ジルムート・バウティの帰還
アレクセイの事を隠したまま、グルニアでの治安整備は続いた。
帝都には、ジュマ族が降りて来て定住する事になった。加護と呼ばれる重力に逆らい、見た目を変化させる魔法の文様を落としてしまえば、彼らは確かに金髪、金目のグルニア人だった。彼らがパルネアの議会と連動してグルニアの統治を行うのであれば、グルニア人による自治体勢が整うのも早いだろう。
今後はパルネアからの移住民も募り、より一層食料の自給生産を進める事になるが、それは俺の管轄ではなく、パルネアからやってくる治安代行の仕事だ。
アレクセイの女装の件で誤解を生み、それが問題に発展しかけていた事を知ったのは少し前の事だ。ジュマ族の誰かが、親しい役人に俺の行動に対する愚痴を言った事から、危うく騎士団の権威に傷がつく所だったらしい。
あの後、アレクセイの話を聞くと言う状態は続いていたが、ナジームが加わった事により、ジュマ族は俺が密会をしていると言う考え方を改め、友好的な態度に戻る事になった。
顔の怖いナジームの嫁候補を説得していたのだと言う解釈をされ始めたのだ。今度はナジームが頭を抱える事になった。
アレクセイはすっかり俺達に打ち解けて、その解釈に腹を抱えて笑った。
「丁度いいではないか。私をナジーム殿の婚約者に立てて、ポートに連れ帰ってくれ」
アレクセイはどうしてもミラに会いたいから、その方法の模索に余念がない。
「そんな事をしたら、俺は本当に嫁を取れなくなります」
三十を過ぎたおっさんで、悪鬼の様な男が情けない事を言っている。
「いいんじゃないの?それ」
そう言って、意地の悪い笑みを浮かべているのはルミカだ。グルニアに再度来て以来、ずっとナジームと共に俺を補佐してくれている。
「では、ルミカ殿の婚約者にすれば……」
「やだよ。男なんて」
「俺も嫌ですよ!」
ナジームの悲鳴に、ルミカとアレクセイがゲラゲラ笑っている。アレクセイとルミカは、妙に馬が合う。こうやって、ナジームをからかって笑っている事がよくある。
本来ならアレクセイの居る場所にはラシッドが居た。子供の頃から何度も見た光景を重ねて思い出してしまう。
三十を超えても、中身はあまり変わらないのだと、どうでもいい事を悟ってしまう。
「どっちにしろ、治安代行が来たらゾーヤは連れて行かなくてはならない。……ナジーム、そういう事にしろ。向こうで婚約破棄すればいいだけだ」
「俺の評判なんて元々あって無い様なものですが……こんなに目立つ帰国の後では、婚約破棄も目立ちます。もう本当に結婚できません!」
見た目と異なり、気の小さいナジームは悲壮な声を上げる。
ぽんとルミカが、ナジームの肩を叩く。
「それもまた人生だな」
ナジームは、顔を両手で覆ってしまった。
アレクセイの兄であるユーリ皇太子は、アレクセイ以上の魔法使いで、アレクセイを逃す為に、自分の側近の容姿を魔法で変化させ、アレクセイの代わりにした。その後、ユーリ皇太子は、床に伏した状態で、ミラを逃がす手筈を整え、息を引き取った。最後まで弟妹の心配をしていた様だ。
皇帝はその時にはもう既に行方不明だったから、家臣達はユーリ皇太子の命令に従っていた様だ。
「国の衰退など、あっと言う間だ」
見た目は少女の様だと言うのに、酷く疲れた表情で語るアレクセイの言葉は耳に残った。
俺達が出征に出て一年半が経過した。ようやく治安代行の一団がグルニアの帝都にやって来た。
来たのは、ジュマ族と共に治安維持を担う騎士達と、グルニアの地方へと今後の活動を広げていく為に必要な手腕を持っているパルネア人の一団だ。
「ジルムート序列一席、長い間ご苦労様でした。今後は我々にお任せください」
治安維持代行のリチャード・モレンは、俺よりも年下の青年だった。即位されたシュルツ陛下の学友だったと聞いている。物腰は柔らかいが、鋭い雰囲気を隠し持っているのはすぐに理解出来た。
率いて来た者達も年齢が若い。この先の治安計画は数十年と言う時間がかかる。彼らはその期間、パルネアへ戻る事は出来ないと言う事だ。
「お待ちしておりました。ようやく任を離れる事が出来る事を、喜ばしく思っています。これから先の統治は苦難も多いでしょうが、隣人として我々が必要な場合には、いつでも力になりたいと思っております」
リチャードと握手をすると、周囲が湧く。これで俺とポート騎士団のポートでの仕事は終了した事になる。
その日の夜は、ささやかだが宴が開かれ、俺はリチャードとグルニアの情報交換をしながら色々と話す事になった。ルミカとリチャードが元々の知り合いと言う事もあって、後半はルミカに話を任せる事にした。その後、挨拶に来る者達から、飲み干すとすぐに注がれる酒にいい加減飽き飽きして、俺は宴の席を立って外に出た。
俺は酒の味が嫌いだ。甘かろうが辛かろうが、最後に舌に感じるねっとりとした酒精の味が嫌いなのだ。我慢して飲む事で酔えば良いのだが、俺は未だかつて酔うと言う状態になった事が無い。だから、普段は飲まない。飲むなら、ローズの淹れた茶がいい。
やっと、ポートへ帰れる……。
まだ冷える中庭で息を吐くと、息が白くなった。
初めて雪を見た。ローズの故郷であるパルネアがとても寒いと言う事をひと冬越して理解した。
ポート騎士団の外套は薄くて、ここでは使い物にならなかった。ジュマ族が調達してきた内側に毛皮の張られた外套は、室内でも着用する事になった。それ程に寒かった。これだけ冷える場所で、食料も乏しくなれば人心が荒むのは仕方ないと理解した。
ローズからの手紙には、俺の体調の心配と、いつまでも待っていると言う事が書かれていた。走り書きだったのが気になるが、俺はローズの気持ちが分かったので十分満足だった。
手紙を支えにこの地で過ごす時間も、もう終わる。
人の気配がして先を見ると、侍女を連れた背の高い女が歩いていた。
既婚者は妻子も伴っていると聞いている。とは言え、こんな夜更けに女が外を歩くのは、不用心だ。
近づいてみると、女が振り向いた。
「あら、ジルムート様、お久しぶりですわね」
……確かに見覚えがあるのに、誰か分からない。何よりも違和感があったのは、その太い声。……暗がりでも分かる毛皮のコートを羽織ったドレス姿。そして化粧の匂い。アレクセイと違って、こいつは男である事を隠さずに女装している。
暗い上に厚着だった為、女だと思ったが完全に男だ。髪の毛は結い上げているので、振り向いた事で、太い首も、化粧した顔が男である事も良く分かる。
俺がどう応じるか迷っている内に、ふふっと笑い声がした。
「お忘れですか?マルク・カーンですわ」
思考の末、出征前の打ち合わせで何度も会っていたパルネア人ハーフの男を思い出す。あの頃は普通だった気がするのだが……どうしてこうなってしまったのだろう。
「あなたの奥様に、とてもお世話になりましたのよ」
「ローズに?」
「ええ。ローズ様のお陰で、本当の自分に出会えました」
言っている意味が分からないので、黙って様子を見ていると、マルクは片手の甲を俺の方に向けた。
「素敵でしょう?この爪」
暗い中、侍女の持つランプに映えるのは真っ赤な爪だ。
「奥様が染めて下さいましたの」
「ローズが?」
「ええ」
俺を見て、マルクは薄く笑った。
「ローズ様には、心から感謝しているとお伝えください。……行くわよ、カーラ」
「はい」
判断に迷って、結局見送ってしまった。俺の知っているマルクだとして、リチャードがここまで連れて来たなら、不審者として尋問する訳にはいかない。宴の席でまだ飲んでいるリチャードに、マルクの事を聞いてみる事にした。
「あの方は見た目こそ奇抜だが、とても有能だ。頼りにしています。見た目も慣れてしまうと当たり前になってしまうので、言い忘れていました」
どうやら、パルネアに行った時点で、あの姿だったらしい。ポートで……俺が居ない間に何かあったのだ。そしてそれにローズが関わっている。
気になるが、翌日からは帰国準備に追われ、マルクに詳しく聞く様な時間は取れないまま帰国する事になってしまった。ルミカが何か知っている様子だったが、聞くならクザートからにしてくれと言うばかりで、口を割らなかった。
後からグルニアに来ていたフィルからの話で、マルクが連れていた侍女がクザートを怒らせたと言う事だけは分かった。それにもローズが関わっているらしいが……これもクザートに聞けと言う話になった。どうして誰も話してくれないのか。
帝都に近い海岸に港が出来て、パルネアと船で移動できる様になった為、移動時間は短縮された。ポート騎士団は陸路よりも海路の方が得意だ。パルネアの港から海路でポーリアを目指す事になった。
とは言うものの、新しい海路で潮流図が出来ていない。今後もパルネアの港を利用する商船の事を考えれば、丈夫な軍艦で潮流をある程度調べるのも仕事になる。
そうしてゆっくりと帰国する内に、ポーリアでは帰還式典の準備もしている。俺の帰国日が、ポート騎士団のグルニア出征記念日として祝祭日になるらしい。俺の帰還により、パルネアにグルニア統治の権限を完全に譲渡する事になる。……統治権限を委譲した日ではなく、帰還した日にするのは、移動中に事故で俺が死んだら困るからだそうだ。
そんな万一を考えるなら、潮流図なんて作らせたりしないで陸路で帰らせてくれればいいのだ。しかし、ポートの騎士は海の騎士だから、船でポーリアに戻って来なければならないものらしい。……後世に伝わる事なので、こういう部分は大事だとリチャードに言われた。
俺は、グルニアで何が出来た訳でもないのに、英雄扱い。
傭兵を始末して窯を消去したが、大半の時間が、空っぽの帝都の留守番役だったと言える。出征を正当化する為に、誰かがこの役目を担わねばならない事は理解している。それが俺である事は仕方ない。
クザートが『ポーリアの守護神』として、治安維持の象徴となる一方、俺は『ポートの英雄』として騎士団の象徴となる。これは、まだクザートがグルニアに居た頃から決まっていた役割だ。
俺とクザートの役割に、ローズとディアとモイナは巻き込まれる事になる。今頃は外を気安く出歩く事も出来なくなっているだろう。こんな状態がずっと続くとは思っていないが、数年単位で堪えてもらわねばならない。
そしてようやくポート湾に着いた訳だが、帰港に待ったがかけられた。身綺麗にしてから帰って来いと言う事で、真水の入った樽と真新しい制服を届けに、舟でラシッドがやって来た。
「船から降りる所から、式典と言う事になっていますから、これ覚えておいて下さい」
帰還の挨拶文を渡されて、段取りを聞く。クルルス様に挨拶をした後、ローズが俺に花束を渡すと言う状況だと理解する。
「……ローズを引っ張り出すのか?」
「その方が、海外受けが良いみたいです。何せジルムート様は、愛妻家の英雄ですから」
「は?」
訳が分からない。ラシッドはそれ以上詳しく語らなかった。
「こういうのは、実際に肉親であるクザート様にお聞きした方がいいと思いますよ」
「お前もそう言うのだな。一体どうなっているのだ?」
「これから時間はいくらでもありますから、今は英雄業務に専念して下さい。では、また明日」
ラシッドにも、はぐらかされてしまった。
はぐらかされている俺自身、実は聞かない方が良いと言う気持ちがある。あの女装したマルクを思い出すとそう思ってしまうのだ。あの異変はただ事ではない。それで今日まで来てしまった。
とにかくローズに会える。それだけを楽しみに翌日は耐えると決めた。
ようやくポーリアに船が帰港し、俺は段取り通りに式典に臨む事になった。
「この度王命に従い、無事に出征を終了した事をご報告させて頂きます」
「そなたなら必ずやり遂げてくれると信じていた。よく無事で帰って来てくれた。勤めご苦労であった」
そう言った後で、クルルス様はにっと笑った。『元気そうじゃないか』と言わんばかりの茶目っ気が滲み出ている。俺の仕える主が相変わらずな事に酷く安堵した。
その後、馬車が少し離れた場所に停まり、待っていたクザートに手を取られて女が降りて来た。
……ローズ。
淡い水色のドレスを着たローズが、クザートに手を取られ、花束を片手に抱えてゆっくりと歩いて来る。
俺の嫁は、やっぱり美人じゃないか。
胸が小さい事を苦にしているローズは、自分を過小評価しがちだが、俺はずっと見ていた。美しい大人の女へと成長していく姿を。記憶していた以上に美しい姿に目を奪われる。
腕に俺の贈った腕輪が付いている。それだけで俺は人目なんて気にしないで、ローズを抱きしめたくなった。腕がムズムズするが我慢する。
以前作った真っ赤なドレスは、動機が気に食わなくて褒める気になれなかった。今回は、俺を出迎える為にローズが着飾ったと分かるだけに、手放しで賞賛したい。本当に良く似合っている。
「無事の帰還、嬉しく思います。お帰りなさいませ、旦那様」
他人行儀に花束が差し出され、それを受け取る。俺が触れたいのはこれじゃない。
「そんな顔をしなくても、やりたい様にやっていいぞ」
ローズの横に居るクザートが小声で言ってローズがぎょっとしたが、その言葉と同時に俺は花束を地面に落とし、ローズを抱きしめていた。
「会いたかった」
拍手の音に紛れている内に小声で耳元に囁き、ローズを抱きしめる。おずおずと背中に添えられた手の感触が嬉しい。小さな声がした。
「私も」
俺はようやくポートに戻って来たのだと実感した。




