女主人の現実
『今まで私的な手紙を書いた事が殆ど無い。しかし、俺はどうしてもお前からの手紙が欲しい。欲しがるばかりではいけないので、俺からまず書こうと思う』
この後の内容については、部屋の外では絶対に読めないものになっていた。これに見合うだけの言葉を書き連ねて返事を書けと……。
素直に思ったまま書いているのは分かるが、もっとぼやかした表現をして欲しかった。
読んだら夜中に目が冴えてしまって、殆ど寝ていない。
素直に認めるなら、私しかこんなジルムートを知らないし、私にだけこの感情が向けられているのだと思うと、恥かしいけれど凄く嬉しい。私がジルムートにとって特別で、誰よりも大事にされているのだと思える手紙で、想像していたよりも心の満たされるものだった。死ぬまでこの手紙だけは手放さないでおこうと決めた程だ。
お茶を一緒に飲みたい。一緒に出掛けたい。一緒に眠りたい。
ジルムートの願う事は、私の願う事でもあるのだ。お茶を飲みながら二人で話した時間を思い出すと、鼻がツーンとしてしまう。
会いたい。
この一言だけは、まるで封印されたように書かれていなかった。まだ帰国には時間がかかるのだろう。だからその言葉だけ避けたのだ。
結局返事はすぐ書けなかった。ちょっと冷静になってからの方がいい。
朝の食事を終えて、私とルミカが出仕する時に、ラシッドも用事があると言って出て行った。
リンザはたまにそわそわしながらも、てきぱきと仕事をこなしていた。まさかポーリアにラシッドが居るなどとは思っていないのだ。
「騎士団の凱旋は明日みたいですね。お天気が良くなるといいのですが」
ウィニアが笑顔でそう言う。姉のリンザは露骨に顔を強張らせている。
「姉ちゃん、もういい加減諦めなよ」
ウィニアの言葉に、リンザがむっとしているが、反論する前にウィニアが言った。
「姉ちゃんが何しても許してくれる人なんて、ラシッド兄ちゃんだけだよ」
「許す?」
私が思わず声に出してしまうと、ウィニアはにこにこして言った。
「リンザ姉ちゃんは昔から大雑把なので、ご飯が必ず余るんです。余るのは勿体ないでしょう?お腹が一杯なのに食べていると、ご飯の時間って楽しくなくなるので、うちでは密かに悩みの種でした」
「だって、突然のお客様とか……」
「うちは罪人の家だから、訪ねてくる人なんていないよね?それに無駄遣い出来る程のお金もないよ」
ウィニアが言うと、リンザが黙る。
「ラシッド兄ちゃんが来てから、無理に食べなくて済んで、皆ほっとしたのです」
確かに大鍋があれば、大鍋いっぱいに作ってしまうと聞いた気がする。お菓子も作り始めると、買って来た粉を一度で全部使いきってしまうとも聞いた。
弟妹が多いからそうなのかと思っていたが、そうでないならかなり問題がある。何せこの世界では、料理はあっと言う間に腐るかカビが生えるものなのだ。
ウィニアの下の妹達は、ちゃんと食べる量を計算して料理を作っているそうで、リンザの居なくなった家の食費はだいぶ少なくなったらしい。
ラシッドの言っていた、与えられる側の気持ちを考えないと言う話がふと蘇る。
傷ついた様子のリンザにウィニアは言った。
「リンザ姉ちゃんの料理は美味しいよ。食べ過ぎちゃうくらい。でも、お年頃なイレーヌやギリアンは太りたくなかったのよ。私も。分かるでしょ?」
リンザが、見るからにしょぼくれている。
「あのね、リンザ姉ちゃんがイライラしていると料理を作って発散しているのを皆分かっていたから、強く言えなかったの。上手く伝えられなくて、ごめんね」
リンザは力なく首を左右に振る。
「私が言わせなかったのよね。それは……反省してるの。ごめん」
リンザはしょげた様子で私に言った。
「恥ずかしいのですが、実は以前にラシッドから言われた事があるのです。暴君も程々にしておけと」
またキツい言い方を……。
「物凄く腹が立って、誰が暴君なのよって怒ったのですが……皆が残るご飯を心配して無理をしていたのだと、あいつの食べている様子を見て気付きました」
厳しいが、ラシッドはリンザの事を考えて物を言っているらしい。
「こんな事が他にも色々とあって、私はあまり男性として見ない様にしていたのですが……ご飯を食べさせているだけの野良猫として扱うには限界が……私に意見する野良猫なんて居ませんから」
野良猫。ラシッドを野良猫って……どう考えても人食い大虎だ。
ふと、何も知らずに耳かきをしてジルムートに好かれた自分を重ねてしまう。
飼っていると思わないと相手をできなかったのは、異能者だからではなかった。気持ちの強さと純粋さが怖かったからだ。男嫌いで恋愛経験の無いリンザが、ラシッドの気持ちを受け止めるのはさぞ怖い事だろう。
ジルムートは我慢できる質で、優しい性質だから私は長い時間をかけて変わる事が出来た。しかしラシッドは短気だ。リンザの変化を待つなんて出来ない。色々と急なのだろう。
「リンザ、ラシッド様と別れたいですか?」
リンザは黙って俯いた。
リンザはラシッドの強い気持ちが自分に向くのは怖いけれど、他所に向けて欲しくないとも思っている。女心の複雑な所だ。きっとリンザに必要なのは、ラシッドと向き合う勇気だ。
寝不足な頭が言葉を紡ぐ。……ジルムートの手紙のせいで、昔を思い出してしまったのだ。
「こんな事を言うと驚かれると思いますが、実はジルムートは結婚したくなかったのです。それを知っていて結婚して欲しいと頼んだのは、私なのです」
二人共目を丸くして私を見ている。
「嘘です!私、ご結婚前から知っていますが、ジルムート様がローズ様を好きなのは有名な話で、いつ結婚されるのかと……」
「だったら、クザートとの仲も疑われていたのは知っていますよね?」
「そうですが……」
半分はジルムートに送り迎えしてもらっていたが、残り半分はクザートにしてもらっていたのだ。
クザートは出仕の際も帰りの迎えも、上層まで来ていた。……大袈裟だと思っていたが、中層勤務のラシッドの前を、私一人で通らせない為だったらしい。わざわざ下層から私を送り迎えするクザートは、普段は執務室に居るかポーリアの町に出掛けているから、あまり中層や上層に顔を出さない。
序列二席と言う高位騎士な上にジルムートと違って優男なので、中層の侍女達の間でクザートは一気に憧れの騎士様になった。しかし、私の送り迎えの時しか出会えない。つまり余分な私が居る為、誰も声をかけられなかったのだ。
結果、私がバウティ家に義理の妹として入って一年もすると、私が他所の家に嫁に行くと言う話は皆無になり、兄弟のどちらと結婚するのかと言う話になった。
ジルムート達を良く知る騎士達は、結婚願望の無い兄弟が結婚する筈が無いと思っていたらしいが、侍女達はそうでは無かったから、ずっと話のネタにされていたのだ。
「ジルは少し怖い見た目ですが、生真面目で優しい人です。……あの頃は、私の人生を背負うのを恐れて、結婚と言う考えから逃げていたのです」
「あんなに強そうなのに」
ウィニアが驚いて呟いた口に手を当てる。私は苦笑して、それに頷いてから言う。
「だから、背負わせない事にしたのです」
「「え?」」
「ジルにとって負担になりそうな条件を並べて、その負担は不要だと断った上で、結婚をお願いしました」
二人共、ぽかんとして私を見ている。
物凄く恥ずかしいので、絶対に言わない様に再度口止めをする。
「どうしたら結婚してもらえるのか考えて説得しただけの事です。くれぐれも内緒にしてくださいね。とても恥ずかしいので、誰にも言った事がないのです」
「ローズ様、そんなにジルムート様の事が好きだったのですか?」
リンザの言葉には笑うしかない。
「そうみたいです。自分の事って、分からないものですね」
リンザの背中を押す為、私は言った。
「リンザが本当にラシッド様との暮らしを望んでいないなら、ラシッド様は離れて暮らす方法をいくらでも用意できます。騎士はお金持ちですから、別宅を用意するなんて簡単です。新しい名前で人生を歩む準備だって、望めばしてくれるでしょう。でもラシッド様は……」
リンザの顔色が悪くなった。
「きっと、その方がいいと思います」
「リンザ?」
ウィニアの方を見たが、ウィニアも首を傾げている。分からないのだ。
「さあ、仕事に戻りましょう」
リンザはそう言って侍女の休憩室を出てしまった。何故そう思うのか聞く事ができないまま、日勤は終わった。ルルネとプリシラが夜勤で出て来たので、交代で私達は帰る事になった。
ウィニアは、いつもランバートの使っている豪華な馬車が迎えに来る。すぐに見つかるので、今日も先に帰って行った。ウィニアを見送り、私とリンザは自分の迎えを探す。
私はジョゼが迎えに来ると聞いていたのだが……来ていない。
リンザにはウィニアくらいの年の弟が居る。ギリアンと言うのだが、ラシッドが出征した後はこの弟が送り迎えをしていた。しかし今日はいつも来ているギリアンも見当たらない。
「ラシッド……」
唐突にリンザが青ざめて呟く。
私にはすぐ分からなかった。普段着のラシッドなど殆ど見た事が無いからだ。ちょっと視線を彷徨わせて、ラシッドが立っているのを見つけた。
リンザは何がどうなっているのか分からないと言う様子でラシッドを見ている。出征から戻って来ていない夫がいきなり現れるとか、驚くに決まっている。私もいきなり過ぎて、ただラシッドを見るしかない。
ラシッドはこっちが出て来た時から見ていたらしく、いつもの笑っているみたいな顔で近づいて来ると、私達の前に立った。同時に、リンザが私の背後に隠れるように身を寄せる。
「ローズ様、お迎えに来ました」
頭に来て、反射的に持っていた布のバッグを投げつけると、ラシッドは、ぱしっと受け止めた。そして特に気にした様子も無く、バッグを差し出す。
「はい、どうぞ。もう落とさないで下さいね。汚れますから」
もう投げつけて来るなと言う事だろう。
「あなたと言う人は!リンザに言う事は無いのですか?」
横で青い顔をしているリンザを庇いながらラシッドを睨むと、ラシッドは言った。
「ありますよ。こんな道端で言えないくらいには」
声が少し厳しいのは気のせいではないらしい。ラシッドの言葉にリンザの体がビクっと跳ねる。
「二人共乗って下さい」
ラシッドは外で話したくないと言う意思表示の代わりにそう言って背を向けた。
リンザが困った様に私を見るので、私は励ます様に肩を叩きながら言った。
「行きましょう」
ジョゼは迎えにきてくれない様なので、私も乗るしかない。
これからどうするつもりなのか、何処に行くのか、全く分からないまま私とリンザは馬車に乗った。行き着いた先は、ラシッドの館だった。一度も来た事が無いのだが、二人の館である事は確かだ。
リンザの顔色が凄く悪い。
「どうしたのですか?」
リンザは答えない。ただ青くなっているだけだ。
「降りてください」
ラシッドに手を貸されて私が降りた後、リンザはラシッドの手を借りずに飛び降りた。ラシッドがむっとしているが、リンザはすぐに私の腕に抱き付いた。
中に入ると、使用人が全く居なかった。
「お帰りなさい。ラシッド兄ちゃん」
走ってきたのはギリアンだった。
「ただいま。留守番を頼んで悪かったな」
「いいよ。お駄賃ももらったし。じゃあね」
ギリアンはそれだけ言うと、ちょっとだけリンザを見た後に黙って走り去った。
「談話室はこっちです」
ラシッドに案内されて、私はリンザの肩を抱きつつ談話室へと向かう。
気持ちよく片付いていて綺麗な談話室は、リンザの趣味だろう。暖色でまとめられたソファーとカーペットがいい感じだ。
「お茶を……」
リンザがそう言うと、ラシッドが制す様に言った。
「ローズ様、扉を出て右の突き当たりが台所なのですが、お願いしてもいいですか?」
有無を言わせない口調に、リンザが絶望的な顔をしている。客に茶を淹れさせるなど、マナー違反だからだ。
「分かりました」
ラシッドは、さっきから一度もリンザに声をかけていない。何か理由があるのだろう。逆らうのは得策ではないと思い、お湯を用意しに行く事にした。私がお茶の準備をしている間、ラシッドは何も言わなかったらしく、対面に座っているリンザも無言で俯いたままだった。
お茶を出した後、心許なげなリンザの隣に座るとリンザが身を寄せて来た。ラシッドが真っ直ぐ帰らず、私を立ち会わせた理由が何となく見えてくる。
「ラシッド様は、何に怒っているのですか?」
「うちの使用人にですよ。リンザは罪人の娘だし、腰が低いから舐めていたのでしょう。全てリンザにやらせて給料をくすねていたらしいので、切りました」
切るって、まさか本当に切ったの?
と言う疑問は、ぐちゃっと丸めて捨てる事にした。
「もしかして、年配の男性使用人だけだったのではありませんか?」
「そうです。……あなたの考えている通りの展開です」
ラシッドは妙齢の男性をリンザに近づけない為に、実家から古参の使用人を連れて来たのだろうが、リンザは上手く使いこなせなかったのだ。
実はうちの館に居るジョゼの様な古参の使用人達は、男主人を立てても、若い女主人をなかなか主とは認めない。私の場合、何年も「お嬢様」として館に暮らし、「若奥様」を経て「奥様」になると言う時間があった。
リンザの場合、罪人の娘と言う状態から妻になり、別居を経て同居を始めた途端に、ラシッドが出征してしまった。タイミングが悪かったのだ。
「問題は、誰にも相談しなかった事です。……どうしてだよ?」
ラシッドの指摘は最もで、私も思わずリンザを見てしまった。




