第六話 彼のメソッド②
ジャリ……と俺の靴底がコンクリートと小石を踏み合わせ、それと対峙する三匹の蟲は俺と、俺の足元に転がる小さな紅玉を睨む。この紅玉は奴らの生命と密接な関係があるのは明白だ。今まで殺してきた何匹かも、存命中に輝いていた紅玉はどんな手段を用いても外れはしなかった。けれど息絶えた後ならば僅かな力で取り出せる。そう、今みたいに傾けるだけでも遺骸から取り外せるのだ。
「ギィ! ギィィッ!!」
「これが欲しいのか?」
俺は足元の紅玉を拾い上げると、その小粒をぺろりと舐める。
「ダメだよ、これは俺のモノだ」
その挑発に激昂した蟲たちは、最早警戒も何もなく本能のまま、何も持たない俺に飛び掛かってくる。俺は素早く紅玉をズボンのポケットに収めると、小細工なしで真正面から迎え撃つ。
硬い牙と甲殻で武装した奴らの機動は真っ直ぐで、だからこそ止める手立てがなければ恐ろしいのだ。
「――――ギィッ、ギャァァァッ!!」
けれど先頭の一体が到達する前に――――いや、この場所に辿り着いた時から、俺の戦う準備は整っていた。折れた鉄パイプは最早外敵を討つ武器ではなく、関節などの体そのものが丈夫ではない蟲の死骸は恒久的な盾にはなり得ない。
「この異能を神様は、『天使のメソッド』と呼んでいた」
「メソッド……?」
驚くヤシロに俺は背中越しに話し掛け、どうやって"素手で"あの硬い甲殻と鋭い牙を押し返せたのか、俺はヤシロにはっきりと見せつける。
ガンッと鉄パイプで殴り付けた時と似た打擲音が路地に響く。
特別骨ばりもせず筋肉で固められてもいない、数分前に握った手の感触は柔らかで、甲殻を殴りああも鈍い音を出せるとは思えなかった。メリケンサックでも着けているなら別だろうが、指にはこれと言った仕掛けがない。
懐に飛び込んできた蟲を捕まえ、牙を握りギリギリと力比べを続ける。蟲は牙がピクリとも動かないと見るや体をジタバタと動かし衣服に足を伸ばそうとするが、それより早く俺は地面に叩き付ける。
「死ね! 死ね、死ね! ふふっ、ふふふっ!」
そして柔らかな腹部を晒した蟲に、鋭い牙が通らない程硬質化した拳を叩き込む。何度も何度も執拗に、以前鉄パイプで殴り付けたように、無抵抗の相手に馬乗りになって顔面を打擲する時のように、俺は全力で蟲を"調理"する。
「ギィィッ!」
「ギィギィ……ッ!」
攻防が一転した。追われる俺たちに返り討ちに合うなど思ってもいなかったのだろう、追う奴らの一匹の紅玉の輝きが消えると同時に、無事な二匹はガス爆発の煽りを受けて動けない仲間を見捨てて逃走する。
「た、助かった……」
ヤシロは抱えるようにして自身の体に手を回し、膝を付いて安堵を浮かべる。ひどく疲れた様子だが、泣き出すことなく理性と僅かな緊張を残したその姿勢は今の俺には有難かった。
「助かった? ここで生き延びて終わりなら、神様はキミの死に関心を持たないよ」
「……え?」
「俺たちはもう戻れない。……キミの場合は"戻らせて貰えない"だろうけどね」
俺は呆然とするヤシロにそう言い放ち、爪先で動かない蟲を引っ繰り返す。コロンと零れ落ちた紅玉を拾い上げると、ヤシロに投げ渡す。
キミに対しての迷惑料だと言わんばかりに渡された紅玉を受け取ったヤシロは、突き返そうと腕を動かし、思い留まる。
その紅玉は雲一つない夕焼け空のように果てしなく澄み渡り、見る者の気分を害する蟲たちの額で輝いていた時とはまるで違った印象を与える。ぶくぶくと腹や顎に贅肉を蓄えた貴婦人と清楚なドレスにスラリとした体躯を収めた令嬢が同じネックレスを身に着けたとして、彼女たちが与える印象は真逆になる。それと似て、蟲の額の紅玉は禍々しく力強く燃えて見え、今自身の手の内にある小さな玉石は静謐さに満ちて心を穏やかにしてくれる。
魅力――いや、魔力と呼ぶべきモノが宿ったその石を、ヤシロは手放せなかった。
「ありがと。……でも、良いの?」
ヤシロは大事そうに石を握り、俺に尋ねる。すぐ近くに友人の死体が転がっているということも忘れ、新たな魅力に取り込まれた彼女を見て、俺はその素質を嗅ぎ取る。神様の目論み通りだ。
「俺は充分数を持っているし、この場には四個……四匹分も残っている」
「これ、何に使えるの?」
「持っているだけで力が湧いてくる。傷の治りも格段に早くなる。パワーストーン、と言えば分かり易いだろうが、効能はずば抜けて凄い」
ごくりとヤシロが息を飲む。湧いてくる力の一端に触れた彼女が、その心を絡め取ろうとする魅力に抗うことは難しく、堕落していく姿は容易に想像がつく。一日中輝きもしない紅玉を見つめ、疲労も空腹も感じない柔らかな世界に浸るのだ。
「……ねぇ、他のも殺さないの? ちょっとずつ動き始めてるよ」
ヤシロは俺に殺させようと指を差す。
「もっと見せてよ、天使のメソッド」
「断る……と言いたいが、俺の目的とは合致する。良いように扱われるのは癪だが、これも神様の為だ」
俺は魂と紅玉の消えた蟲の抜け殻を抱え上げ、――――食べる。
「……消えた?」
「消えたんじゃない。食べたんだ。俺が『暴食』で、体内に取り込んだ」
「食べたって……、蟲を? 手から? 嘘でしょ」
「それが俺の『暴食』だ。体内に何かを取り込み、消化し終わるまでそれを体の一部に変換する。陳腐な言い回しをするなら、超能力のようなモノだ」
俺は蟲を取り込んだ両の手の平を晒して見せる。大雑把な色や形は人間の手と変わらないが、『暴食』を宿した両手は硬く、右手の左から二本の指は奴らの牙を模っている。
「ギィギャァッ!!!」
さっくりと首と胴体の接合部に模造牙が入り込み、蟲の首が刎ね転がる。ピクピクと動く胴体の切断面からはドロリと黄土色の体液が溢れ、ジュワジュワとコンクリートを侵していく。
「キミ、まだ触らない方がいい。額の光が消えていない限り、こいつらは動き続ける。紅玉も輝いていると取り出せない」
真っ二つになっても動き続ける生物はいるが、それは体が小さく構造が単純で、生命の維持にあまりエネルギーを費やさないからである。似た容姿をしていても、この蟲たちのように大きくなってしまえば生命力は格段に落ち、首と胴体が離れでもしたら数分も生き永らえることはない。
俺は二匹目、三匹目と首を刎ね飛ばし、この場に残った蟲の全てを片付ける。ちょうど消化が終わったのか、手を変質させた『暴食』も解除され、俺は元の体を取り戻す。
「凄い……こんなに沢山……」
何時の間にかヤシロの手には五個の紅玉が握られていた。今殺した三体分と投げ渡した一個、そして最初に鉄パイプで殴り殺した分もしっかりと回収して、うっとりとした表情で眺めている。
「半分だ」
俺はヤシロに手を差し出す。
「キミには三個くれてやる。だが俺にも二個寄越せ。神様はキミに全て渡してもいいと言うが、それでは俺に鬱憤が溜まる」
「……はい」
「それと、これは隠していた方がいい。ここの奴らに見つかると没収されるからね」
俺は受け取った二つの紅玉を無造作にポケットに突っ込む。ヤシロも同じように紅玉を隠すと、輝いてもいないのに辺りから光が失われたような錯覚に襲われる。どのくらいの距離を走り、どのくらいの時間を掛けて始末したのか、体感時間はちぐはぐで分からず、けれど闇の帳に包まれた路地裏には確かに夜を迎えていた。
少し離れた位置に立っていたヤシロは、今では不安げな表情が分かるほど近くに寄り添っている。たっぷりと滲み出た彼女の汗は乾き、男の汗とは違う甘い香りとなって鼻孔を擽る。
「さて、キミも落ち着いただろうし、そろそろここから離れようか」
「あっ……」
むず痒さを解消しようと足を進めた俺にヤシロが手を伸ばす。
「手を貸してほしい時は言葉にしてくれ。俺は天使だが神様じゃない。相手の思考を先読み出来ないよ」
俺は汗と蟲の体液で汚れた手をズボンで拭い、ヤシロに手を握り返す。
「貴方……、もっと怖い人かと思ってた」
「思っていた? キミが今持っている印象は違うのか?」
「今は、良く分かんない人に変わってる。でも、戦う姿はちょっとだけ格好良い」
後ろを振り向かなくてもヤシロが照れ臭そうに笑っていると分かった。俺は今笑っているヤシロがどうしたら絶望に歪むのかを想像し掛け、慌てて止める。それを悟られないように軽い冗談を用意して、見てくれを取り繕う。
「知っている。周りの女の子たちからも言われ慣れてる」
「……やっぱり訂正していい?」
「いいぞ。そんな考えはすぐ吹き飛ぶだろうが、好きにしたらいい」
俺はいつも女の子たちに対してするように軽口を叩きながら先を進む。まずは路地を抜けて向こう側の大通りに出なければならないのだ。今はただ進むしかない。来た道は戻れない、それがここの規則だ。
昼間の蒸し暑さが嘘のように消え、汗ばんだ二人の体は怖気にも似た冷たさに包まれ、汗の発散がそれを加速させていく。ヤシロがくしゅと鼻を鳴らすと、俺は反射的に大丈夫かと尋ねてしまう。ヤシロに対して気を使う必要など微塵も無い筈だが、学校に、社会に溶け込む為に身に着けた形式だけの思いやりが無意識に発揮される。
「ねえ、そろそろ"キミ"って呼ぶの止めて。私は三上八代って名前があるの。ヤシロって呼ばれるのは好きじゃないけど、貴方になら構わないわ」
情夫になる為の第一歩は紳士的で野性的に振舞いながら、けれど弱みや茶目っ気を見せることだと神様は言っていた。依存し易い十代の少女を誑し込むのは難しくはないが、場所が場所だけに次の行動は慎重に選ばなければならない。
「……分かった、ヤシロ」
神様の助言が欲しい。この異質と現実の混ざった世界では、朝夕一回ずつしか届かない神様の言葉が何よりも心強い。ヤシロが俺に依存して自己を保とうとするように、俺は神様の存在を常に心に留めていなければ簡単に堕ちてしまうだろう。
絶品の数々を前に、嗜好を刺激されて使命を忘れるに違いない。
「俺のことはアンジと呼べ。虻川按司――それが俺の名前だ」
どれだけ使命に燃えようと、欲望がチラつけば容易く堕ちてしまうのだ。
天使とは、そういう存在だ。