第八話 迫り来る現実
時計の短針が九を少し超えた頃、俺とヤシロは雛形に連れられ寄宿舎の前に立っていた。元はどこかの会社が使っていたオフィスビルを宿舎に改装したのだろう、建物の外観は塗り替えられて新しく見えるが、その造りは古く痛んでいる。
ヤシロは友人を失った心労が眠気を誘発し、瞼を半分ほど閉じている。身体を俺に預け、うとうとと首を上下に動かす姿は年齢以上に幼く見える。
「到着です」
雛形の年の頃は二十歳前後――恐らく俺と同じくらいの年齢だ。艶のある黒髪をポニーテールのように束ね、快活な印象を与えるが身長はそれほど高くなく、スポーツマンといった風体ではない。しかし、ほっそりとした体躯と裏腹に引き締まった二の腕と剥き出しにした太腿は鍛え上げられて引き締まっている。腰に佩いた双剣は、理知的にも見える彼女が確かに武闘派であることを示していた。
「今日一日だけ、急でしたので空き室――二人には同室に泊まってもらいます。寝床は二つありますが、くれぐれも変な気は起こさないように。二人の関係に口を挟むつもりは毛頭ありませんが、やんちゃをしたら生き辛くなります」
「……その心配は要りません。俺が手を出すように見えますか?」
「制服マニア、らしいですから、釘を刺すのは私が女性である以上当然です」
「誤解です。先程も言いました、制服は嗜む程度と。俺の嗜好はもっと正常で、何より分別がある。寝ている少女に悪戯をするほど俺は悪趣味ではないし、童貞のように女に飢えた生活を送ってはいません」
向けられる雛形の鋭い視線を躱し、俺は夢の世界に足を踏み入れたヤシロを抱き上げる。雛形の瞳は一層懐疑の色を濃くするが、それ以上の口出しはして来なかった。
「それはそうと、出来ればどの部屋を使えばいいのか教えてください。この子を立たせたまま寝かせるのは男として忍びない」
雛形はジッと押し黙り、しばらくするとついてこいと俺に促す。管理人室で鍵を受け取り、恐れ多いと管理人室から飛び出そうとする管理人を制して足を進める。カツカツと硬いブーツが床を打ち、誰もいない薄暗い廊下に反響する。
「…………」
無言で前を進む雛形を見て、俺は舌なめずりをする。左右交互に差し出す足に連動して彼女の括れた腰が扇情的に動き、剥き出しの太腿は細いながらも女性的な膨らみを持っている。階段に差し掛かり、その脚線美はより輝きを増す。
自然と喉が鳴る。
けれどきっと彼女の表情は、全く俺を歓迎しないだろう。口元は一文字に固く結んでいるに違いなく、こちらを見よしようともしない目元は今まで以上に鋭く、不機嫌を顕わにしている筈だ。そんな彼女が見せるギャップはきっと凄まじく、そして美味だ。
(いや、いけないな……)
俺は首を振り、頭から煩悩を消し飛ばす。ここに来て早々、問題行動を起こす訳にはいかない。もっと功績を上げ、内部に食い込み、好き勝手が出来る立場と信頼を得なければならない。それまでは『暴食』を控えて、健全で善良の仮面をかぶり続けなければならない。
ギラギラと活力を滾らせた俺の瞳が平静を取り戻すと同時に、前を歩いていた雛形が振り返る。
「ここです。中には布団とシーツ、後は椅子机……日常的なモノしかありませんが、寝るだけなので了承してください。お手洗いは廊下の奥、何か不都合があれば先程の管理人室に。外出は控えてください。適性検査と一連の登録が終わらない内は、貴方たちは部外者ですので」
雛形は両手の塞がった俺の代わりに鍵を回し、扉を開ける。そして早口で事務連絡を伝えると室内に入るよう促す。
「何故、雛形さんまで一緒に入ってくるんですか……?」
促されるまま部屋に足を踏み入れた俺に続き、雛形も狭い玄関に入り込み、扉を閉める。俺は若干の警戒心を抱き急いで靴を脱ぎ終わると、ガチャリと後方から鍵を掛ける音が聞こえた。
シャン……と金属が擦れる音が背筋を凍らせる。
俺は足早に部屋の奥に進み、抱えたヤシロを布団の上に投げ捨てる。脱がせ忘れたヤシロの靴から泥が落ちて畳を汚すが、今はそれを気にしている暇はない。「あうっ」と寝言か悲鳴か分からないヤシロの呟きを聞きながら、俺は振り返る。
「虻川さん、そんなに急いで……何を、慌てているんですか?」
振り向いた俺の首筋に、ピタリと白銀の切先が突き付けられる。刃渡り三十センチに細身の刀身、柄と刃の境目には緑の玉石が嵌め込まれている。
「こんな美人に迫られたら、誰だって期待するよりまず、疑うでしょう?」
俺は両手を挙げて無抵抗を示す。相手の本気度合いを探る冗談は空振りに終わり、無言の雛形は銀の短剣と、俺を見定めようとする視線を突き付けたままだ。
一粒の汗が頬を伝う。
「……貴方だって俺を疑っていた。ふふっ、雛形さんは外面の良い男に騙されたことでもあるんですか?」
「――――ッ!!」
パンッ! と平手が冷や汗で湿った俺の頬を打つ。打たれた頬がヒリヒリと痛み、首筋を掠った切先に赤色が付着している。向けられた屈辱に対する激情により雛形の表情は歪み、そして軽く切れた俺の首筋を見て青褪める。
「ご、ごめん、なさい……」
「掠った程度です。俺の余計な一言の所為です、雛形さんは悪くない」
悪くない、とは一見相手を許す言葉に見えるが、その実罪の存在をはっきりと示し、相手の罪悪感を煽る常套句だ。真面な思考の――俺のように他人への共感が薄いなければ――相手ならば、真綿に染み込む水のようにじわじわと罪悪感に侵されていく。
シュンとした雛形を見て、少なくとも痛みと流血を差し引いてもお釣りがくる程に胸がすく思いが出来た。理知的に振舞いながらも感情を御し切れない人間は、俺の好物だ。煽り、追い詰め、見せるその反応は俺のような特異者だけでなく万人の心を揺さぶるのだ。
俺はジンジンと痛む首元に手を当て、傷の深さを見る。薄皮を切っただけの傷は致命傷には程遠く、出血も最初だけで今は止まっている。
「そんな顔しないでください。俺は怒ってませんし、何より美人が台無しですよ」
「そ、そんなこと……っ!」
「でも、応急処置をしないといけませんね。絆創膏か何か……は持っていないでしょうから、後で下の管理人室に行って貰ってきます」
「……私が貰ってきます」
「結構です。連れて来てもらった俺が言うのも何ですが、雛形さんは早く帰った方がいい。どんな意図で俺に刃物を突き付けたのかは置くとしても、ここに長くいると邪推されますよ」
雛形はムッとするが、俺の説得に力を感じてドアノブに手を掛ける。短剣の尖端の赤色を拭い鞘に納めると、逃げるように廊下に歩み出る。
「……何故、虻川さんまで外にいるんですか?」
「管理人室に行こうかと。二人で口裏を合わせた方が疑われずに済みます。……ああ、あとですね」
そして振り向き、数分前の俺と同じ言葉を口にする。
「どうせだから、雛形さんの疑問に答えようかと思って」
「…………」
「何故俺とヤシロが無事に辿り着けたのか。……知りたいんじゃないですか?」
雛形は目を細め、俺を睨み付ける。その顔色には俺に対する罪悪感は微塵も残っておらず、疑いが確信に至ったと双剣に手を掛け、立ち止まる。
「ああ、誤解しないでください。俺は特別な何かをした訳じゃありません。ただ妙だと思った時から念入りに情報を集めて、分析して、いざ乗り込もうとした矢先に彼女たちを見つけただけです」
俺は両手を挙げ、半分の嘘と半分の本当を並列させる。
「……と言うことは、やはり魔獣や魔蟲と遭遇したのですか?」
「ええ」
「倒した……いや、逃げたんですか?」
「ヤシロには随分と無茶をさせました。運動靴の俺と違い、彼女はローファーなので、やはり長距離移動――それも走るとなると負担が大きい」
「もう一人の女の子は?」
「俺の口からは言えません。捜索隊を出せば見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。俺はそれ以上知りません。俺にしてみれば、あの子は別に……そう、要りませんから」
キュッと雛形の眦が細くなる。
「要らない?」
「必要ないという意味です」
俺と雛形はその言葉を最後に無言の睨み合いを始めるが、暫くすると雛形が折れる。双剣を鞘に戻すとはぁ……と大きな溜息を吐く。
「やはり私の勘は当たっていました。虻川さん、貴方には裏の顔があり、それは残忍で常人の理解が追い付かない類のモノなのでしょう。…………けれど、悔しいことに天使の我々に――異界駐在軍に必要な素質でもあり、遊撃戦力として貴重になるでしょう」
雛形は腰のポーチを開くと錠剤入れを取り出し、中の一粒を俺に差し出す。
「同胞の為、私は貴方の本性を見逃します。どうぞ、これを使ってください。細胞を活性化させ、治癒力を高める特効薬です。これを飲んで、今日は寝てください。また明日、迎いの者を寄越します」
桜色をした錠剤の粒を俺は手の平に乗せて眺め、雛形は早く飲めと視線で催促する。
「細胞の活性化……、って何です? 変な副作用とか、ありませんよね?」
俺は瞳に疑惑の色を宿らせて見せる。本当は神様にある程度の情報を授けて貰っている俺なのだから、この怪しい錠剤の素性も疑いなく口に運んで何の問題もない。けれど懐疑の素振りを見せなければ、彼女の俺に対する扱いは余計に複雑なモノになる。素質を認めると評価を下した直後に、相手の言葉を鵜呑みにする間抜けと塗り替えられるのは、どれだけコミュニケーション能力に長けた人間にとっても辛いだろう。
「この薬は少量なら問題ありません。ほら、私も飲むんで早く飲んでください」
雛形は呆れ顔で錠剤を自分の口に放り込む。ガリガリと小指の先ほどの錠剤を噛み砕き飲み込むと、小さな口を開けて、中に何も残っていないと俺に見せる。
俺は暫し考え、桜色の粒を雛形に倣って口の中に放り込む。予想に反してその錠剤に味はなく、砂利を奥歯で擦り合わせる感覚に襲われる。嚥下した後には奇妙な安心感と活力が湧き上がり、麻痺するようにして痛みが引いていく。
喉元にはピリピリとした感覚が纏わりつき、触れると少しの痕を残して出血は止まっていた。
「凄く効きますね、ありがとうございます。俺は戻ります、おやすみなさい」
「ええ……、おやすみなさい」
傷も治り、外に出る口実を失った俺は仕方なく、けれど残念さは微塵も見せずに雛形に別れを告げる。背中に感じる視線を振り払い、俺はドアを閉めて施錠する。
数秒だけ視線をドア越しに感じるが、すぐにコツコツと硬い廊下を踵で叩く音に切り替わる。安っぽいドアに背を預けそれを聞いていると疲労が身体の隅々に根を伸ばし、全身を鉛に変えていく。
「寄越すなら、もっと真面な錠剤を寄越せよ……」
俺はその場に座り込むと、疲労以上に身体を苛む空腹を抑え付けるようにして膝を抱く。腹の底からはキリキリと鈍痛が、部屋の奥からはスヤスヤと眠るヤシロの寝息が聞こえてくる。
「ああ、そうだ……」
俺は重い体を動かして寝ているヤシロへと向かう。彼女は汚れたローファーを履いたままだ。手遅れだろうが布団は汚れるし、いつもの調子で寝返りをうって足を捻りでもしたら大変だ。
途中で血だらけのシャツを脱ぎ捨てた俺は、ヤシロのローファー、そして制服の上着に手を掛ける。制服の下は淡い桜色のキャミソールで、少女特有のきめ細かな肌を優しく包んでいる。ほんのり汗の臭いが漂い、俺は申し訳なくなり顔を背ける。あれだけ走ったら当然ではあるが、汗だくの体を異性に見られるのは彼女にとって相当の恥辱となるに違いない。そして恥辱に悶える彼女の姿を見れないという事実が、俺に追い打ちをかける。
「ああ、神様……、明日……ヤシロより早く……早く起こしてください……」
そして上着をハンガーに掛けると、俺の意識はゆっくりと疲労の沼に沈んでいった。
しかし、アンジは二度と目を覚まさなかった。
現実世界の多忙に他作品との兼ね合い――泥沼の生活からは、神様すら掬い上げることは出来ないのだ。
完。
すいません打ち切りエンドです
時間を確保出来たら再び書きます
まあ、読者はいないでしょうが……