1-4.
「アンネリーゼさま」
そう考えていた矢先、優しい声音と共に、コツコツと足音が近づいてきて、そっと真っ白い清潔そうなハンカチを差し出された。私は俯いていたが、はっとして顔を上げる。
「……エリアス、殿下?」
それは、カイン王太子殿下の弟君の第三王子殿下。この学園の後輩にあたる方であった。私のふたつ年下の方だ。
バウムガルデン王家には、カイン王太子殿下の他に、カール第二王子殿下、そして声をかけてくださったエリアス第三王子殿下がいる。ちなみに、カール第二王子殿下とエリアス第三王子殿下は双子の兄弟だ。
話をもとに戻そう。
私は、じっとエリアス殿下を見つめたあとに、差し出された一つの穢れもない真っ白なハンカチを見つめた。
「エリアス殿下、どうして……」
ここにいるのか、と問おうとすると、そっと唇にハンカチを押し当てられる。真っ白い清潔なハンカチに、私の涙のシミがついてしまう。
「女性がそんなきつく唇をかみしめたり、拳を握ってはいけませんよ。もしも唇が切れてしまったり、手の平に爪が食い込んで、玉の肌に傷が付いてしまったりしたら大変だ。そして、その涙はハンカチの中に隠してしまいましょう?」
誰もが私を遠巻きにしている中に、私に気を配ってくれる人がいたことに安堵した。再びじわり、と私の瞳に涙が浮く。
「ほら、ダメですよ。ここは人前ですから……」
そういって彼は、私を彼の背中の影に隠れるようにしてくれる。
──年下の十六歳の彼の背中はこんなに大きかったかしら?
私たちの間にはあまり接点はない。学園に入学する頃には、私はすでに王太子殿下の婚約者であったから、他の男性とは距離を置いていた。記憶に残っているのは、エリアス第三王子殿下が、彼の入学式のときに生徒代表として壇上で挨拶をするのを遠目で聞いたとき以来だ。そのときの彼は、まだ幼さの残る顔立ちをしていたはず。
そう記憶をたどっていると、大衆のざわめきの中からひときわ大きな声がした。私を取り巻く人混みに割れ目ができる。
そこから現れた人の姿を一目見て、気が緩んだ私の頬に、とうとう涙が伝った。
「アンヌ!」
アンヌ、それは私の愛称だ。家族以外にそれを使う人はいない。
「……お父さま!」
私は、一番の味方が来て、名指しされてからずっと硬かった表情が和らぐのを感じる。
お父さまは私の側に来る。すると、エリアス殿下がお父さまと位置を交代して、私を正面から優しく抱きしめてくださった。
「お父さま、お仕事中じゃ……?」
「子細をエリアス殿下にお聞きして、飛んできたよ。今は私の大切なアンヌの危機なんだ。なにを置いても君のもとへ駆けつけるのが父親として当然だ。なんでも酷い目に遭わされたんだって? 今はお前も動揺して落ち着いて判断もできないだろう。この場は辞去しよう、家に帰るんだ。いいな?」
「いいんですか?」
逆に私はお父さまに問う。するとお父さまはさも不思議そうに首を傾げた。
「どういうことだい?」
「私は王太子殿下から婚約破棄を命じられました。私たちの婚約は、女王陛下が直々にお決めになったもの。ただ婚約が解消して終わりになるとは思えません。私は私に落ち度があったとは思いません。けれど、関係者の私をかばえば、家にもご迷惑をかけてしまうかも……」
そう告げると、お父さまは首を横に振る。
「大丈夫。今はどう手をこまねいても女王陛下と王配殿下は揃っていらっしゃらない。だからまだ女王陛下はこの事態を知ってすらいないはず。だから手の打ちようはないんだ。な? まずは、家に帰って落ち着こう? それからこれからのことを考えればいい」
私はお父さまの言葉にコクン、と素直に頷いた。
嬉しかった。
だから、思わず子供の頃のように両手をお父さまに伸ばす。すると、お父さまは座り込んでしまっていた私を両手で支えながら起き上がらせてくれる。そして、私が立ち上がると優しく抱きしめてくれた。
お父さまの抱擁は温かかった。大きな背中がやっと温もりと安心をくれた。
私を窮地に陥れ、弟君のエリアス殿下しか助けてくれない衆人の注目の中、もっとも頼りになる人のひとり、お父さまが駆けつけてくれたから。心からの安心を得ることができた。
しばらくの間、私たちが抱きしめ合っている間見守るように立っていらっしゃったエリアス殿下を私は見る。それと彼の貸してくださった真っ白いハンカチも。彼が貸してくださったそのハンカチは、涙で汚れてしまっていた。薄く施していた化粧の色も、ハンカチについてしまっている。
「殿下、このハンカチ……」
子供だとばかり思っていた彼は、まだ幼さが残る顔つきながらも穏やかで優しげな表情でにっこりと微笑んでくれた。
「大丈夫。それは使い捨ててしまってくれていいよ。それとね。この件、兄上の勝手な持論で進まないよう、私から母上にもきちんと伝えておく。だから、安心するといい」
そう約束して、にっこり笑ってくれた。
──結婚前に他の令嬢を孕ませるような方、こちらから願い下げなんですけど……。
ようやく気力が戻ってきて、心の内で思うが、さすがに口には出さなかった。
「それにしてもタイミングが良かったな」
「それはどういう?」
「この国の宰相である君のお父さまはね、ちょうどこの卒業式でご自身の部下とする文官にふさわしい人物を見定めにいらっしゃっていたんだ」
エリアス殿下とお父さまが目配せをし合う。
それが聞こえると、ざわっと辺りがざわめいた。きっと文官の職を欲しいと願っている子息たちだろう。
「こんな事態を良かったというのもなんだけれど、不幸中の幸いというところかな。騒ぎになってすぐ、私が呼んだんだよ。だから君を護りに来ていただけた。……だって、私より、やはりお父さまの方が頼りがいがあるだろう?」
最後のそのひと言に、少し寂しそうな陰りがあったのは気のせいだろうか? 確かに、エリアスさまはお優しいけれど頼りがいがあるかといわれると、ちょっと……という感じなのだけれど。
ともかく私は、一番の身内のお父さまの腕の中で、ほっとして脱力する。お父さまの腕に再びしがみつく形で倒れそうになってしまった。
「可哀想に、アンヌ……」
お父さまが、私を楽にしようと抱き上げようとする。
「バーデン卿、私が……」
そういいかけるエリアス殿下を、お父さまがきつい口調で制止する。
「殿下。娘の危機にお呼び下さったことは感謝いたします。……ですが、私は今のこの場で娘を傷つけた者の弟君に、娘の身を預ける気は毛頭ございません」
私はともかく、お父さまは王太子殿下おひとりだけではなく、王家全体に対して反感を覚えたらしい。
そうきつめにいうと、軽々と私を姫抱きに抱き上げてくれる。
「……お父さま……」
普段は優しいお父さま。けれど、その怖さも、この場では頼もしく感じて、安堵感を覚えた私は頭をお父さまの肩に預けて瞳を閉じた。
「くっ……」
エリアス殿下は、苦しげに唇を噛んで下を向いたけれど、なぜだろう。私は所詮顔見知りの上級生、そして、一貴族の娘。そしてたまたま、彼の兄の婚約者だった女というだけだというのに。
エリアス殿下の思惑は分からなかったけれど、お父さまは、王族への最低限の礼だけを執って、その場を辞することになった。私は抱き上げられたまま頭を垂れることしかできなかったけれど。
衆人の好奇の目からは、お父さまの大きな背中が守ってくれた。




