薔薇の菓子
太古の昔、魔法の概念は天使からもたらされた。
天使は、ある時期に同時に全世界に出現した。特にグルニアに集中していて、他の地域になればなるほどに少なくなった。彼らは異世界の住人の記憶を持っていて、令和八年七月四日で記憶が途切れていると口を揃えて言った。天使達が暮らしていたと言う神の国の名は「日本」と言う。
天使達の記憶には老人から子供まで、あらゆる年齢層が存在した。グルニアでは、その記憶を活用して何故この世界に来てしまったのかの研究を始める者が現れた。結果、日本のあった世界とこの世界は、丁度その日に衝突を起こしたと言う仮説がグルニアでは定説になった。
仮説の内容はこうなっている。
どの様に衝突したのかは分からない。ただ日本での令和八年七月四日に衝突は起こった。だからこちらの世界でいくら時間が進んでも、あちらの世界の他の時間と場所には一切繋がらない。その裏付けを取るべく生み出されたのが、始まりの魔法、チャネリングだ。
チャネリングによって天使の記憶を持って生まれて来た者達も、やはり令和八年七月四日で記憶が途切れているのは同じだった。ただ、同一人物の記憶を持つ者は一人も居なかった。衝突の記憶がどこかに刻まれていて、そこから呼び出しているなら、同じ者が繰り返し現れる事も考えられたが、そうでは無かった。そこでグルニアの学者達は、異世界衝突で天使達の住む場所のある地域が、本体となる世界と切り離されてしまったと結論付けた。
元の世界から離れ、欠片となった地域の時間は衝突と同時に停止し、そこから先は無くなってしまっている。時間は世界が進む事で刻まれる。欠片となった小さな世界には進むだけの力が無い。だから停止した。死ではなく停止なのだそうだ。欠片になっても存在し、ただ止まっているだけと考える根拠は天使の記憶にある。
記憶をこちらに移行した天使達は、全員前の世界で死んだと証言している。こちらの世界に意識を移行して時間を刻む事により、停止した世界から排除されていると推察された。進んでいく世界と停止した世界に同時に存在する事は不可能だから、そういう理が働いていると言うのだ。欠片となった世界は停止したままどんどんと置き去りにされて、二つの世界から離れていっているらしい。
そもそも衝突した世界は全く規格の異なる世界で、人間の大きさも全く違ったらしい。チャネリングでこちらに異世界人を手繰り寄せても、記憶以外持ってこられなかったのはそれが原因とされている。衝突した時期、欠片の世界はまだ近くに存在し、蜃気楼の様にぼんやりと見える事があったらしい。その幻で見える世界の人間は私達の数倍もの巨体を持つ巨人であったと言う。それが本当だとすれば、人間の大きさが全く違ったのだから、肉体ごとあちらの人間をこちらに連れてくるのは不可能で、記憶のみだったのも道理と言える。
宇宙空間に地球があって、隕石が衝突して壊れたなんて話とは全く違う。油の中をゆっくりと移動する泡の様に世界は幾つも存在し、数えきれないほどの世界が存在していると言う話。多次元世界論と言うそうだ。
レフは専門家ではないから理論の詳しい証明方法は知らないらしいが、家庭教師にこう習ったのだとか。これが選民思想の基礎に当たる話である為、グルニアの貴族は皆同じ様に答えると言われた。皇族親衛隊はグルニアのエリートだ。良家の子息であったレフが嘘を言うとは思えない。
この話だけで私は精神的に疲れ切って、今日の勉強会を切り上げて館に帰った。
館は静かだ。ジルムートは日勤でまだ居ない。ラシッドとパーシヴァルに任せてしまったから、私からは何も話をしていない。前回出かけて以来、何か言いた気な雰囲気はジルムートから感じるが、結局何も話せていない。ジルムートは何をどう切り出せばいいのか、分からないのだろう。私も考えがまとまらない。
この状況が改善されると信じて進んでみたけれど、かえって話をし辛くなってしまった。欲しい答えを求めて動いた結果、欲しくない答えに辿り着く。……思っていたのと違うなんて、人生ではよくある事だ。何でも予測した通りに人生の進む人なんて存在しない。当然覚悟していたつもりだった。しかし、今回の事は予想以上でさすがに堪えた。
父が何故魔法から遠ざけていたのか、その理由をようやく知る事になった。私はグルニア人の言う所の天使で、選民思想の基部を支えている存在だったと言う事だ。八大貴族である事は教えてもらったが、これは知らなかった。ジルムートは既に知っていて黙っていたのかも知れない。あえて伝える必要を感じ無かった筈だから、黙っていた事を責めるつもりは無い。
ただ思うのだ。ジルムートがこの事を結婚前に知って居れば、私と結婚しただろうかと。結婚してからこんな風に種明かしをされて、今更どうしたらいいのか分からない。
考え込んでいる内に日が暮れた。ジルムートは忙しいのか、まだ戻って来ない。そんな中玄関から声がした。のろのろと立ち上がり、二階の廊下からこっそりと玄関の方を覗くと、若い女性と議員なのか、金持ちらしき男が立っていて、マクシミリアンが相手をしていた。
「ポートの英雄には、子を産む女が必要です」
あ……。聞いたらダメなやつだ。分かっていたが逃げ出す前に声が続いた。
「こちらの奥様は、ポートの女神にお仕えするお仕事で多忙だと聞き及んでおります。立派なお仕事をなさっておられる以上、子供を産むのは別の女に任せて良いのではないかと。妻の座を奪おうなどと大それた事を考える娘ではありません。奥様にも仕えると言う気持ちでおります故、ご安心下さい」
「子供の母親としてのみ居場所を頂ければ、ジルムート様と奥様の間に立ち入る気はありません」
思い切り夫婦間に立ち入っている訳だが、全然そう思っていないと言う物言い。男も若い女性も、礼節をわきまえて話をしているつもりなのだ。
私がこの話を受け入れたら、ジルムートは辛い思いをしなくても良くなるのだろうか。消えてしまうかも知れないなんて、怖い事を考えて恐る恐る私に触れる様な事、しなくて済む。疲れ切って気弱になった部分がそんな風に考える。
そんな訳ないでしょう?悲劇のヒロインになって少しでも自分がいい気分になる方法を考えているだけじゃない。もし本当にあの女を館に迎え入れたら後悔するわよ。……ジルムートが、苦しめて悪かったって平謝りして、あの女を追い出してくれれば気分は幾分良くなるでしょうけれど、そんな事の為にジルムートの愛情を試すの?本来の私が、気弱な考えを一刀両断する。
その通りだ。私がジルムートにいきなり他の男を紹介されたら怒る。自分はふさわしくないからこの男にしてはどうか。などと言われたら、間違いなく怒る。だからこれはやったらいけない事だ。
マクシミリアンが、問答無用で追い返しにかかっている。男がわめいているが、そっとその場を離れて部屋に戻る。……出征から帰ってきたジルムートにはああいう輩が近づいて来るようになった。私を傷つけるとジルムートが怒り出す事は皆理解していて、私に直接何かを言って来る事はまずない。しかし、ジルムート本人が認めたらいいのだと考えている者は少なからず存在する。健康そうでとても綺麗な娘ばかり選んで連れてきて、正面からああやって訪ねてくる。その方が抜刀許可証を使われないと考えているからだ。
世間一般のあいまいな常識を「こうあるべき」と言う正論の様に振りかざしてジルムートの日常に入り込もうとする輩は、ジルムートを悪く言わない。身バレを恐れている時は私の事すら持ち上げる。しかしジルムートが厳しく断ると、恨んで噂を流す。私の悪い噂だ。
私には子供を産む能力が無い。
噂の出処は分からないが、この噂が城で消えなくなった。式典のお祭りムードにも関わらず話題に上るのは、私を城で見かけるからだろう。
ジルムートの権力に関与したいだけなのに、人の理だとか正しいとか言うのやめてよ。ジルが普通の騎士だったら、こんな風に絡んでこなかった癖に。
そう怒鳴ってやれたら、どんなにいいだろう。……出来ないが。
一つでも答えを見つけて身軽になりたいのに、どんどん重たい物を背負い込んで、前に進めなくなっている気がする。
夜が更けてもジルムートは戻って来なくて、私は食事を取った後、眠れない夜を過ごしていた。……クザートの分も仕事を背負っているのだから遅くなるのは仕方ない。
そんな所へ、ノックの音がした。
「マクシミリアンです。奥様、少しよろしいでしょうか?」
「談話室へ行きます。そちらで待っていて下さい」
「分かりました」
もう寝間着になっていたので、私服に着替えて談話室へと向かう。
すると、談話室には可愛いお菓子とお茶が用意されていた。薔薇の形に焼かれたメレンゲ菓子は、「アタリ」のあるこの世界で作るには相当難しい品だ。……「アタリ」と言うのは、卵の有精卵の事だ。有精卵はあまり日持ちしない。ポートは暖かいから、有精卵は親に温められていないのに、中で雛が育とうとして死ぬのだ。そして腐る。だから、あたらない様に殻ごとまず茹でてしまう事が多いのだ。その後で食べられる部分を選り分けて料理に使う。
だから鳥の卵そのものの生産量が少ない。焼き菓子には卵が入っていない事が多い。粉と水と砂糖を練って、風味付けにオリーブオイルや、ひまわりやブドウの種から絞ったシードオイルが入っている。
「マックス、これは」
「奥様へ、旦那様からです」
「ジルから?」
ジルムートはいつも買う焼き菓子の店に、どうしても作って欲しいと前から頼み込んでいたらしい。それが今日ようやく出来て、店を閉めた店主がわざわざ納めに来たらしい。早朝の市場での激しい卵争奪戦がようやく終わり、店主は満足して帰って行ったそうだ。
ただ卵白に砂糖を混ぜて泡立てて、薔薇の形にして焼いただけ。ジルムートが自分で卵を買って作ってくれたわけでもない。でも、ジルムートがただ私の事を考えて贈ってくれた品である事は強く伝わって来る。……何て素敵なプレゼントだろう。
「食べてしまうのが、勿体ないですね」
胸が一杯で、それだけ言うとマクシミリアンは言った。
「どうか……旦那様を信じて下さい」
信じる?
「旦那様にとって、奥様はローズ様だけです」
マクシミリアンは、私がさっき見ていたのに気付いているのだ。
「俗物共の事は忘れて下さい。結婚すら拒んでおられた旦那様の事を使用人は皆知っています。その気持ちを変えて下さった。それだけで奥様だけがバウティ家の女主人なのです。英雄などと言う望まない重責を背負っている今も、旦那様を支えているのは奥様への気持ちです。代わりなど、居ないのです。……これはそんな旦那様から奥様への気持ちです」
薔薇の花のお菓子は綺麗だが食べたら消えてしまう。勿体ないが、マクシミリアンの勧めもあって口に一つ入れる。甘味だけを残し、サクサクと砕けて消えていく。
「おいしい……」
もう一つ食べる。食べたら無くなってしまうけれど、見た時の美しさ、そして口に入れた時の甘さは記憶に残る。そして贈ってくれた人の気持ちも。きっと私が最初に見た時の驚きと、今の嬉しい気持ちもずっと残る。
お菓子を、一つだけ残した。
「ジルが戻って来たら、これを食べる様に言って渡して下さい。……勘違いしないで下さいね。とてもおいしかったから、ジルと分け合いたかったのです」
「旦那様は、甘い物がお好きですものね」
マクシミリアンは快く承諾してくれた。
物凄く落ち込んでいたけれど、ジルムートがその気持ちを救いあげてくれた。これから先、レフに色々聞いたところで、私が望む様な答えは得られないのかも知れない。でも、それでも、私達は一緒に生きて行く。そうしたいと願う。周囲が納得しなくても。だから……もう揺れたりしない。
夜中。うとうととしていると、さらりと頭を撫でられた。その手にそっと触れる。
「起きていたのか」
「寝そうだったけど、どうしてもお礼が言いたくて。お菓子、ありがとう」
「礼を言うのは、俺の方だ。本当なら魔法については、俺が調べてローズを納得させるべきだったのに、忙しくて余裕が無かった」
「ねえ、結婚する前に、私があなたの血で消えてしまう存在だって分かっていたら、結婚してくれた?」
暗闇の中、少し沈黙したジルムートは言った。
「結婚はしないが、他所に嫁に出す事も無かっただろうな。そんな話が出たら、全力で潰していただろう」
「飼い殺し?」
「何とでも言え。他の男にくれてやる訳なかろう」
「私はきっと、結婚してってお願いしちゃうな」
ため息が聞こえる。
「俺は、何度やり直してもプロポーズ出来ないと言う事か」
笑いながら、私はジルムートの首に腕を回してそっと抱きしめた。久々の感触にため息が出る。
「怖い?」
ジルムートが私を抱きしめ返して言う。
「怖い。お前が怖いのではない。この世界から消えるのがお前だと思うと怖い。こんなに近くに居るのに、凄く……遠く感じる」
「あのお菓子、私を食べたいって意味だったのでしょう?」
「笑うか?触れる事すら怖くなったのに、浅ましい事を考えている俺を」
笑う訳がない。私を好きで居てくれるからの矛盾だ。
「もう、キスはねだらない。……だから少しづつでいいの。元に戻ろうよ」
「そうだな。でも少しづつは俺が無理だ」
一個お菓子を残したのは、私も食べて欲しいと言う意味があった。ジルムートを煽った自覚はあるが、まさか一睡もできないとは思ってもみなかった。
翌日酷い顔で日勤に出て、リンザに揶揄われた。




