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第四話 食い荒らす者たち④

 東京は汚染物質の所為で封鎖されている。


「ギィィィッッ!!」


 それは間違いだ。奇妙な"生物"で汚染されているのだ。


 俺は飛び掛かってくる蟲を鉄パイプで叩き落とす。ガンッと鈍い音が路地に広がり、廃ビルのコンクリート片が砕ける。地面にいた蟲を殴り続けた時とは違い、両腕がジンジンと痺れ、両手から力が抜けそうになる。


 野球バットで硬球を打ち返すのとは訳が違う。


「ギィギィ……ギィ……!」


 蟻と蜘蛛とゴキブリを足して三で割ったような外見に、亀の甲羅を想像させる頑強な外殻、ゴキブリのような翅はないが蜘蛛のような瞬発性と天地無用の高機動は充分な脅威だ。漆黒の牙は長く発達し、額で炯々と輝く紅玉(ルビー)のような結晶が宵闇色の体躯で異質に浮かび上がる。あの紅玉は恐らく奴らの生命の輝きで弱点だ。アレを叩き割ればきっと動かなくなるが、魅惑の紅玉は恐ろしく頑強だ。鉄パイプで何度も殴り付けても罅すら入らず、そこを狙うくらいなら別の場所を狙って殺した方が効果的だ。


「やだ……気持ち悪い……」


 そして何よりこの蟲は大きく、そして重い。


 キーボード付きの旧式ノートパソコン程の大きさに、十五キロから二十キロ近い重量が飛び掛かってくるのだから、まず素手では太刀打ちできない。頑強な甲殻の所為で拳銃程度では太刀打ち出来ない筈だ。殺すなら鉄パイプのような鈍器で、俺のように動かなくなるまで徹底的に叩き潰すしかない。


「ギィギィ……ギィギィ……」

「ギィ……ギィギィ……」


 蟲たちが左右からジリジリと距離を詰める。


「いや……、こっちこないで……」


 ミカが俺のシャツの掴む。藁にも縋りたい思いなのは充分に伝わってくる。食指は動く。彼女が最初に見せた気丈さと比べると堪らない表情をしているのだろうと容易に予測出来るが、俺にも彼女の恐怖を吟味する余裕はない。あの蟲たちは俺たちを貪りたいだろうし、俺も蟲たちを殺す享楽を貪りたい。互いに逃げる理由もなければ、逃がす道理もない。


「目の前の二匹はどうにかしてやるから、上を見張っていろ」


 だがどうやら分が悪いみたいだ。相手は充分に警戒心を持った蟲二体で、こちらはガクガクと足を震わせる足手纏いが一人と俺だけだ。更に以前とは違い武器になりそうなのは鉄パイプ一本とポケットに入っている安物のガスライターくらいで、二体同時に相手にするのは些か無理がある。


「…………」


 背後の短髪の鞄の中身を想像して、俺は思わず吹き出しそうになる。


 女子学生の通学鞄に蟲を殺せる武器が入っているか? 期待する方がどうかしている。入っていたとして、精々安物のカッターナイフが関の山だ。


「ギィィィッッ!!」


 視線を逸らした俺に、痺れを切らした蟲が飛び掛かる。


 蟲の動きは俊敏だが、不意を突かれなければ対応は出来る。


 俺は馬鹿の一つ覚えのように一匹目を鉄パイプで打ち返し、返す刀で二匹目を振り払おうとする。


「ちっ!」


 けれど二匹目を殴り付けた瞬間、鉄パイプは半ばからぽっきりと折れる。あの鋭い牙に食い破られたのだ。幸いどちらの蟲も叩き落とせて、折れた鉄パイプが地面を跳ねるまで硬直しても襲われないくらいの時間的余裕は存在した。


 カランとコンクリートを跳ねる金属音で我に返った俺は、折れて鋭利な尖端に変わった鉄パイプを転がった蟲の首に突き刺す。ジュワジュワと牙の間から漏れ出した酸が鉄パイプを蝕むが、ここまで深く突き刺さったなら長くは持たない。


 ギィギィと断末魔を上げながら八本の足を動かす蟲は醜悪で、人間を痛めつけた時のような爽快感は得られない。満足感はあるが、それを堪能するのはもう少し後で良い。


「逃げるぞ。来い!」


 そう言うと俺はミカの手を取る。最初は歩く速度で彼女の足を慣らせ、次第に速度を上げていく。足の竦んだ相手の手を引いても即座に走れはしない。今まで自分を恐れ逃げる輩を見て知っているのだ。手を引く時はどれだけ急いでいたとしても、最初から走ってはならない。急いで転倒でもしたら、歩くよりずっと時間を浪費する。


 幸い残った一匹の蟲はまだ殴られた衝撃を完全に拭えていないのか、動き出した二人に飛び掛かりはしなかった。、


 ガサ、ガサガサガサ。


 八本の足を動かし、蟲は俺たちを追ってくる。昆虫の類が苦手な者が見たら目を回して卒倒し兼ねない光景だが、生憎俺は平気だし、生まれてこの方、虫を踏み潰すことに嫌悪感を持ったこともない。似たようなことを人間相手に出来るのだ。小さな昆虫にはもっと平然と向き合っているに決まっている。


 だが、やはり分が悪い。


 ガサガサガサ。


 二本の足で走る人間は歩幅が大きく速度も出る。けれど八本の足で走る昆虫は歩幅こそ狭いが回転の速さは人間を遥かに凌ぎ、更に小回りも利く。同じ速度で追われるなら、四足歩行の動物より数段厄介だ。


 ガサガサ。

 ガサガサガサ、ガサガサ。


 一時的に数は減らしはした。けれど逃げる最中に合流したのか、今は地上を追ってくる個体と壁面を進む個体の二体に追われている。壁面を走る個体は最初に遭遇した三体より一回り大きく、体の大きさはそのまま身体能力に反映する。


「どっちでもいい! 鞄を寄越せ!!」


 このまま逃げ続けても、その内に破綻する。


 俺は息を切らすミカに向けて叫ぶ。歩幅や速度を合わせる余裕が無かった所為かミカの呼吸は荒く、額にはびっしょりと汗の滴が浮かんでいる。身長一八○センチの俺と一五○センチ台のミカでは身体能力の差は比べるまでもない。地上を這う蟲と壁面を走る蟲に差が出るように、俺とミカの間にも少しずつ距離が生まれ始め、繋いだ手がそれを許さず必然的に蟲との距離は縮まっていく。


 ミカの体力は限界に近い。


 ここで見捨てて逃げたなら俺は助かる。けれどそれは俺の嗜好が許しても、俺の神様が許してくれない。


 ちっと俺は舌打ちして、ミカが差し出した通学鞄を奪い取る。


「頭を下げろ!」


 目的のモノを見つけた俺は足を止め、ミカの頭を力の限り抑え付ける。短い悲鳴と地面を転がる音が聞こえる。スカートを穿いて足を剥き出しにした所為で盛大に傷付いただろうが、その程度の痛みは出血の内に入らない。


 最初に飛び掛かって来たのは壁面の個体だ。


「いやああああああああああ!!!」


 狙いは俺ではなく、転倒したミカだ。野生生物の直感的なモノなのだろうか、奴らの多くは目の前の脅威を優先に排除しようとするのではなく仕留め易い弱った個体を狙う。距離は離れているが俺より小柄で、尚且つ転倒したミカに襲い掛かった理由がそれだ。


 俺は牙を剥いて飛び掛かる蟲を無理矢理通学鞄で叩き落とす。布の鞄は牙に裂かれて中身をぶちまけ、蟲はミカに届かず舗装路を跳ねる。


 俺は動き出そうとする大きい方の蟲を力の限り踵で踏みつけ、ミカをも越えて目的のモノに手を伸ばす。


「おい、受け取れ!」


 拾い上げたのはビール瓶とペットボトルだ。当然路地に転がっているそれらに中身はなく、空瓶と空ペットボトルだ。俺は迷いなく瓶を破れた鞄の中に収め、ペットボトルを起き上がったミカに投げる。


 俺は危なげながらも受け取ったミカの手を取り、動き出そうとする蟲の硬い外殻を爪先で蹴っ飛ばす。ギィ! と怒りにも似た鳴き声が聞こえたが、バクバクと高鳴る心臓がそれを打ち消す。


「ちょ、ちょっと!!」


 ミカが驚きの声を上げる。ミカを包んでいたのは恐怖を超越した驚愕だ。俺が何故こうしているのかを全く理解出来ない刹那的な困惑だ。


 余談だが、映画やドラマを始めとした創作でギャングや不良少年たちが時々手に取って振り回すビール瓶と言う武器は、実際使うと恐ろしい効力を発揮する。まず瓶は創作程簡単には割れない。酒場の親父が乱暴に扱っても割れないようにしたからなのか頑丈で、かなりの勢いをつけて殴らなければ割れない。それこそ相手の硬い部位――頭部や膝、鎖骨辺りを狙って振り下ろすのが効果的だ。


 そして人の頭をかち割って自らも割れたビール瓶は鈍器としての役割を終え、今度は割れた断面に刃物としての役割を宿す。鋭利な先端が皮膚を抉り血管を断ち、体内に破片を残すアフターケアも忘れない。そして親しみやすさから侮られがちなビール瓶は、理解ある者が扱えば立派な凶器だ。空き瓶一本に二つの顔を持ち、その有用性も計り知れない。


 だが俺は硬いそれで殴らず、割ってから斬り付けもせず、ただ突き出した。


 ガンッ! と瓶底と甲殻が交わる。俺とミカ目掛けて飛び掛かった蟲は瓶底にぶち当たり下に逸れ、俺が突き出したビール瓶は割れることなく――けれど片手故に力負けは避けられずに跳ね上がる。


「――――くっ!」


 逸れた蟲の鋭い足が俺の脇腹を掠り、服ごと薄皮を破る。燃えるような痛みが身体を揺らし、少し遅れて涙と血が滲む。だが痛みに屈してはいけないと神様の教えを守り、俺は振り返り鞄ごとビール瓶を叩き付ける。


「ギィィッ!!」


 瓶が割れる。俺に踏まれ、蹴り飛ばされた蟲がその音に驚いて足を止める。ビール瓶の茶色の破片が裂かれた鞄の合間から零れ落ち、キラキラと光る。粗目糖のような大粒の破片に砕けたビール瓶は、その輝きと裏腹に何の役にも立たない、まさにゴミ同然だ。


 路地を包む曇天と建物の暗い影のように、状況は次第に悪くなる。


「ふ、ふふっ!」


 けれど俺には、ミカの手を引いて走るしかなかった。


「収穫だ!!」

「……えっ?」


 少しだけ時期は早いけど、それはこの際仕方ない。蒔いた種が芽を出し、立派な実を付ける前に刈り取らなければならないのは遺憾だ。


 ぺろりと舌なめずりをして俺は走る。


 乾いた口の中には、汗の塩味が広がった。


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