アネイラの結婚
ジョゼ・スライマン……バウティ家の使用人の筆頭に当たる。五十六歳。鍛え上げられた肉体の持ち主で、とても使用人に見えない。バウティ家には、他にも数人このような体躯の使用人が居る。
「大体、まだ妊娠したって決まった訳じゃないわ」
「傷物にされたのは事実だろうが」
「傷物になっただなんて思ってない!」
「誰なんだよ!」
「誰でもいいでしょ!」
「良くないに決まっているだろうが!」
元カレと元カノが、今カレを巡って言い争いをしている。……私は初恋が鍛冶屋のお兄さんで、次はジルムートだったから、恋愛経験と言う程の経験が無い。こういう場合、どうやって止めればいいのか分からない。
「医者を呼べばすぐに分かる事だ。呼ぶぞ?」
アネイラは慌てて言う。
「そんなのいらない」
「何でそんなに言いたくないんだよ」
それだ!それをまず聞くべきだった。アネイラは暫く黙ってから言った。
「お子さんが居るの」
私もルミカも絶句する。まさかの既婚者……。
ルミカは酷く疲れた顔でため息を吐くと、私の方を向いた。
「……俺に出来る事があったら連絡して」
ルミカはそう言って出て行った。
暗い表情で口を引き結んでいるアネイラと、どうしたら良いのか分からない私。……友達だが、全部を分かり合える訳じゃない。恋愛感情抜きの理屈で考えて、アネイラを説得する事にした。
「あのね、黙ったまま妊娠と出産をするなんて、現実的じゃないと思う」
「それでもやる。家庭のある人の子を身ごもったんだもの。言えないよ」
「アネイラ……」
「ローズはミラ姫を許したけど、ずっと償うって話をしていたでしょ?私もそうなるのよ」
気になったので聞いた。
「ねえ、アネイラは最初から相手に家庭がある事を知っていたの?」
アネイラは首を左右に振った。
「後で聞いたの。息子さんの話をする様になったのが最近の事で……」
一瞬で頭に血が昇った。
「騙されたんじゃない!」
さんざんアネイラをもて遊んで、家庭がある事をちらつかせるなんてどれだけ酷いのよ!
「違う!そうじゃない」
「誰なの?」
アネイラは、騙されているのだ。許せない。どうしてアネイラにばかりこんな事が起こるの?
アネイラはぐっと唇を引き結んで黙る。
「お願い。相手が分からないと力になれないの」
「もういい。あんたが優しいし面倒見がいいのは知っていたけれど、これ以上の迷惑はかけられない」
「迷惑だなんて思ってない」
アネイラは、私を睨んで怒鳴った。
「だったら、あの人の事を悪く言わないで。私は後悔していない!」
それ以上は話したくないと言う様に、アネイラはベッドにもぐりこんでシーツを被ってしまった。仕方なく私は部屋を出て、談話室でぼうっと座り込んでいた。
暫くしてから、誰かが玄関先に来ている様だったので、のろのろと対応に出た。
「ジョゼ……」
「夜分遅くにすいません。ルミカ様からお話を伺いまして、参上しました」
アネイラの事か。
「上がって下さい。立ち話をする様な内容ではありませんので」
談話室へ行く前に、ジョゼがまっすぐに台所へと向かう。
「奥様はお疲れです。私にお任せください」
出来る使用人の言葉に従い、私は素直に談話室へと戻った。もう抗う気力が無いのだ。
ジルムートの好きなお店の甘い焼き菓子とお茶が出てきて、思わず涙ぐんでしまった。会いたい。
「奥様は旦那様のおられない中、気を張り通しになっておられます。周囲の方の事も大事ですが、ご自分の事も大事にして下さい」
「ありがとう。でも友達が辛いのに笑ってなどいられません」
ジョゼは諭すように言った。
「厳しい顔をしていては、アネイラ様も素直になれないのではありませんか?」
「そうですね……そうかも知れません」
そうは言うものの、笑える気がしない。
「ローズ様がいらして、ジルムート様がもう一度笑う様になった時、私は本当に感謝致しました」
ジョゼを見ると、硬そうな顔に笑みを浮かべている。
「私はかつて騎士でした。バウティ家の従家として城に出仕しておりましたが、カイマン家によって騎士位をはく奪されまして……バウティ家に護衛を兼ねた使用人として雇っていただく事になりました」
オズマ・カイマンの悪評は何処でも聞く気がする。この人も被害者だったらしい。
「当時の私は、騎士から使用人と言う立場に落ちた事を屈辱的に思っており、いつも不機嫌でした。それを当時七歳だったジルムート様に指摘されました」
ジョゼは遠い目をして思い出している様子で続ける。
「どうしてジョゼは怒っているのか分からない。怖いから笑って欲しいと言われました」
今のジルムートからは想像できない可愛い子供の姿を一瞬思い浮かべて思わず笑ってしまった。その後も、ジョゼはジルムートが子供の頃の話を幾つかしてくれて、気分が幾分和らいだ。
「バウティ家の従家だった騎士は、騎士の位をはく奪され、市井で暮らしております。バウティ家への忠義を忘れていない者も多く、騎士ではない事を活かしてバウティ家の為に働いております。奥様の為であれば、我々は喜んでその手足となりましょう」
つまり、アネイラの相手を調べてくれると言っているのだ。
「ルミカ様はアネイラ様の事に関して、ご自分が関わるのは良くないと判断されました。ですので、ローズ様のご判断で事を成せと仰せです」
ルミカは自分が追い詰めた結果、アネイラが未婚の母になろうとしている事に責任を感じている。しかし、自分が介入する事も良しとしていないのだ。
「少しだけ待って下さい」
私はジョゼを見て真剣に言った。
「アネイラの秘密を勝手に暴く様な事はしたくないのです。時間が無い事も分かっています。ですが、もう少しだけ待って頂けませんか?」
ジョゼは、困った様に笑ってから言った。
「分かりました。いつでもお声がけ下さい」
「頼りにしています」
万一の場合にはジョゼを頼れる。それだけで気分が楽になったのは確かだ。
翌日から暫くアネイラは出仕を休む事にした。私からセレニー様や他の侍女達には体調不良だと伝えた。慣れないポートの気候のせいで疲れがたまっているのだと言う事で、納得してもらった。これで暫く時間を稼げると、私とディア様は内心ほっとした。
ディア様に事情を話すと、やはり私と同意見で男に騙されたのだと言う結論になった。気分が暗くなったのは言うまでも無い。
「今日は、アネイラさんお休みですか?」
帰りに迎えに来てくれたジャハルに聞かれて、城で言ったのと同じ事を話す。
「体調不良で、少し休んだ方が良いみたいなのです。ポートの気候に慣れていないのかも知れません」
「ポート熱とかですか?」
ポートでも有名な風土病の名前だ。数日高熱が続くのだ。実は私もこれで苦しんだ事がある。ディア様もこれで出仕を休んだ。アネイラは既に館に籠っている時にかかっている。
「疲れがたまっているだけみたいで、そう言うのではありません」
「医者の見立てはどうなっているのですか?」
あれ?そこまで詳しく聞きたい?
改めて目の前に立っているジャハルを見た。心配そうな表情に、何かが繋がった気がした。その途端、急に気分が軽くなってしまった。この可能性を全く考えていなかった。
「ジャハル様、大事なお話があります」
私の言葉だけで、ジャハルは何を聞かれるのか悟ったらしく頷く。
「到着してからでいいですか?」
「勿論です」
ジャハルは馬車で移動中もずっと無言だった。移動しながら話す内容でも無いので、私も黙ったままだった。館でもすぐにアネイラの所に行こうとせず、談話室までついて来てくれた。全く慌てていない。対応が凄く冷静で助かる。
その後、アネイラが妊娠している可能性が高い事を言っても、ジャハルは驚かなかった。
「お察しかと思いますが、相手は俺です。……子供ですか」
ジャハルは噛み締める様に言った後、続けた。
「ライナスの世話と城の激務に追われている内に、四十を超えていました。ライナスも独り立ちして、騎士も辞めました。その後、お世話をしていたミハイル様もすっかり手がかからなくなりました。俺はこれからの人生をどう過ごすか、空いた時間を持て余していました。そんなときにアネイラさんの話を聞く事になりました」
馬車から降ろそうとして手を貸した際に、縛られた痛々しい跡に気付いたそうだ。
「結婚など今まで一度も考えた事が無くて、あの日も可哀そうな娘さんをただ慰めるだけのつもりでした。でも話を聞いている内に、気持ちを一気に持って行かれました」
「では、最初から……」
「はい。俺も、親子に見えそうな程若い女性にあっさり惚れるなんて、思ってもみませんでした。……でも、嫁にもらおうと思うのに迷いは無くて、最初からそのつもりでした。俺の残りの人生がどれだけあるか分かりませんが、生きている限り大事にするつもりです」
この人、格好良い。女性なら誰でも憧れる言葉だ。恥ずかし気も無く言える辺りに、大人の余裕を感じる。アネイラのイメージしていたであろう優男な王子様のイメージとはかけ離れているが、絶対にアネイラには合っている。
「実は、アネイラはジャハル様に奥様が居ると勘違いしています。それで塞ぎ込んでしまって……」
ジャハルはきょとんとしてから、苦笑した。
「アネイラさんの気持ちが傷ついているので、俺の事を押し付けがましく話す訳にはいきませんでした。時間をかけている内に誤解が生まれてしまったみたいですね」
ライナスは養子で、ジャハルに妻は居ない。
「アネイラには、直接ジャハル様から話をして下さい。私は自分の館に帰ります。……アネイラを、どうかお願いします」
ジャハルは、にっと笑った。
「謹んでお受けします」
ジャハルは、アネイラに会う前に私を館に送り届けてくれた。ジョゼが出迎えてくれたので、事情を話すと安堵した顔になった。
「よろしゅうございました」
「安心したら、お腹が空いてきました。何かありますか?」
「ご用意します」
食べている内にルミカが帰って来た。
「何でローズがここに居るの?アネイラは?」
「未来の旦那様と一緒です」
ルミカが身を乗り出して来る。
「誰?」
「ジャハル様です」
一瞬ぽかんとした後、ルミカが叫ぶ。
「嘘だろ!ジャハル?あのジャハル・ゴードン?」
信じられないと言う顔をしているルミカに言う。
「信頼の置ける大人の男性です。アネイラに必要な物を全て兼ね備えた方だと思います」
騎士ではないし、アネイラをお姫様扱いしてくれる。
「アネイラとじゃ、親子にしか見えないだろう」
「自覚された上で、結婚するつもりだったとお聞きしました。婚約もしないまま、何年も縛り付けて捨てた人より好感が持てます」
ルミカが情けない顔になった。
「もうアネイラの事は、ルミカの中でも終わらせていいんですよ」
「ローズ……」
「後悔していたのでしょう?ずっと」
ルミカは寂しそうに笑った。
「情けないよね。……こんな俺でも、ローズは一緒に居てくれる?」
「義理の姉で、女友達と言う事であれば」
「それが一番いいや。誰と付き合って別れても、ローズだけは変わらずに居てくれるんでしょ?」
「そんな安心は不要です」
「そう言わないでさ。……嬉しいな。ここに戻って来るんだろう?」
「勘違いしないで下さい。ここはジルと私の館です。早く、新しい館を探して下さい」
こうしてアネイラの相手が判明し、翌日に医者に診察を受けて妊娠は確定した。私はこの日を境に元の館に住まいを戻し、アネイラはジャハルの館へ移り住む事になった。
ジャハルは細かい所にまで気の利く人で、アネイラの事を気遣いながら護衛の仕事をしている。忙しい仕事ではないから、アネイラの側に居る時間が多く、アネイラは安心して過ごしている。
お城の方へも、妊娠とジャハルとの結婚を報告する事になった。ジャハルは長年城に勤めていた事から、慕う騎士がとても多い。この結婚は祝福ムードで受け入れられる事になった。
「アネイラ、赤ちゃんをまず無事に産んで頂戴。是非お城に戻って来てね。待っているから」
「はい」
セレニー様の言葉に、アネイラはニコニコして頷いた。ジャハルに甘やかされて、想像以上に甘い暮らしをしているアネイラは、この世の春を謳歌していて、ツンツン部分は完全に失われてしまっている。
「素敵な王子様でないとダメなんじゃなかったっけ?」
「あんたには分からないでしょうけど、素敵な王子様だよ」
アネイラの心底嬉しそうな笑顔に、私もようやく肩の荷が下りた。
それから暫くして、アネイラの為に結婚のパーティが開かれる事になった。パルネアの風習なのでポートにはなじみの無いものだが、ジャハルはすぐに開くと決めた。結婚したと言う実感をアネイラに持たせる為だそうだ。ジャハルは、本当にアネイラに甘い。
広い場所が必要なので、うちの館の中庭を提供する事にした。ガーデンパーティだ。
「アネイラ良かったね。でも王子様じゃなくておじさまだよ」
モイナ……上手く言わなくていいから。
ライナスは嬉しそうにアネイラと話をしている。暫く見ない内に、ライナスはすっかりたくましい男性に成長していた。今は一人で暮らしているそうだ。がっしりした事で、モイナの恋の対象は違う人に移ったらしい。誰かはまだ聞いていない。
プリシラが男性に口説かれて逃げ回っているので助けつつ、和やかな雰囲気のパーティをディア様と一緒に眺め、懐かしいパルネアの話をした。
そして最後のイベントであるキスが来た訳だが……すごく長いキスの後、腰砕けになっているアネイラを支えたジャハルが、喝さいを浴びる中、余裕の笑みで手を挙げて応じると言う状況になった。
「あれは……どういう事かしら?」
震える声で聞いて来るディア様に、恐る恐る解説する。
「ポートでは、夫婦でキスをするのは愛情表現として最も一般的だそうで、恥ずかしくないみたいです」
モイナは、少し先で大喜びして飛び跳ねている。避けられそうにない未来に、ディア様は顔を覆った。




