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彼女の後ろ姿

作者: やぎ

 長い呼び出し音。

 それでも留守電に移行しなかった。

 電子音が途切れ、ついに二人の空間が繋がる。躊躇いながらも一口ほどの大きさに言葉を凝縮し、唇から押し出していく。

「由紀、元気か?」

 数瞬の空白。

「まあね。康平はどう?」

 戸惑いがあったが、由紀の返事は軽い響きだった。これ以上短くても長くても、俺は言葉を失っていただろう。

「変わらないよ」

 後はとりとめのない近況報告が続いていく。学校や人間関係、日常のちょっとした出来ごとの話。だが、次第に話すことも無くなってきた。恋人だった時は無限に話すことがあったというのに。二人で愛し合っていた時間に触れないように、慎重に迂回していく会話は、やはりどことなく不自然でぎこちない。

「それで、その……」会話を接ぐ問いかけを、俺は必死に探した。何かあるはずだ。なんでも良いから話せ。

「そう、用件はあれだ。俺の家にある、由紀の本はどうすればいいのかなと思って」

「ええと、そうね。確かにそうね」

 受話器の向こうで由紀が考え込む。互いに何かの時間を稼ぐような会話。会話の為の会話。さびしい言葉のやり取り。

「本って言っても、すでに取った資格と健康法の本。あとは雑誌くらいだから……そっちで捨てておいて貰えると助かるわ」

 懐かしい雰囲気。いつもこうして二人で会話していたものだ。弛緩した空気に、俺はかつての調子を取り戻しつつある。

「分かった。じゃあ、由紀専用と書いてある圧力鍋や保湿器は?」

「いちおうこちらに全部送って」

「……一度も使ったところは見たことないけど」

「いつか使う、と思う」

「食べる専門の癖に」

「康平の家でだけです。自炊してるし、あなたにも作ってあげたでしょ?」

「……いまだから聞くけど、最初に作ってくれた料理、繁華街の飲み屋の裏で良く見る物体みたいな。あれはなんだったの?」

「シチューです!」

「……もう聞いてしまうけれど、由紀の料理は、実は俺への嫌がらせなんじゃないか? そうだと言ってくれ。でないと口の中に鉱山が出現する理由が分からない」

「失敬な。美味い不味いで言ったら……硬いだけよ」

「……あとたまに口が痛い。でも由紀、それでいいの? 食べると物理的に怪我をするようなものを、食物の範囲に入れていいの?」

「あれはその、そう解釈の問題よ」

「へー料理の味って解釈の問題だったのか。文学的ー」

「ついでに環境破壊が影響してたの」

「それは大変だね。ということにしておくよ」ああ、これだ。このやり取りが俺の幸せにすべてだったのだ。懐かしさに呑みこまれないように、俺は続けていく。「でも、由紀も上手くなってきたよ」

「……うん、康平と一緒に料理することをはじめてから、色々覚えたし」

一拍の空白。甘い郷愁に胸を締め付けられて、思わず口を衝く言葉。

「由紀、あのさ……」

「……貰ったアクセサリーは、郵便受けにいれておくわ」

 押し出された声。何かを必死にこらえる不自然さ。

「あ、ああ。そうだな」

 小さく震えた唇から、ようやく返事が吐き出せた。俺の心を読み、その後に続きそうになった言葉を防いでくれた。

「じゃあ、また」

「ええ」

 どちらともなく別れの挨拶をし、携帯を切った。夕方の町が、自宅の窓から見渡せた。

 視野の広さで座っていたはずの自分が、いつの間にか立ちながら会話していたことに気付いた。椅子に腰を戻していくと携帯を握っている手も汗ばんでいた。我知らず緊張していたのだろう。

 別れた由紀と会話するだけのことに、三週間ほどかかった。

 男女が別れたあとに電話をかけるのは未練がましくて嫌なのだが、互いの自宅に衣類や生活用品などを置いているため連絡を取らざるを得ない。互いに納得して別れたからといって、急に他人になれるわけでもない。

「いつか、別れる時が来ても、友人でいましょう」という由紀のかつての言葉を信じたふりをして甘えているだけなのだろう。

 愛し合っていたのに別れるということはありふれている。だが、納得はしにくい。そして俺の内部で膨れ上がる感情はなんだろう。愛しさでも、寂しさでもなく、暗く冷たいこれはなんなんだろう。

 思考を断ち切るように携帯が鳴る。由紀かと思い、直ぐに勘違いしたがる自らの愚かさを打ち消す。

 見ると、番号は友人の修一だった。しばし迷ったが出ることにした。

「もしもし、なに?」

「あーその……少し面倒な用を頼みたいんだけど……いいかな?」

「内容によるよ」

 手近にあった椅子へと座る。

「実は洋介とのことなんだが、それの相談に乗ってもらいたい」

「……はいはい、」

「じゃあ一時間後に俺んちで」

 修一が電話を打ち切る。忙しさに自分をたたきこみ、思考を封じることにする。そんな逃げは下手すぎるのだが、他に何も思いつかない。

 嫌な予感が圧倒的にあるのは、俺の心配性のせいなのだろうか。


 

 修一が呼んできたのは、一人の女性だった。

 俺の正面に座ってる女性。里香と名乗る女性は俺よりいくつか年上。くすんだ黒髪。左目下のほくろ。泣き顔にも見える容貌。左隣に、修一が座っている。左腕の包帯や、頬の傷がだが、名前を名乗ったあとの説明をいっこうに始める気配がない。長い長い静寂が流れて、ようやく里香が会話を切り出した。

「問題は洋介との別れ話のことなんです」

「ああ、それは……」とってもめんどくさそうだ、という続きを飲み込む。

「四か月ほど前から、私は彼氏との関係を終わらせたかったの……けど、首を縦には振ってくれず……」 里香の右手が修一の右手に添えられる。

「そのあいだに支えてくれたのは、修一さんなんです」

 里香と修一は、心から信頼し合っている二人といった感じだった。里香の瞳が俺を見据える。普段から泣いているようなうるんだ眼。

「ですが、あまり大ごとにしたくないのです。話しあいの付き添いとして、康平さんに居てほしいのです」

「まぁ、いいけども。付き添いが必要な事態だとも……」

 情報がくみあわされて、いやな結論。

 里香がうなずき、修一が説明を引き取る。

「先日別れ話を切り出したら、言い争ってるうちに互いに興奮し、こういうことに……」

 負傷した左腕に里香が視線を落とす。

「それで、もう一度冷静に話し合おうと思って、今日これから場所を取ってある」

「どうしても友人である康平さんの力が必要なのです」

 里香の必死の眼。はいはい、分かってますよ。洋介は友人の前で女を殴れるような男ではないし、もし殴りそうになったとしても、抑止力にもなるからな。

「分かった。同行する。ただあくまで同行するだけだからな」

「じゃあ、車でその場所まで向かうか」

 二人が去ってから、俺はため息を吐いた。厄介なことを頼みやがったな。そして、欺瞞と承知のうえで、俺はもう女が傷つくところを見たくない。

 足をひきずりつつ、俺は外へと向かった。


 喫茶店や雑貨屋が入った多目的ビル。華やかな場所で、恋人たちや家族連れという人通りも多い。

 エレベーターから降り、店舗の並ぶビル内を進む。人々の合間を抜け、回廊を歩いていく。角を曲がると人波の向こう、待ち合わせの店の前に男が立っていた。筋肉質の体をパーカーが包んでいた。元とはいえスポーツマンの見本。

「行きましょう」

 覚悟を決めた里香の宣言で、俺たちは足を踏み出す

「待たせたようだね」

 俺の呑気な呼びかけに、洋介の形相は警戒と疑念、怒りが三等分といった感じ。

「里香、なんでそいつを呼んだんだ? 聞いてないぞ!?」

「大きな声出したら通行人の迷惑だろう」

 洋介は周囲に視線を走らせる。通行人の怪訝な顔に気が付き、苦々しい顔をしながらも洋介は口を閉じた。

「俺は里香さんの付き添いといったところだよ。」

「何故だ!?」

「誰かさんの抑止力になるためにだよ」

 洋介の目じりが上がったが、こわばった笑顔を形成して耐えた。

「とりあえず、店に入って座ろうか」

 俺の提案で一行は喫茶店へと入る。通りを見渡す窓際の席、洋介が座り、反対側に里香と修一、そして俺が座る。

 ウェイトレスが水を置き、注文を受けて去っていく。気まずい沈黙。口火を切ったのは里香だった。

「……あの、洋介」

「……残念だけど、俺は別れるなんて認めない」

 洋介の押し殺した声。俺の視線に気づき、憤りと声の調子を抑えた。

「修一、お前もお前だ。友人だと思ってたお前に、こんな仕打ちを受けるなんてな」

「……ほんとうにすまないと思っている」

 修一の顔には怖れと怯えがあった。それでも息をのんで続ける。

「……だが、だからと言ってお前に、里香さんを譲れないよ。絶対に」

 決然とした言葉だった。それはひ弱な男ではなく、女を守る男の顔であった。そんな修一に反比例するように、洋介の顔に苦渋と悲哀が満ちる。

「里香、俺はなに一つ間違ったことはしていない。俺は浮気だってしてないし、今まで一度たりともお前を裏切った事はないそれをお前が、何故……」

「言ってることは正しいし、すべて私が間違ってる。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 里香が悲痛な声を絞り出す

「でも、大切なのは私の気持ちなの。貴方には愛情を感じない。もう戻れないのよ」

「そんな言い草が……」

 洋介の瞳孔が細まる。里香を庇うように、修一が立ち上がって身構える。

 二人の様子に、洋介の理性が剥がれていくのが分かる。暴力沙汰になる可能性もあるため、俺が割って入る。

「一応言っとくが、殴り倒したとしても里香の心は戻らない。すでにお前が受け入れるかどうかの段階になっている」

 葛藤が洋介の瞳に表れていた。自尊心が深く傷つけられたが、むやみに暴力を振るうのも無謀。

長い待ち時間。

「分かった。里香との別れは、しばらく考えさせてくれ。さすがに気持ちの整理がつかないが受け入れる」

 感情を抑えた洋介の声。溶岩のような怒りが皮膚の下で脈打ってるのが分かる。虚勢といえど、よく抑制しきったものだ。洋介が席を立つ。里香を一瞥したあと、背中に寂しさを宿らせて去って行った。

 しばらく経ってから立ち上がり、二人を外まで送る。

 通りで見送ってから、肩を回す。他人の色恋沙汰ほどめんどうなものはない。それが知り合いのものとなると、気分は最悪だ。



 自宅から近い繁華街。美しい赤レンガの壁が並ぶ。建物の裏を非常階段が這っていた。そのまま帰る気にもならず、地下にある馴染みの酒場に直行した。洋介、修一ともよく来ていた店。大学帰りに酔いながら、三人で夢を語り合った場所。そんなに昔の話でもないのに、懐かしさがよみがえる。

 地下にある店内には、穏やかな音楽が流れていた。天井にある三枚の羽が悠然と旋回し、空気と音符を撹拌している。落ち着いた飴色の壁に合わせた色の机と椅子。酒や食事を楽しむ客が集い、それぞれ話題を囁き合っていた。

 適度に絞られた照明が、酒飲みの鋭い眼が、ガラスの酒杯に宿る硬質な輪郭を柔らかく滲ませていた。カウンターに並んで座ると、天井にまで達する酒の棚が見える。地名に人名と様々な由来から名づけられた酒瓶が収められていた。酒好きの俺にとって、百花繚乱の色彩を見せる楽園にも見えた。

 棚の前では蝶ネクタイをした老バーテンが、背筋を伸ばして立っている。優雅に銀の筒を振って、アルコールの角を取り、カクテルを作っていた。

 背後から何かが争う音があがり、誰かが倒れた音が続く。

 振り返ると尻もちをついた女の反面を、乱れた黒髪が隠している。右頬を腫らしてうつむいている。その女の右手首を、男の左手が掴んでいた。その男は見知った顔の奴であった。

「おい洋介、その手を離せ!」

 俺を見据えたままの、洋介の険しい目。

「俺に誘いをかけた売女を懲らしめただけだ。なにが悪い!」

「他人に八つ当たりするなよ」

 睨みあったまま互いに微動だせずにいた。

「里香さんのことは、俺も気持ちは分からんでもない。だが里香さんとその女は別人だ」

 洋介の眉は、苦悶に歪んでいた。掴まれていた左手を離し、女は逃れる。沸騰する怒りのまま睨みつける。

「お前そんなんじゃなかっただろ?」

「……俺だってこうじゃなかった!!」

 洋介の耐えていた表情が一転。

「付き合うときに、里香は俺によき彼氏であることを望み、里香に貞淑な彼女であることを約束させた」

 歯噛みの間からは、洋介の怒りが吹きこぼれた。

「だが、だからこそ、俺を裏切った里香が許せない。あいつの言動はすべて間違ってる!!」

 なるべく刺激しないように言葉を選ぶが、拳を握る手には力がこもる。

「お前は混乱している。傍から見れば良く分かる。お前には何かが、そう落ち着く時間が必要なんだよ」

 男の両の瞳には憤怒の鬼火。視線で殺そうとするかのような凄まじい炎が宿っていた。

「……分かった。だけどな俺は何も間違っちゃいない。俺を裏切った里香と修一が間違っている。それが、正しい世界だ」

 沸騰する双眸の温度はそのままに、洋介は後退していく。そしてバーの闇に姿を消していく。視線を向けたまま、俺は酒杯を傾け思考をまどろませていく。



 重い足をひきずりながら自宅へと帰った。玄関から一直線で居間兼寝室に向かい、そのままベッドへと倒れこむ。枕に頬を乗せ、窓の外の夜景を眺める。目を開けていても何も見ていない。すべてを拒否するように枕に顔を埋める。やわらかな暗黒の中で、思考だけが駆け巡る。

 俺の胸の中心には、大穴が空いたままだった。

 洋介は俺に近しいのだ。

 つい先日、俺が由紀と連絡をとりあっていたのは、別れた後の残務処理のようなものだと考えていた。だが、それは自分を納得させるための嘘だった。本当はなんでもいいから由紀と話したり、繋がりを持ちたかったのだ。

 いつまでも別離の気持ちは消えない。そんな俺に洋介を責めることはできない。

 そう、苦痛と哀しみに出くわした人間はひとつの叫びをあげていた。

 「世界は間違っている」という悲痛な叫びを。

 その叫びに、人類は理性や知識で立ち向かった。世界は、人間は整然としたものではない。偶然で働き原因と結果はつながらない。教科書のように問いと答えがついになってはくれない。

 誰にでも分かりきっていることだ。だが、当事者は納得しない。愛する者たちを失った俺も、答えが無いということに耐えられない。俺が知らないだけで、どこかに必ず正解があるのだと考えてしまう。

 洋介と俺では、何処が違うのだろう?

 俺の行きつく先は洋介なのだろうか?

 携帯に着信があった。先日連絡先を交換した里香からの電話だ。

「康平さん……少しお話いいかしら?」

 面倒さが脳内をちらつくが、女性を邪険に扱う理由もない。

「……どうぞ、気分が紛れるのなら」

「昔は洋介もあんな人じゃなかった」

 里香の声が落ち、儚く散った。

「出会ったころは私を大切にしてくれた。それこそ、絵にかいたようなお付き合いだった」

 懐かしむような女の声。しかし、喫茶店で出会ったときから一時としてはがれない、哀しみが張り付いていた。

「でも、洋介はだいぶ前から私の髪や服の変化にも気づかなくなった」

「……あいつも忙しかったのだろうが……」

 愚かな態度だが、俺の口が勝手に動いていた。

「私と話すときが一番不機嫌だった。まるで邪魔ものをみるような目だった」

「洋介だって、本当は大事に思っていた。ただ疲れていて分からなかったのだと思う」

「大事に思ってくれるのなら、どうして憎むべき敵を見るような目で私を見るの?」

 これは誰に対しての告発なのだろうか。鉄槌をうけたような痛みを俺は胸の奥に感じていた。

「電話をかけても『忙しい』と冷たく繰り返される。不安は大きくなって、すぐに電話をかけてしまう。 それで洋介は激怒する。繰り返しの最後には着信を拒否された」

「それは……」

 言葉のひとつひとつが俺を打ちすえていた。ただ、耳を傾けることしかできない。

「最初は自分がおかしいのだと思った。だから、私が頑張って良い彼女になれば彼は元に戻ってくれると思った。すべて完璧にしようとした。だけど、何も変わらなかった」 

 自己を失ってまで相手に合わせる過剰な努力。しかし、ほとんどの場合において、それは報われない。

「そんなとき修一さんだけが、私を気遣ってくれた。本当にうれしかった……」

 結局そういう落ちか。世の中に掃いて捨てるほどよくある話だ。そして、よくいる女は、よくある男の優しさを好むのだろう。

 だがしかし、そんな平凡な事を洋介は理解できなかった。

 事実を重視する男にとって、理屈に合わないことはすべて異常事態だ。正誤を付けたくて仕方がないし、物事を分類棚に収納しないと理解できない。あいまいなものをそのまま受け入れる柔軟性がない。理解していたつもりで、俺も同じ道を歩んでしまったのだろう。由紀の気持ちを理解できなかったのだろうか。

「だからこそ、こんどは幸せになろうと思うの」

 幸福になりたいと望む女の強さには、ただただ敬服するしかない。里香の隣には洋介の居場所はもう存在しない。彼女の考えることでなく、洋介自身が考えることだろう。

「……なんかありがとう。聞いてくれて」

「いいえ、お気になさらずに」

 電話を打ち切る。罪はないが、無力な携帯を投げ捨てる。携帯は弧を描き、着地点を室内灯に選んだ。照明が耳障りな音とともに割れ砕ける。要領と運が悪すぎる。

 今では俺にもはっきりと分かる。由紀との電話の後に感じた感情の正体が。あの瞬間、たしかに由紀に殺意を覚えたのだ。

 自分の女が他の男と幸せになるのを見たり、想像する。あの地獄の業火。

 愛しい女が自分から離れるくらいなら、いっそ死んでくれればいいと。さらには、死の別れならば、諦めて悲劇に浸れることができただろうと。

 しかし、現実には、別れの後にも平凡なそれぞれの日々が続く。

 分かっているそれは男の身勝手だと。客観的にも主観的にも間違っていても、そんなことは無意味だ。誰が何と言おうと、自分ではない他人にはその人なりの譲れないものがある。

 もう、睡眠の救いに精神を売り渡すことにした。

 気持ちは決まった。多分これが最良の選択なのだろう。



 次の日、彼女が自宅にいない時間を見計らって、俺は留守電に伝言を入れておいた。

「あー俺、康平。うちにある君のモノは纏めて送っておく。俺のモノは捨てておいて」と。

 別れた男女が憎しみ合わずにすむ方法は少ないのだろう。

 一つあるとしたら、互いに互いの生き方を見つけることであろう。

 別々の道で、そして互いに幸せでなければ、相手に、自らの優しさを向けることは不可能なのだから。

 その時、俺と由紀は別の空の下で思い出せるだろう。

 楽しく愉快な記憶だけでなく、辛く悲しい記憶も。

 そこでは、懐かしさと甘い郷愁に変っているだろう。

 そして、彼女と見知らぬ男が手を繋いで歩いていても、俺は素知らぬ顔をして通り過ぎるだろう。

 優しい想いを持ちながら。



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