第五話 彼のメソッド
紆余曲折を経て、俺たちは元の場所に戻って来た。
二人を出迎えたのは無惨に破れた制服の下に赤黒さを覗かせる少女と、俺が殺した二匹の蟲の死体だ。
「なんで! なんで外に逃げなかったのよ!」
ぜえぜえと肩で息をしながら、足を止めたミカが非難を向ける。
ここは彼女と彼女の友人が蟲に襲われた場所だ。結局笑いながら死んだ彼女の友人は、そのまま死後硬直を迎えて死後も自身の境遇を笑い続けている。瞳孔の開いた瞳を包み込む瞼はピクリとも動かず、蟲たちに食い荒らされた彼女の体と同じように色褪せて見える。
彼女が笑いたくなる気持ちが、俺にも分からなくもない。。
自分を助けず逃げ出した友人が戻って来たのかと思ったら、今度は――いや、今度も自分の身を案じて喚いているのだから。
俺も思わず笑みが零れる。
呆れ笑いを浮かべる死体とは違い、ミカの反応はテンプレートに則った非常に分かり易い感情の変化で、一般的であるからこそ、その失墜は何度も俺を楽しませる。
だがそれに手を加えて、人前に出せる一品に作り変えるには時間が足りない。
「神様が許してくれない」
「また神様! 神様カミサマ神様かみさま!! 神様がいるなら、なんでサトミは死んだの? なんで私は追われているの?! なんで助けてくれないの!!」
ミカの絶叫は路地に溢れ、虚しく四方に散っていく。汗だくの彼女はへたり込み、臀部を冷たいコンクリートに押し付けて激しく咳き込む。あれだけ走った後に大声を出せば、当然そうなるに決まっている。
「……? お前は俺が助けたぞ」
「なによ、じゃあ貴方は神様なの? そもそも原因を作ったのは貴方じゃない! 助けたって? また何時襲われるか分からないのに、全然助かってないじゃない!」
俺は叫ぶミカの正面に立ち、砕けたビール瓶を溜めこんだ通学鞄を彼女の横に投げる。ガシャンと鞄たちが上げた鋭利な叫びに彼女の肩が揺れ、怒りを頼りに結んだ彼女の感情は瞬く間に綻びを見せる。
「な、なによ……」
「俺が気に入らないなら、この鞄で俺を殴ればいい」
「――――っ!」
「蟲は殺せないが、俺一人血だらけにすることは出来るだろう? それを振り回せばいい。キミに残るのは"仕方なかった"と自らを慰める言い訳と、記憶に焼き付いた血だらけの俺の姿だけだ」
俺は動けないミカの横を通り過ぎる。後ろでギュッと布を掴む音が聞こえるが、そこから先はない。やはり彼女は怠惰なままだ。友人の死に遭遇して、その友人を食い殺した蟲に追い回され、その原因を作った俺を殺す機会を与えられてまだ、彼女は自ら動こうとしなかったのだ。流されて生きる現代人に彼女のような性質を持つ者は少なくない。けれど彼女はその中でも群を抜いている。持ち手がいなければふわふわと宙を漂う、まるで風船のような人間だ。
「それと、キミに一つ教えてあげよう」
俺は鉄パイプを突き刺した蟲を持ち上げ、紅玉が本当に光を失っているかを確認する。ずっしりと両手に掛かる重量が怪我した脇腹に響く。意図せず持ち上げた蟲の裏側が目に入り気分を害す。けれど向きを変え、力なく固まった鋭い牙と八本の足、そして輝きを失って濁った紅玉が順に視界に収まるにつれ、俺の気分は昂揚する。
「俺は、神様じゃないよ」
俺は振り返る。
「神様じゃないけど、天使なんだ」
ポカンとした表情を浮かべたミカは、すぐに怪訝の色合いを強める。失礼なことに、俺に対して頭の可笑しな人間に向ける視線を注いでいる。少なくとも彼女はどうやって返せばいいのか分からずに閉口している。それもまた彼女の特徴だ。
蟲を放り投げ、蟲に突き刺さった鉄パイプが抜けて派手な音を撒き散らす。
「さっき渡したペットボトルを渡してくれ。あとノートでも教科書でもいいから、何か燃えそうなモノも」
ガサガサと遠くから奴らの足音が聞こえる。ミカも耳に纏わりつく悍ましい足音に急かされ、大学ノートと空のペットボトルを俺の胸にに押し付ける。俺は手早くそれらを受け取ると、ペットボトルを脇に挟みノートを取り出す。
「三上……八代? 誰のノートだこれは」
ノートに記された名前を見て俺はそう口にする。キミの名前はミカじゃないのか? とは敢て触れない。
「私のノート、それは私の名前! 八代って書いてヤシロって読むの。……それより、来た! 来たよ!!」
「ああ、そうだな」
「そうだなって……うわぁ、また増えてる!」
ミカ……ではなくヤシロはまん丸な茶色い瞳に涙を浮かべて俺の背中に隠れる。動き難くて仕方ないが、それでも手早く作業を始める。ガスライターを取り出し、千切ったノートの端に火を点けて本当に機能するかを確認するとそれを左手で揉み消す。そしてライターの上部を外すと中のガスをペットボトルに移し替える。シュッシュッとガスが切れると俺は千切ったノートをペットボトルの飲み口に詰めて蓋をする。
「何をしているの?」
「見たら分かる……と言いたいが、これ以上傷付かれても困る。キミは俺の背中に隠れていろ」
ヤシロの頭を背中に押し戻すと、俺は蓋に使ったノートに点火する。ジュッと指先から燃え移った炎は導火線のようにノートを伝っていく。
「ギィィッ!」
「ギィッ、ギィィィッッ!!」
六匹にまで増えた蟲たちは路地を狭そうに進む。薄暗い中、壁に地面に六つの赤い目が妖しく蠢き、惹き付ける輝きは獲物を誘うように蛇行しながらも確かに俺たちの元に近づいていた。
接触まで数メートル、俺は相変わらず軽いペットボトルを六つの紅玉に向けて投げる。
ポンッとペットボトルが奴らの前で跳ね、――――弾け飛ぶ!
バンッ!!!
耳を劈く爆音と肌を焦がす熱が周囲を襲う。簡単に作れる割に破壊力が凄まじく、手榴弾などと違い破片が殆ど飛散しないのは優秀だが、遮蔽物がなければ使用者が受ける損害も馬鹿にならない。
チリチリと顔を庇った右腕が痛み、髪の先が熱に煽られ縮れている。俺の背中に隠れていたヤシロに怪我はなく、ヤシロが背中を支えていた甲斐あって俺も衝撃で転倒せずに済んだ。
揺れる頭を押さえ、俺は蟲たちと向き直る。
「ギィ……ギィィ……」
「ギィギィ……ギィッ!」
蟲たちの内半数、ガス爆発を間近で受けた三匹が熱で甲殻を焦げ付かせ動かない。残りの三匹はギィギィと牙を合わせて威嚇する。蟻と蜘蛛とゴキブリを足して三で割ったような奴らは、当然熱に弱いだろうと踏んでの行動だったが、どうやらそれは思い違いで、人間や他の動物と比べ物にならないくらいには頑丈だ。
動かない三匹の紅玉も輝きを保って――――つまりは生きているのだ。
鉄パイプにビール瓶、そして最終兵器とも言えるガスライターまで使い果たしてしまった。けれど蟲は未だに健在で、自分たちの周囲には酸で鋭利な先端がぐじゅぐじゅに変質した鉄パイプ、それも長さは元の半分しかない役立たずの元武器しか転がっていない。
「逃げよう……逃げようよ、今なら逃げ切れる……」
その事実に気付いたヤシロは俺の背中を引っ張る。
「そこを進むと国道に出る。国道の先は……行かない方がいい」
「でも、ここに居たら……」
「神様は許してくれる。キミが怖いなら目をギュッと瞑って待っていればいい。但し、俺の背中からは離れてくれ。密着されると動き辛くてね……」
「あっ……」
俺の言葉で我に返ったのか、ヤシロは手を離す。きっと自分の態度が変遷していく様を自覚して困惑しているのだろうが、今の俺にそれを確認する余裕はない。
「ギィィッ!!」
ヤシロを後ろに突き飛ばして、俺は飛び掛かってくる蟲たちを受け止める。足爪や牙の恐ろしさは鋭さではない。もっとも鋭利な先端が食い込めば人間の肉体など、どれだけ鍛えても抗いようなくズブズブと飲み込んでいくに違いない。けれどそれよりもっと恐ろしいのは、十五キロ以上の重量で跳び上がる力強さだ。
肉食獣が大型の草食動物を狩ることが出来るのは牙や爪の恩恵だけでなく、その牙や爪を活かせる筋力を備えているからだ。刃の潰れた刃物のでも、力の限り押し付けると相応切れ味を発揮する。
「ギィ……ッ!?」
そして弾丸のような勢いで俺に飛び掛かった蟲は、あっさりと弾き飛ばされ驚愕を張り付けていた。蟲の感情が分かる訳ではないが、鈍った動作が如実に動揺を表している。
俺は冷や汗を滴らせ、拾い上げて盾にした蟲の死骸を強く握り込む。
緊張の最中、市街の紅玉がコツンとコンクリートを跳ね、それが俺たちの合図となった。