。今どうしているのか……私には分からない。聞いても、ジルムートは教えてくれなかった。
でも、マテオについては教えてくれた。
ジルムートは、ずっとオリバー・ヘイズとマテオ・ベルガーの経歴に違和感を感じ、ゲイリー・ダルシアと共に調べ続けていた。ほぼ裏は取れていて、マテオである事が分かっていた為、ジルムートはマテオが魔法適性のある女性を次々と自分の支配下に置き、魔法燃料にしたり、魔法を教えて悪事に加担させたりしていた実態を教えてくれた。マテオは女性を支配する事に長けていた。子供も何人か居て、その調査が行われるそうだ。
ベルガー家は、リンカーと言う魔法を持っていた。リンカーはチャネリングの下位魔法に当たるそうで、ベルガー家の独自魔法だそうだ。生きている人間の記憶を胎児や赤ん坊に移植する為の魔法で、マテオ自身リンカーの魔法を受けていたらしい。
マテオが自分の子供にリンカーを使っている可能性があるとの事で、パルネアはベルガー家の当主の幻影を追い続ける事になった。まだ事件は終わっていないと言う事の様だ。
考え込んでいると、ぺろりと舐められてびっくりして身震いする。首だ。
「ジル!」
「もうセレニー様も妊娠の事は理解されている。出席しなくて良いと言って下さっている。その傷の事もある。あえて出る事はあるまい」
「出るってば!舐めないでよ」
私のつわりは相変わらずで、しかもマテオのナイフが首を掠ったので、首に薄い傷が出来てしまっている。チョーカーで隠せるのでそうする予定だが、本来想定していたネックレスに比べると出来が今一なのは言うまでもない。プリシラが必死で似合う品を探してくれている。明日が本番だと言うのに、プリシラは諦めない。その執念を信じて全てを任せる事にした。
一方で中層の侍女達が凄く嬉しそうにしていて、また誘拐されるなんてとか、首にあのような傷のある状態で式典に出席なんてとか、言われている。運の悪い可哀そうな異国生まれの侍女が、ポートの英雄の妻であると言う印象を外国の賓客に印象付けようとしているのだ。そうすれば式典が終わった後の宴で当然話題に上る。私が恥をかくと思っているのだ。
私が恥をかいても、ジルムートが怒って他国との関係が悪くなるだけなのに。それで愛想を尽かして私が捨てられると考えているらしい。
式典当日、パルネアが連れてきている楽隊による荘厳な音楽と共に、シュルツ陛下が挨拶をし、ジルムートへ感謝の意を表してパルネアで作られた大きなネックレス状の勲章を授ける。ジルムートはシュルツ陛下に膝を折り頭を下げる。そして勲章が首を通される。これが式典最大の見せ場で凄く緊張して見守った。そんな私の首には若草色のレースチョーカーが巻かれている。プリシラがファナと一緒に徹夜で作ったと言うチョーカーは見事にドレスにマッチして、式典でジルムートに恥ずかしい思いをさせずに済んだ。素晴らしい後輩達に感謝しかない。
セレニー様は終始穏やかな表情で、ジルムートを見ても震えなかった。逆に私の方が心配そうに目配せされて、笑顔で応じなくてはならなかった。
そして夕方になって、宴の時間になった。
ポートは妻を宴に出さない歴史があるが、パルネアを始め、ロヴィスやトルネアスタンなど、多くの国は正妻を伴って参加する宴が一般的で、今回はそれに準ずる形で大勢の女性が着飾って宴に出席していた。大輪の花の様なロヴィスの貴族院の姫君達は若い男性の注目を一身に集めていたが、会話よりもダンスに誘われて踊っている状態の方が長い感じだ。場が華やぐので良いのだが、余りに長く踊っているので、疲れてしまわないか心配になった。姫君達は、交代で踊っているのだと暫く観察して分かった。ロヴィスの女性は凄いと思った。
私はセレニー様の側から離れない様に側にずっと居たのだが……宴の時間はとても長い。妊娠している身では、立ちっぱなしも辛いし、トイレが近くて我慢できなかった。侍女の時は何も飲み食いしなくて良いのだが、客となると何も飲まないと言う訳にもいかない。こっそりとウィニアが現れて、レモン水を渡してくれた。何て素敵な妖精さん!と抱きしめたいのを我慢して受け取り、それをちびちびやっていた訳だが、無くなるとわざとワインを私に持って来る侍女が居た。持っているだけでいいか……と思っていたら、笑顔で割って入ってレモン水を渡してくれたのはディア様だった。
「気分が悪かったら言ってね」
聖女様と叫んで抱き着きたい気分になった。暫くして、騎士も侍女も私を気にかけてくれていて、私がこの式典と宴に出ると言ってしまった為に、かえって迷惑をかけてしまったのだと気付いた。セレニー様はすっかりジルムートを克服している。……私が宴に出る目的は、あの誘拐された夜に解決済みだったのだ。
そうこうしている内に私は我慢できずに会場を抜けた。まだ妊娠初期なのに、こんなにトイレが近いだなんて。ポート城のトイレは、汲み上げ機で汲み上げられた水によるエターナル水洗方式。ポート城のこのシステムは外国人にも好評だ。綺麗なトイレは万国共通で好かれると言う事だ。
そして会場に再び戻って来ると、セレニー様はクルルス様とダンス中になっていた。




