第三話 食い荒らす者たち③
薄暗い路地裏、残虐さを滲ませる男、そして二人の少女――――連想は容易だ。
「逃げて、サトミ!」
俺の一言で短髪が正義感を取り戻し、倒れた老人に寄り添った友人に逃げるように叫ぶ。当人は鉄パイプを持つ俺相手に時間を稼ごうと二つの鞄を抱えて路地の真ん中に立ち塞がっているが、自らの行動に自信がないと目を見れば伝わってくる。
自己犠牲は思考停止だ。
思考停止は、怠惰への入り口だ。
この女は自分を犠牲にして友人を逃がす自分に酔っているのだろう。ここの場所柄を考えたなら、多少なりとも噂話や都市伝説の類に精通しているなら、例え目の前に脅威が控えていようとも女子高生を――友人を単独で逃がすのは得策ではないと分かる。
「ミカの馬鹿っ!」
だが逃げろと言われた友人は友人の手を取り走る。土壇場での行動力は驚嘆に値する。だが俺から逃げる為だとは分かっていても、この先に踏み込むのは看過出来ない。俺の神様がそれを望んでいない。
何故政府がこの先――かつて東京と呼ばれた都市を封鎖しているのか。
それは三年前のこと、何の前触れもなく世界の各都市に隕石が降り注いだ。ニューヨーク、ロサンゼルス、リオデジャネイロ、ベルリン、上海、バグダート、そして東京。その全ての都市が壊滅的な打撃を受け、未知の汚染物質により大量の人々が死んだ。各都市を襲うピンポイントな情報を訝しむ者は多くいたが、放棄された都市の映像は確かに存在し、想像はしても汚染物質を理由に早々に封鎖した各国政府の真意を知る者は少ない。取り上げたテレビ番組やネットニュースにも進展はなく、結果として"隕石"と"封鎖"と言う分かり易い単語だけが人々の記憶に宿り、各都市から足と意識を遠ざけたのだ。
多くの人が家を失った。
何かを失った人間の悲しみは俺をゾクゾクと震えさせ、そんな人々はこの近辺に掃いて捨てるほど存在する。
「ああ、追わないと……!」
息子を田舎の祖父母の元に放置して働いた俺の両親も当然のように東京で消えて、愛情の代わりに充分な遺産と自由な選択肢を残してくれた。特に感謝も哀しみも感じはしなかった。けれど周囲の同情を利用して自らの意見を通し易くする為に俺は悲しみに暮れて見せ、その甲斐あって俺は祖父母や幼馴染の反対を押し切り関東の大学を選べた。東京に……、放置された街に近い大学を選んだのだ。
逃げ延びて明日も見えずに悲観する人々の顔を見る為に。
そして時折封鎖区画の傍で食事と鬱憤晴らしに励む為に。
「まだ見つかってくれるなよ」
俺は足を速めて逃げる女子高生を追う。視線は雑多に散らばった足元ではなく頭上に向け、アレと自分が先に遭遇してしまわないように細心の注意を払う。右手に持った鉄パイプにギュッと力を籠め、最高の一場面に遭遇したい一心で彼女たちの後を追う。
隕石で汚染? そんな筈がないだろう!
どれだけ役所仕事の官僚や私腹を肥やすことしか考えない議員でも、そんなモノが降ってくると分かっているなら事前に住民を避難させるに決まっている。彼らは基本的に民草がいなければ飢えて死ぬのだ。一千万人は言葉で表せばたったの数文字だ。けれど受けた損失は計り知れない。東京だけじゃない。ニューヨークに上海、どの都市も例外ではない。多くの住人が街ごと消滅した結果、今や世界は疲弊して衰退と言う名の一時的な平穏に包まれているのだ。
いやあああああああああああああ!!
近くで甲高い叫び声が上り、狭い路地に反響する。きっと短髪の叫び声だ。俺に追いつかれるより先に、アレと遭遇してしまったのだと分かり俺は落胆する。
最高の場面に間に合わなかった。食材の旬を逃してしまった。
「ああ、勿体ない」
けれど旬を過ぎたとしても、美味しい局面はそこだけじゃないと俺は知っている。足を緩めず、声を追って我武者羅に走る。寧ろ余計に心躍らせて彼女たちとアレがどのように遭遇したのかは、彼女たちがアレを見てどんな表情に変わったのかは俄然興味をそそられる。
「いやぁ……、サトミ……サトミ、サトミ……ぃ……」
遂に彼女たちが居る路地に辿り着く。
そこには尻餅を付いた短髪と倒れた長髪、そして長髪の体の傍で三匹の蟲が蠢いていた。影のような漆黒の蟲たちは長髪の少女の白い柔肌を食み、意識の残っている彼女は大粒の涙をまん丸の瞳に溜め、笑いながら自らの身体に牙を立てる蟲たちを眺めている。
「残念だ」
俺は尻餅を付いた短髪の横に歩み寄り、その隣で柔肌に夢中な蟲たちを眺める。
「た……すけ……て……ミカ……たす……け……」
半笑いで言葉を紡ぎ出す長髪に対して、短髪は何も答えられずに首を振るだけであった。カタカタと噛み合わない歯を必死に押え付けて声を出そうとしているのは分かるが、やはり借り物の正義感では自らを奮い立たせられないのだろう。
「仕方ないな……」
俺はやれやれと首を振り、背後からへたり込んだ短髪の首に手を回して顎を掴む。そして彼女が目を背けないように固定すると、そっと耳元で囁く。
「ああやって、人間は壊れるんだ」
「いや……やめて……」
「良い機会だからよく見ておけ。キミがここでへたり込んでいるから、彼女は死ぬんだ」
「やめて……お願いだから……」
「俺にお願いしても彼女は助からない。それより見ろ。死ぬ間際だと言うのに彼女は笑って、幸せそうだろう? 悟っているんだ。自分が見捨てられたのだ、と。どのように襲われたかは知らないが、キミがその鞄で追い払えば彼女は死なずに済んだかもしれない。キミがジッと眺めているから、彼女は死ぬんだ。友人に見捨てられて、壊れるんだ。辛いまま死ぬより仮初でも幸せを享受したいと願う脳みそが痛みを和らげ、そして笑う。キミの怠惰が、彼女の人格まで殺したんだ……」
短髪の目に怒りが宿る。俺は彼女に恨みはない。ストレス解消を兼ねた国民の義務を邪魔された件についても、それは彼女たちの義務と対立しただけだ。嗜好の件も関係なくはないが、今は二の次だ。
なら何故俺は彼女を怒らせたのか?
「貴方は……!」
恐怖に支配されたままでは身体が動かないと知っているからだ。
俺は長髪の少女から溢れ出る鉄錆の臭いを大きく吸い込んで、立ち上がった短髪の少女の襟首を掴む。
ガンッ!
そして鉄パイプを振り下ろす。そのまま二度、三度、動かなくなるまで徹底的に殴り付ける。鉄パイプを握った右手が痺れ始め、慌てて両手に持ち替えて更に執拗に、相手の頑丈さを呪いながらガンッ、ガンッと鈍い音を路地に溢れさせる。
ひっ、と細かい悲鳴が聞こえるが、お構いなしに硬い鉄パイプを叩き付ける。親の仇と言わんばかりの執拗さだが、この状況なら俺じゃなくても同じようにするだろう。
「な、なんで……」
目を見開いた短髪の少女――ミカが、震えながら俺に尋ねる。
「神様が望んでいないからだ」
「かみ……さま……?」
「俺の神様はキミたちの死は望んではいない。許してもくれない。他にも色々あるが、まあ、それがキミを助ける理由だ」
理解出来ないといった様子のミカを無視して、俺はミカ目掛けて飛び掛かった蟲の一匹を足蹴にする。飛び散った赤色は蟲の体液でなく、虫が吐き出した長髪の血液と肉片だ。トドメとばかりに裏返って柔らかな腹部を晒した蟲に渾身の一打を見舞うと、ギィギィと耳障りな断末魔もすぐに聞こえなくなった。その代わりに残りの蟲たちが動かなくなった長髪から牙を離し、こちらとの間合いを測っている。
俺があの蟲と遭遇するのは、これが最初ではない。
憂さ晴らしを始めてここにきて三回目、群れる不良たちの顔面を執拗にボコボコにしていた最中に襲われたのだ。幸いその時は不良たちを投げ込むことで難を脱し、尚且つじっくりと観察する機会を得たのだが。
兎も角、俺は蟲と出会ったからには駆除しなければならない。
何故かって?
「ふふっ……」
"奴らは殺していい"と神様が許してくれるからだ。