背にある灯を知らず
斉賀実は、隣の葛城兄弟の部屋から、生活音がないことに不安を覚えていた。
ここ最近、弟・葛城くるの体調があまり芳しくないようだった。今日も、いつもなら律儀に自分と兄の分の朝食と昼食のお弁当を作る音が響くはずなのに、それが聞こえない。そのかわり一度だけ扉の開く音がして、見ると、兄・葛城くずはが外出するところだった。学校に行くときはいつも前の学校の学ランを着ているが今日は私服だった。学校に行くわけではないようだ。その後静寂に包まれると、くるは部屋にいるのだと、兄弟とも今日は学校に行かないのだろうと悟った。やはりくるは調子が悪いのか。
外はしとしとと雨が降っている。以前、くるは雨の音が苦手だと打ち明けてくれたことがある。しつこく聞いた結果ではあるのだが。この長雨でくるが体調を崩していると容易に想像ができた。そのとき。
突如、隣から大きな物音が聞こえた。何かを殴りつけるような鈍い音や、ガラスの割れる金属音。斉賀は嫌な予感に任せて部屋を飛び出した。隣の部屋の扉へと駆け寄る。
「くるくん? くるくん大丈夫? 僕だよ! 何かすごい音がしたからね、どうしたのかと思ってね?」
呼びかけても応答がない。いつの間にか物音も止んでいる。さらなる嫌な予感にドアノブに手をかけると、扉が開いた。くずはは鍵をかけて行かなかったのだ。一瞬の迷いを捨て、扉を開け放つ。
すぐに辺りを見渡して、くるの姿を見つけた。台所だ。扉の開いた音に反応して、こちらを向いていた。その目は焦点がどこかずれていて、斉賀を見てはいない。怒りと絶望と、凄まじい悲しさを、瞳は強烈に訴えていた。
しかもその手に握られていたのは、果物ナイフだった。
「く、くるくん! 何持ってるの! 危ないよ!」
斉賀はなるべく冷静にと心がけながらくるに近付いた。とても平静な状態ではないことは分かった。とりあえずナイフを手放させなければ、何が起こるか分からない。
「……どいて」
「くるくん?」
「どけ…!」
斉賀の思った以上に事態は深刻だった。くるは斉賀を斉賀だと認識していない。自分がしたいことを邪魔する存在だとしか認識していない。くるはナイフを手放すどころか振り上げて、斉賀に向けてきた。
「くるくん! 僕だよ! 実おにーさんだよ? 心配して様子を見に来たんだよ! ね? 落ち着いてくるくん! 僕の話を聞いて!!」
「そこをどけって言ってんだよ!!」
ナイフを振りかざし向かってきたくるを斉賀は寸でのところでかわす。向き直った瞬間を狙ってナイフを持った手を掴んだ。振りほどこうと暴れ出すくるを抑えようとする。
「邪魔すんな…!! 俺は…っ、俺は!! あいつを!! あいつさえいなければ…あの野郎さえいなかったら!!!」
「言ってることが滅茶苦茶だよくるくん! 落ち着いて、ちゃんと僕に聞かせてよ? ねぇ! くるくん…!」
斉賀の言葉とは裏腹に、彼は支離滅裂なくるの言葉からすべてを察していた。本当に深刻だと思った。くるは必死に自覚しまいと目を背けていたものについに気付いてしまったのだと。そのつらさに耐えられなかったのだと。こんなにもひどい状態だったのに、くるが憎しみをぶつけようとしている当の本人は何も気付いていない。何故気付けないのか。こんなにも傷ついているのに。
考えが巡って、動きが鈍った。くるの渾身の力を込めた動きについていけない。
腹部に衝撃を感じた。両者の動きが止まる。目の前のくると一瞬だけ目が合った。その顔にはただ驚きだけがある。目には正気が感じられた。ただ、斉賀が見られたのはそこまでだった。
くるが震えた手でナイフを離す。斉賀の腹部に留まったままのナイフと共に、斉賀は床に崩れ落ちた。畳の感触を感じる。あぁ、もみ合って部屋まで来ていたのかと暢気なことを考えたのを最後に、斉賀の意識は途切れた。
*
葛城くるは倒れた斉賀実を目の前にして、ただ呆然と立ち尽くしていた。しかし、今までわけが分からなくなっていたのが不思議なくらい、驚くほどに頭ははっきりとしていた。だからこそ、この状況を突きつけられたとき、自分が何をしてしまったのかはっきり分かってしまった。
自分がやったのだ。あの男に向けようとした刃を、あろうことかこの人に向けてしまった。そして、事故的とはいえこうして至ってしまった。息が荒くなる。自分の手や服に付いた赤い染みを見下ろす。汗が伝うのを感じる。
こうして実行してしまった以上、もう後戻りすることはできない。
自分に残された道は、貫徹することしか、なかった。
くるはすでに意識のない斉賀の腹部からナイフを引き抜いた。また少し血が飛び散ったがもはや気にしなかった。そのまま開け放された扉から出て行く。靴を履いたかどうかも、もう覚えていなかった。