妬み、嫉み、無闇やたら羨み
「一緒にプリンを食べに行きましょう」
「はい!勿論っす!!」
「遅れたら承知しないですよ、灰花」
その声は、途中から耳に入ってこなくなった。
わけの分からない黒くざわざわとしたものが、胸の内に現れては消えた。ものすごく不愉快で、異物のように感じる反面、何やらぽかりと空いた胸の穴を、それがずっと前から埋めていたかのような錯覚に陥った。何か、自分の中で積み上げてきたものが、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
その感情に名前を付けることを、ずっとずっと、恐れてきた。
自覚してしまうから。気付いてしまうから。気付いてしまったら。
黒くざわざわとしたものは、胸の内から瞬く間に指先まで隅々に駆け巡り、身体中に満たされた。もう、目を背けることはできなくなっていた。
何も求めていないはずだったのに。
何もいらないと思っていたのに。
何故自分でないのか。ずっと、ずっと過ごしてきた自分ではなく、たかが数年の付き合いの男なのか。その事実が許せないと、一瞬でも思ってしまったのは、何故なのか。
目を背けていたその答えは、もはや眼前にあった。見てしまった。
俺は、くず兄に自分を見てもらいたいんだ。他意はない。本当にそれだけだ。ただ、「くる」と当然のように名前を呼んでくれて、常に自分が誰だか覚えてくれて。本当にそれだけだった。それだけのことなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。覚えてもらえないことが、どうしてこんなに苦しいのだろう?
大きな大きな「悲しみ」に包まれて、葛城くるはその場からしばらく動くことができなかった。今までに無い感情の洪水に、わけも分からず抗うことしかできなかった。自覚はしても、理解はできなかった。何故、何故という、疑問だけが頭を満たした。それでも、ただひとつだけはっきりと分かっていたことは。
宮下灰花を一瞬でも羨んだ自分が、とてつもなく憎いということ。
*
感情をいつも以上に押し殺して、くるはそれから数日過ごした。兄の葛城くずはは相変わらずプリンに並々ならぬ情熱を静かに燃やしているし、宮下灰花も相変わらずくずはの腰巾着兼保護者だ。そんなくずはが灰花を見る目が、語りかける口調が、少し変わったと感じてしまうことが、くるには苦痛でたまらなかった。くずはが灰花と発音する度に、灰花のことを覚えていると分かる度に、あの感情が湧いては、強い自制で押し殺す。その日々は着実に、くるの精神に負荷をかけていた。
くるが自宅アパートで目を覚ますと、外は秋雨模様であった。目覚めたことを後悔した。もう3日は続いている。雨音はもっとも嫌いな音だった。心がガサガサと揺すぶられる。疲弊した精神にはもっと堪えた。隣で物音がして振り向くと、隣で寝ていたはずのくずはが起きていて、服を着替えたところであった。
「あ…おはよう、くず兄」
「おはようございます」
「ごめん…朝ごはん作ってないや…」
「いいですよ、今日はもう出かけますから」
「え?プリン?…また、灰花と?」
「いいえ、灰花は忙しそうにしていたので自分で行きます」
「……え…」
「では、行ってきます」
「…行ってらっしゃい」
くずはが部屋を静かに出て行ったのを見送ってから、何とも言いようのない激情が巻き上がってきた。強張った身体が枕を殴りつける。「灰花は忙しそうにしていたから」と、くずははそう言った。覚えたどころか、灰花を気遣っている素振りすら見える。今まであれば灰花を呼びつけて買いに行かせていただろうに。
枕から空気が抜ける音が響く。それがいつの間にか、布が裂けるような音に変わっていた。気が付くと右手には鋏が握られていて、枕が無残な姿になっていた。雨音のノイズが、くるに耳障りな音で囁く。
これが自分であったら良かったのにと、思っているのだろうと。
こうなったのは、灰花のせいだ、と。
それは、悪魔の囁きだった。