ツーカーの仲
スマホを見ると、ゼロが三つ並んでいる。退屈で、長い夜の始まりだ。今にも消えそうな街灯を二、三本通り過ぎ、近所のコンビニへ来てみると、酔いつぶれたOLらしき人が座り込んでいる。
「お~い、そこのしょうね~ん。こんな時間に何をしているんだ~?」
厄介なのに絡まれた。でも、知らない人ならうわべだけの会話で済むから楽だ。
「ちょっと眠れないので、散歩に。お姉さんは大丈夫っすか?」
「大丈夫じゃない! 酒を買ってこ~い」
「俺、まだ一七歳なんですけど……はぁ、水買ってくるんで、少し待っててください」
建付けの悪い自動ドアが開く音と、入店時の音楽が微妙に合っていないのはいつものことだ。
「あれ、カーくん。今日はバイトないよ? 店長的には、いつでもウェルカムだけど」
「だから、そのカーくんっていうのやめてください。俺、翔なんで。その呼び方、店長だけっすよ」
「はは、ごめんごめん。怒ると怖いんだから」
「そこで酔っ払いのOLに絡まれたんで、水買います」
「翔くん、見た目は怖いのに、心は優しいよね」
「まあ、表面上だけっすけどね」
「たしかに、翔くんは自分のこと、全然しゃべらないよね。はい、まいどあり」
建付けの悪い自動ドアが開く音を合図に、ウシガエルの合唱が始まる。
「お姉さん、水買ってきたよ」
「ありがと~。お礼に今度、お姉さんがデートしてあげよっか」
「いや、いいっす」
「え~、なんで?」
「人と深く関わらないようにしてるんで」
「あら、もったいない。こんな美人に会える機会なんて、次いつ来るか分かんないよ?」
俺がはぁ、とため息をつくと、酔っ払いOLは水を一気に飲み干した。
「何があったか知らないけど、たしかに、深く関わらなければ、自分が傷つくことはない。でもね、人生には傷つかないこと以上に大事なことがあると思うよ、少年」
「なんすか、急に大人ぶって」
「ふふ、こんなお姉さんに会えるなんて、いい夏休みのスタートだね。じゃあね、少年」
黒く長い髪とスーツを風になびかせて、颯爽と夜の闇へ消えていった。吹き抜けた風が、カタバミの葉を揺らしている。
「翔、おかえり。父さんは仕事に行くから」
「うん」
これが日常だ。父さんとの間にまともな会話はなく、話すのは業務連絡くらいだ。
街灯が腕まくりする時間になっても、父さんはまだ帰ってこない。今夜も眠れそうにないので、散歩がてら近所の公園へ向かう。
特等席のブランコに座ろうとすると、すでに先客がいた。
「そこの君、ヘルプミー!」
また、厄介なのに絡まれた。お得意のうわべだけの会話で乗り切るか。
「なんすか?」
「君、いくつ?」
「一七歳」
「え、私と一緒じゃん。じゃあ、同い年のよしみってことで、今晩泊めてくれない?」
綺麗な黒髪が風になびき、アーモンド形の瞳がまっすぐこちらを捉えている。正直、顔は可愛いが、家に泊めるなんて面倒くさい。
「ごめん。いきなり知らないやつを家に泊めるのは、さすがに無理だわ」
そのまま立ち去ろうとすると、重心がぐっと後ろにかかった。服の裾を掴まれたようだ。
「名前は紬! お姉ちゃんからはつーちゃんって呼ばれてる! A型! おとめ座!」
彼女はきっと、ボールが転がれば道路でも気にせず追いかけ、風船が引っかかればどれだけ高い木でも登るのだろう。昔の自分を見ているようで、放っておけなかった。
「もしかして、“知ってるやつ”になろうとしてる?」
「うん!」
「いや、そういう意味じゃなくて、断り文句っていうか……」
彼女は顔を傾け、きょとんとしている。
なぜ、そこまで人を信用して、深く関わろうと思えるのだろう。俺は好奇心に逆らうことなく、もう片方のブランコに腰を下ろした。
「なんで、家に帰らないの?」
「志望校のことで、お母さんと喧嘩した。私は今までやりたいことがなくて、親の言うことを何でも聞いて生きてきたの。それでも、お母さんは私の意見を尊重する、やりたいことを見つけられたらいいねって言ってくれてた。それで、初めて自分でやりたいと思えることができて、専門学校に行きたいって言ったの。そしたら、理由も聞かずに国立の大学にしろって。お母さんが怒ったところ初めて見たから、ショックで出てきちゃった」
ほら、そうやって全部真に受けるから傷つく。どうせ、お母さんは自分の思いどおりにならなかったから、ちょっと怒って従わせようとしただけでしょ。親でも、本心なんて言ってくれないと思っておけばいいのに。
「だから、お母さんへの抗議ってことで、すぐ帰るわけにはいかないの。お願い!」
正直、最初は何も考えていないやつだと思ったが、自分の将来のために勇気を出していることを知り、なんだか応援したくなった。
「まあ、一晩だけなら」
「ほんと⁉ ありがと!」
彼女に手を引かれて家へ向かう。ふと視線を上に向けると、転回禁止の標識が見えた。
「くしゅん!」
「ちょっと、静かに」
父さんがシャワーを浴びている隙に、二階の俺の部屋へと向かう。
「なんか、悪いことしてるみたいでドキドキした~」
「まあ、悪いことではあるんじゃない」
「じゃあ、共犯だね」
おどけるような顔でこちらを見てくる。やっぱり、顔は可愛い。
「なんで、悪いことだって分かってて、私を家に上げてくれたの?」
「そっちが泊めてくれって言ったから」
「でも、最初は断ったじゃん?」
「……あんたを見てると、昔の自分を思い出してさ。なんだか、放っておけなくて」
――ガチャ。
父さんが家のドアを開けた音だ。仕事に行ったのだろう。
「昔の君は、どんな子だったの?」
「父さんと母さんはすごく仲良しで、俺のわがままもたくさん聞いてくれた。そんな二人が大好きで、ずっと三人で楽しく暮らしたいと思っていた」
誰にも話したことがなかったので、パズルのように、頭の中で必死に流れを組み立てる。
「でも、ある朝、母さんがいなくなった。父さんに聞いたら、もう母さんは帰ってこないって。俺がわがままばっかり言ってたから、母さんは俺を嫌いになったんだ。本当は、わがままを言われるのが嫌だったんだ。きっと、父さんは俺のことを恨んでいる」
彼女は時折、頷きながら話を聞いてくれた。
「その日から、父さんとはまともに話さなくなった。人を信用するのもやめた。だから、あんたも人を信用しすぎるのはやめた方がいい。いつか傷つく」
「まあ、一理あるかもだけど、相手を信用して話さないと分からないこともあるじゃん? もし、私が家出した理由を話さなかったら、君は家に上げてくれなかったでしょ?」
たしかに、家出の理由を聞かなければ、俺は一生、彼女を誤解したままだっただろう。
――ピンポーン。
父さんが忘れものでもしたのだろうか。それとも、宅配便だろうか。
階段を下りてドアを開けると、警察官の男性が小さな手帳と写真を見せてきた。
「ごめんね、ちょっと人を探していて。この子、知ってる?」
写真には、さっき俺の話を真剣に聞いてくれていた顔が写っていた。
「……いや、知りませんね」
「そうか。何か分かったら、教えてね」
軽く頭を下げてドアを閉め、二階へ戻る。
「なんか話してたけど、大丈夫だった?」
「警察があんたを探してる」
「え⁉ ほんと?」
「ああ。でも、知らないって言っておいた」
「かばってくれたの? 私に出ていってほしくないんだ~」
「今すぐ追い出してもいいんだぞ」
「ふふ、ごめんって」
その後は、二人とも疲れて寝てしまった。俺は昼ごろに目が覚めたが、彼女は気持ちよさそうに眠っていた。
その寝顔を見ていると、いつの間にか自動販売機がオラつく時間になっていた。彼女が起きたので、慌てて目をそらす。
「よし! そろそろ行こうかな」
「え、どこに?」
「決めてない。でも、一晩だけって約束だったから」
「いや、警察も探してるし。すぐ見つかるんじゃ――」
「じゃあ、今日もいていい?」
目線を床に落とし、軽く頷く。
「やったー! ありがと」
窓の外から差し込む月の光が、彼女の優しく微笑む顔を照らしていた。眩しくて、俺は思わず目をつむった。再び目を開けると、彼女はもうそこにはいなかった。
「この漫画おもしろそう! 読んでいい?」
「いいけど。スカートめくれてる」
「お、これは失敬」
こんなに人に心を許してもらうのは、いつぶりだろうか。自分が必要とされているように思えて、気分は悪くなかった。
警察が探している以上、彼女を追い出すわけにもいかず、気付けば数日が経っていた。風呂や洗濯は父さんがいない間に済ませ、ご飯はおこづかいを出し合って買うことにした。
「俺、明日コンビニのバイトあるけど、一人で大丈夫?」
「うん、勉強してる。でも、息抜きに漫画も読みたいから、何か買ってきてよ」
「なんで俺が……まあ、気が向いたらな」
横になって窓の外を見ると、蛇がカエルを丸呑みするように、丸い月を厚く黒い雲が覆っていた。
――トン、トン、トン……。
階段を上がる音が徐々に大きくなる。父さんに怒られたらどうしよう、なんて説明しよう、と考えを巡らせたが、この状況は変わらない。ひとまず、彼女にはベッドの下に隠れてもらった。
「翔、ちょっといいか」
扉の向こうから父さんが話しかけてくる。まともに会話するのは、いつぶりだろうか。
「何?」
「最近、夜に出歩かなくなったよな。ゴミの量も少し増えた気がする。何か悩みがあるなら、いつでも話を聞くからな」
「……別に、ないよ」
「……そうか。分かった、おやすみ」
聞きなれた足音が遠ざかっていく。
「ごめん。もう、出てきていいよ」
「ぷはー! もう終わったかと思った~。……本当に、お父さんに言わなくて大丈夫?」
「うん。あれ以上は干渉してこないから」
「……そっか」
この日は、二人ともソワソワして寝つきが悪かった。すずめの鳴き声が聞こえると、彼女の寝息も聞こえてきた。綺麗なハーモニーを聴いていると、いつの間にか目をつむっていた。
「じゃあ、バイト行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
見送りの言葉を言われたのはいつぶりだろう。玄関を出て、外から部屋を見上げると、彼女が手を振っている。俺は「いいから、カーテン閉めてろ」とメッセージを送り、スマホの画面を消した。妙に緩んだ口元が映っていて気持ち悪かった。
「ただいま」
「あ、おかえり! バイトおつかれさま」
「特に、変わったことはなかった?」
「……うん、誰も来なかったし、ご飯もちゃんと食べたよ」
最近の彼女からすると、少しテンションが低いように感じた。
「……あのさ」
珍しく言葉に詰まっている。彼女は何度か手を握り直し、車が一台通り過ぎた後に口を開いた。
「私、いつまでここにいていいのかな?」
死角からぶん殴られた気分だった。いつの間にか、彼女がここにいるのが当たり前になっていて、最近はそんなことを考えてもいなかった。いや、考えないようにしていた。
その話題を出したら、この楽しい時間が終わってしまう。また、あの退屈な日々に戻ってしまう。俺は、それがたまらなく怖かった。
「……ずっと、いればいいよ」
「え?」
「いつまででも、いていい」
「でも、おこづかいなくなってきたし、ここにいることがバレたら、君にも迷惑が――」
「迷惑じゃないよ。お金も俺が何とかする。バイト頑張るし」
「でも……」
正直、俺は今の状況がどれくらいヤバいのか、分かっていないと思う。警察にバレたらどうなるのか、彼女の親にバレたらどうなるのか、少し考えたら分かるかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。彼女と一緒にいられるなら、この時間ができるだけ長く続くなら、それでよかった。俺は、いつからこんなにわがままになったんだろう。
翌朝、目が覚めると、リビングのテーブルにメモが置いてあった。
「出張に行くので、二、三日家を空けます」
きっと、事前に言っていたのだろうが、俺がちゃんと聞いていないと思い、メモを残したのだろう。いつもは何とも思わないが、今の俺にはうれしい知らせだった。
「ちょっと、私ずっと一位だったのに~」
「ゴールするまでがレースゲームだぞ」
「く~、もう一回!」
彼女は、意外に負けず嫌いらしい。
「うまくじゃがいもの皮むけないんだけど」
「え、ピーラー使うだけでしょ」
「それができないの!」
彼女は、意外に不器用らしい。この数日間で、彼女のことをより深く知れた気がする。結婚したら、こんな生活が毎日続くのかな、とも考えた。楽しすぎて、一瞬で三日が過ぎた。
建付けの悪い自動ドアが開く音と、入店時の音楽が、今日は調和のとれたハーモニーに聞こえる。
「カーくんさ、最近、シフトたくさん入ってくれるよね。店長はうれしいよ」
「カーくん呼びやめたら、もっと入りますよ」
「欲しいものでもできた?」
「ものっていうか……まあ、そんな感じっす」
「そっか。じゃあ、今日もバリバリ働いてね」
店長はちょっとウザいけど、こんな感じで深入りはしてこないので、俺にとっては心地いい距離感だ。
バイトも別に嫌いじゃないし、最近は家での時間も楽しい。俺の人生、今がピークなんじゃないか、なんて、一七年しか生きていないクソガキなりに思っていた。
「翔くん、ちょっとこのビラ、入り口に貼ってくれない?」
「なんすか? これ」
「人探しのビラだよ。ちょうど、翔くんと同じくらいの年の子が、家出して帰ってこないんだって」
ビラに載っていたのは、あまりにも見慣れた顔だった。写真は真顔だったが、笑った顔や悔しがる顔、寝顔まで脳裏に浮かぶ。
「お母さんが血眼で探しているみたいでさ~。さっき、うちにも来て、それ置いてったの」
店内はエアコンがついていて涼しかったのに、汗が止まらなかった。
「警察が役に立たないからって、噂では、探偵を何人も使って探しているみたいよ」
かといって、寒くはなかったのだが、手の震えが止まらない。
「まあ、我が子がいなくなったら、そりゃ本気で探すのは分かるけどさ。結構、高圧的な態度だったし、俺は好かないね~」
時計の針を刻む音が、異様に大きく聞こえる。この生活が永遠ではないことを意識せざるを得なかった。
「……翔くん、大丈夫? 体調悪そうだけど」
もし、彼女の母親が彼女を見つけたら、俺の家にいることがバレたらどうなる? 彼女の母親に怒られる? 父さんにも怒られる?
いや、そんなことは大した問題じゃない。警察に通報される? バイトは続けられる? 今みたいな楽しい人生は、二度と送れなくなる?
いや、これも二の次だ。一番大事なのは、彼女がどうなるかだ。このまま家に連れ戻されたら、彼女は自分の考えを母親に伝えられるだろうか。また、母親の言うことを聞くだけの生活に戻り、彼女の望まぬ人生を生きることにならないだろうか。
「すいません、今日は早退させてもらいます」
「う、うん、お大事に。次のシフトは、また連絡するから」
俺は、自分の気持ちだけしか考えていなかった。この生活を続けたら、彼女がどうなるのか、彼女にとって本当に良い選択は何なのかを本気で考えていなかったんだ。それが恥ずかしくなると同時に、真剣に考えなければいけないと思い、公園のブランコに座り、夕日を見送りながら考えを巡らせた。
「おかえり! 今日ね、お姉ちゃんと電話してたら――」
「家に帰って、親としっかり話さない?」
「……え?」
彼女の声が裏返ったのを聞いたのは、そのときが初めてだった。驚きもあっただろうが、彼女もこの生活が日常だと思ってくれていたのだろう。頬が緩みそうになったが、すぐに言葉を続ける。
「あんたの将来を考えたら、ここにいるべきじゃない。今後、受験とか学費とか、親の協力が必要だろ。だから、ちゃんと親と話して、家に戻るべきだと思う」
「……そろそろ、私が邪魔になってきた?」
「そうじゃない! できれば、ずっとこの時間が続けばいいって思う」
「お、うれしいこと言ってくれるね~」
「あんたは、どうしたい?」
彼女は一瞬視線を落とし、一息ついてから話し始めた。
「……私も、今の生活はすごく楽しいよ。でも、いつかは家に帰らなきゃいけないって思ってた。こうやって勉強しているのも、夢を叶えるためだし」
部屋には俺と彼女しかいなかったので、彼女は間違いなく俺に話していた。でも、彼女はその言葉を自分に言い聞かせているようにも見えた。
「でも、やっぱり少し怖い。また怒られたら、お母さんの言うとおりにしちゃいそう……」
「じゃあ、俺もついていくよ」
「え?」
「正直、力になれるかは分かんない。でも、あんたが勉強しているのはずっと見てきたし、本気で頑張ってるんだってことは、伝えられると思う」
「ありがと。それだけで、十分心強いよ。……決めた! 明日の夜、家に帰って親と話す」
彼女の顔は、外の曇天とは裏腹に、とても晴れやかだった。
翌日、俺の方がそわそわして先に起きてしまった。せっかくなので、彼女の寝顔を瞳に焼き付ける。
今日、この生活は終わりを迎える。でも、俺らは特に意識することなく、いや、意識しないように生活した。以前は嫌だった正午のサイレンや工事の音も、今は心地いい。
「よし、そろそろ準備しよっかな」
気付けば、外は茜空になっていた。嫌でも、この生活が終わるという実感が湧いてくる。俺も髪を整えて、歯磨きくらいはしておくか。
――ピンポーン。
階段を下りたのと同時に、家のインターホンが鳴った。父が帰ってくるにはまだ早いし……また警察か、それとも宅配便か。
「うわあ! カラスが窓にぶつかってきた!」
二階で彼女の間抜けな声が響く。
ドアを開けると、勢いよく人が入ってきて、思わず尻もちをついてしまった。
「紬! 紬! どこにいるの!」
その女性は、彼女の名前を叫びながら、扉を一つずつ開けていく。俺は情けないことに、その女性を目で追うのが精いっぱいだった。女性は階段を上がっていく。彼女の驚く声が聞こえる。女性が彼女の手を引いて下りてくる。
「ちょっ、待っ――」
俺がようやく絞り出した声をかき消すように、女性は言い放った。
「金輪際この子に関わらなければ、警察には言わないであげるわ」
勢いよくドアが閉まる。しばらく呆然としていたが、ようやく脳に酸素が回ってきた。
このまま何もしなければ、警察に言われることはなく、また平穏な日々が戻ってくる。彼女を助けにいけば、警察に言われて犯罪者になるかもしれない。前者のパターンを想像してみたが、死ぬときに今日のことを思い出し、後悔する未来しか見えなかった。
とはいえ、彼女のもとへ行くにしても、俺だけでは取り合ってもらえないだろう。対等に話せる大人――父の協力が不可欠だ。正直、まだ父と話すのは怖い。だが、ここは俺のわがままを通す場面ではない。
「あのさ、父さん。少し、話いいかな」
「うん。父さんも、ずっと翔と話をしたいと思っていたんだ」
まずは、俺から事の成り行きを話した。
「俺のこと嫌いだろうけど、協力してほしい」
「……そんな風に思っていたのか」
父さんは悲しそうな表情をしていたが、何か納得したようにも見えた。
「母さんとのこと、ごめんな。ちゃんと伝えてあげられなくて」
「え?」
「きっと、母さんが翔のことを嫌いになって家を出ていって、父さんが翔を恨んでいると思っているんだろう。でも、違うんだ」
「どういうこと?」
「母さんは、病気で先が長くなかった。でも、母さんは翔を悲しませたくなかったから、病気のことは言わず、入院するギリギリまで、翔に元気な姿を見せていたんだ。父さんは言うべきか迷ったんだが、きっと、まだ小さな翔にそんな話をしても理解できず、真実を受け止められないだろうと思ってしまった。ちゃんと、お前の意見も聞くべきだったよな。すまなかった」
俺はずっと誤解していた。母さんは俺のことを嫌いになったんじゃなかった。父さんは俺のことを恨んでなんていなかった。二人とも、俺のことを愛して、考えてくれていたんだ。もっと早く知りたかった。もっと会話を重ねていれば、こんなにすれ違わずに済んだのに……。
彼女には、こんな後悔をしてほしくない。
彼女の家のインターホンを鳴らす。数秒後、ため息とともに声が聞こえた。
「もう、関わらないでって言ったはずだけど」
「彼女に会えなくても構いません。でも、彼女の話だけは、聞いてあげてほしいんです」
「誘拐犯にそんなこと言われる筋合いないわ」
「息子が、そちらのお子さんを勝手に家へ上げたことは、本当に申し訳ありませんでした。ただ、娘さんが家出した理由については、お話しされましたか?」
「ちょっと、説教? まずは親として、子どもをしっかり教育したら?」
「娘を家出させるような親が、しっかり教育しているって言えるのかな~?」
声のした方を振り返ると、長く黒い髪とスーツが風になびいていた。
「つーちゃんがいたのは、君のとこだったのか。また会ったね、少年」
「あ、酔っ払いOⅬ! なんで――」
「お姉ちゃん! その人たちを中に入れてあげて!」
「ちょっと、紬あんた――」
「ということなので、行きますか」
お姉さんに続いて家の中に入り、五人でリビングのテーブルを囲んだ。
「まずは、つーちゃん。なんで家出したの?」
お姉さんが話を切り出す。彼女は俺に話してくれたのと同じように、話も聞かずに志望校を否定されたことが理由だと言った。
「だって、お母さん。どうですか?」
「どうって、専門学校なんかより、国立大学の方がこの子のためになる。それだけよ」
彼女のお母さんがそう言い放った後、父が口を開く。
「私も、この子のためになると思って、話も聞かずに勝手に決めたことがありました。でも、それは間違いでした。親は子どものことを何でも分かっていて、話をせずとも子どもの気持ちが分かるなんて、ただの勘違いなんです。子どもは、親が思っている以上にいろんなことを考えています。それは、話をしないと分かりません」
今にも糸が切れそうなほどピンと張り詰めた空気の中、俺は言葉を発した。
「俺も、今まで父さんの考えを勝手に決めつけていました。心のどこかでは、父さんとまた話したいと思っていたのに、どうすればいいのか分からなくて、距離を置いていました。でも、父さんと話して、父さんを誤解していたことが分かりました。きっと、話さなきゃ、一生分かりませんでした。だから、彼女の話を聞いてあげてください。彼女は、一生懸命自分の未来のことを考えて行動しています。すれ違い続けて後悔する前に、彼女に向き合ってあげてください」
重苦しい空気の中、風船を割ったようなお姉さんの大きな声がリビングに響く。
「私もそんなこと言われたかったな~。実は、私もやりたいことがあったんだけどね、お母さんにがっかりされたくなくて言えなかった。傷つくくらいなら、お母さんの言うとおりにした方がいいって思ったの。でも、あのときお母さんにちゃんと話していたら、違う今があったのかなって思う。だから、つーちゃんには後悔しないように生きてほしい」
「……お母さん、私の話、聞いてくれない?」
彼女は、まっすぐな目でお母さんを見る。
「何よ、みんなして説教なんて、気分が悪いわ。……分かったわよ、話を聞けばいいんでしょ」
「ありがとう! お母さん」
「ふん、あとはこちらの話ですので、あなたたちはお帰りください」
お姉さんはこちらへ深々と頭を下げる。
まあ、言っていることは間違いではないから、あとは俺らの出る幕じゃない。
玄関を跨いだ瞬間、彼女に呼び止められた。
「あの夜、君に出会えてよかった。ありがと」
「こちらこそ。声をかけてくれてありがとう」
帰り道、俺は父さんと喉が枯れるまで話した。
「翔、まだ勉強していたのか。頑張るのもいいけど、ほどほどにな。父さんは寝るよ、おやすみ」
「分かってるよ、おやすみ」
寝る前に、メッセージでも返しておくか。
「明日、専門学校のオープンキャンパスなの」
「寝坊すんなよ。俺もどっか行こうかな」
「?」
「いや、俺も進学目指そうかなっつうこと」
「そっかあ。でも、君の学力で行けるとこあるの?」
「うるさい。だから、こんな時間まで勉強してるんだろ。もう寝るから、おやすみ」
「ごめんて。またね、おやすみ」
スマホを見ると、ゼロが三つ並んでいた。




