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わたしの周りの空気が凍りついた瞬間でした。
対して、あちらは燃え上がったようです。あの時みたいに。
道先に立つガルフラウに凄まじい眼つきで凝視されていました。
茜色の髪より少し濃い赤銅色の瞳が爛々と輝いているのが、離れていてもわかりました。獣人ほど視力がよくないと言ったって、流石にわかるほど大きく眼が見開かれていました。
憎悪、殺気、執着、その他諸々――そこに滾るような感情の坩堝があって。
恐ろしくなって、ぎゅっと買い物袋を抱き締めると、身を翻して後方へ逃げ出しました。少しでも早く、遠く、遠くへ逃げなくちゃ。
一心不乱に走りました。
せっかく買った荷物を落とすわけにはいきません。馬鹿なことにこだわってるという自覚はどこかにありました。異世界人の足で、そんな制限があったら、追いつかれるに決まっています。ですけど、お師匠様のお金で買わせてもらった食材なのに、捨てていくわけにはいきません。
自分のお金で買いなおせばいい、という考えは、足がもつれてすっ転ぶまで浮かびませんでした。
絶対に追いつかれたに違いない――愕然として、這いつくばったまま動けずにいたら、近くに居たひとが助けてくれました。
そのひとの様子がごく普通だったので、誰も追ってきていないと気づきました。
助けてくれたひとは、落とした荷物を拾ってくれ、送っていこうかとまで申し出てくれましたが、ただ転んだだけですからと謝辞して家に帰りました。
道々、あの男がついてきてたらどうしようと、怖すぎて振り返ることもできませんでした。
ようやく家について、中へ飛び込んだ途端、玄関で床につっぷしてしまいました。
安堵のあまり、足の力が抜けてしまって、立っていられませんでした。
荷物もぶちまけてしまって、なのに拾い集めることもできなくて、ぜいぜい言ってたら、お師匠様が様子を見にきてしまいました。慌てて取り繕おうと上体を起こしたものの、膝が笑っていて立てそうもなく。
「リオ。誰かに追われたの?」
「いえ……、あ、う……っと……」
口ごもってしまうのをごまかそうとしながら、何とか床に座るところまで体勢を立て直しました。さくっと笑顔で釘を刺されます。
「君、作り話は向いてないから、やめといた方がいいと思うよ」
「……そうですね」
「てことは、ええと。――そうか。ガルフラウに会ったんだね」
「……ええ。……遭ったというか見たというか……」
「そうか。あのくらいのお仕置きは当たり前だから、気にしなくていいよ」
お仕置き?
……そういえば、お師匠様が自宅謹慎になった、ということは。
あっちはあっちで罪が確定して、制裁を受けてるはずですよね。
「あぁ、もしかして、知らなかった?」
「は、はい。知りません」
「ギルドに顔出しくらいしなかったの? しなかったんだね。してたら皆よってたかって話を聞かせたよね」
それはどうでしょう。はぶられておしまいな気もします。って、卑屈ですかね。いけませんね。ルナノくらいは話しかけてくれたかも。まぁ、彼が折りよく居ればの話ですけど。
「君……彼にはまったく興味がないんだねぇ」
「ええ」
「即答かい」
他にどう答えろと。お師匠様の言動には引っ掻き回されることが多いんですよね。弟子を玩具扱いするひとだから。
「彼には腕一本もらったよ」
――うでいっぽん?
脳に染み込みません。
お師匠様はわたしの鈍い反応に肩を竦めて、右手で左の二の腕をとんとんと叩きました。右手を切るように立てて。
「え……」
「強姦罪だからね。腕一本は順当。二度と同じことができないように」
「え、で、でも……っ」
「君が許しても、獣人の誇りにかけて罰せられる。どの途だよ」
お師匠様の笑顔は、しかし厳しいものでした。笑ってるのに笑ってない。
「片腕でも、あれぐらい獣性が強ければ、そこいらの男には負けないでしょ。未遂だったんで、お情けで利き腕じゃない方だったし。生きてはいけるよ」
「お……――ッ」
猛烈な吐き気が込み上げてきました。
冗談じゃない、ここで吐くわけにはいかない。
わたわたと立ち上がろうとして、よろめき、べたんと転んで顔面を打ちつけました。おかげで、吐き気はふっ飛びましたが。
目の前に星が散ってます。涙も出てきました。
「何やってんの、君。独り立ちを勧めたの、早まったかなぁ」
弟子の無様な有り様に、お師匠様がぼやいていました。
「あまり同情しない方がいいよ。未遂だから腕で済んだけど、完遂してたら違うとこ切り落とされてたね。そういう罪だから」
さばさばとしたお師匠様の言葉に、また吐き気が込み上げてきました。
そんな大事になるのに敢えて襲ってきた男が何を考えていたのか。
それを思ったら、想像もつかない暗い深淵をのぞき込んだようで、背筋がぞっと凍りました。全身冷水にでも浸かったような悪寒を覚え、身体が震えて仕方がなかったです。
何年もろくに口を利いたこともなかったのに、どうしてわたしを狙ったりしたんでしょうか。チョロイはずの異世界人を思う通りにできなかったことが、何年も忘れられないほど悔しかったんでしょうか。
ラズノさんは今もこの街に居て、一角の人物として認められています。みんなから一目置かれて尊敬されています。
彼には歯向かえないから――どうせ居なくなる異世界人に、っていう八当たりだったんでしょうか……ね……。
誰に向けられたにせよ、途方もない執着に、気が遠くなりそうな恐怖をおぼえました。
おかげさまで市場へ行くのが怖くなってしまいましたよ。
今さらですかね。どこかで出くわすかも、と考えていなかったのは、考えたくもなかったから、か。情けない話です。
――腕一本。
それならあの眼も頷けます。きっと怨んでいることでしょう。
そんなことがあっても、お師匠様は外へ出るなとはおっしゃらなかった。ということは、危険はないと解釈していいんでしょうかね。
いえ。違いますね。
お師匠様はたとえ危険があっても、それを自力で乗り越えるべきと考えるタイプです。この世界は過酷です。愛弟子だからって替りに火の粉を払ってやったりはしません。
そもそもわたしは愛弟子じゃないですし。ちっとも可愛がられてないとは言いませんが、その根底にあるのは「異世界人? やった! 愉しめそう!」なんです。
生き残るのは自力でどうぞ、なんです。
とりあえず、なるべく人通りの多いところを選んで外出するようにしました。それ以外の場所では、こっそり探知魔術を発動です。
街中でこんな魔術を使ってるなんて不審者丸出しですけど、背に腹は変えられません。
細かく指定できるほどガルフラウを知りませんので、獣性が一定以上の茜色の髪と赤銅の瞳で条件設定。関係ないひとが何人かひっかかったものの、そう悪くもない精度でした。
――きました。あれです。
先回りして探知して避けるようにすれば、わたしでも何とかなります。人混みのなかでは、体臭の強い男性も大勢いますし、異世界人の弱い臭いは紛れて追いにくいはず。
ニアミスはことごとく避けられました。
我ながら上達したもんだと、少し誇らしく思いました。




