雨の記憶
短編にするために色々端折って書いちゃいました~ノリと雰囲気で読んでください笑
雨の音で、目が覚めた。
いつもなら、足が痛むはずの朝だった。
あの足首の、ぐしゃりと砕かれた箇所が、雨の日にはずきずきと疼くのが常だったのに――今日は痛くない。
薄暗い天蓋の下、私はゆっくりと息を吐いた。胸が苦しいほど締めつけられ、肺の奥で何かが冷たく沈んでいく。まるで長い夢から醒めたばかりのように。
おそるおそる布団をめくる。白く細い足が、そこにあった。
あの忌まわしい夜、折れたはずの左脚は、まっすぐに伸び、傷も跡もない。
息が止まった。夢なのか、死後の幻なのか。
私は布団の端を握りしめ、しばらく動けなかった。
それでも、確かめずにはいられなかった。足を床に下ろす。
冷たい大理石の感触が、肌を撫でた。
立てる。
ああ――立てるのだ。
歩き方を忘れた小鹿のようにふらつきながら、窓辺へ向かう。
厚い雨雲の向こうから淡い光が差し込み、ガラスに映る自分の姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
――若い。
頬の張りも、瞳の輝きも、あの頃のまま。まるで時が十年ほど巻き戻ったような顔が、窓に映っていた。
指先で触れると、鏡の中の少女も同じ仕草をした。
そういえば、この部屋はあの忌まわしい王宮の、何度願っても出られなかった部屋ではない・・・?
と、考え込んだそのとき、控えめなノックの音がした。
「お目覚めですか?」
扉の外から聞こえた声に、私は身をこわばらせた。
侯爵家にいたころ、専属で付いていた侍女ルシアの声であった。
恐る恐る「入りなさい」と答えると、扉が静かに開いた。
ルシアが盆を抱えて入ってくる。
薄い陶器の皿には温かいスープと焼きたてのパン。あまり朝を摂らない私が昔お願いしていたメニューだった。
立ちのぼる湯気が、雨の香りと混じる。
「お顔の色が優れませんね。どこかお加減でも?」
「・・・いいえ。ルシア、今日は何月何日?」
突拍子もない問いに、彼女は一瞬まばたきをした。
「六月の八日でございます、お嬢様。」
私はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
今日は、今日は――あの、パーティの前日。
あの日、すべてが始まった、皇太子の誕生日。
皇太子に見初められた日。
その後の惨劇への扉が開いた夜。
私は震える唇を押さえた。
「・・・神よ、今度こそ、どうか」
その夜、私は父の部屋へ駆け込んだ。
「お願いです、お父さま。今夜のパーティを欠席させてください。」
父は書類から顔を上げ、眉をひそめた。
「何を言う。出席は義務だ。理由は知らんがお前の気まぐれで変えられるものではない」
いつも通りの、冷たい声。
私のことなど“駒”としか思っていない声。懇願しても無駄だと悟った。
では、運命そのものを、壊してしまえばいい。
***
翌晩。
煌めくシャンデリアの下、絹のドレスに包まれた貴族たちの視線が、ひとつの光のように私に集まっていた。
皇太子殿下が、私の手を取る。
「麗しきアンネリーゼ。君の瞳に、私は恋をした」
この言葉を、うれしいと感じた日もあった。
ああ、でも今、よくよくあなたの瞳を見たら、暗い執着に満ちたその瞳をあのときちゃんと見ていたなら。
あんな部屋で、動かなくなった足を毎晩眺めて泣いて、死にゆくまで心を弱らせることも無かっただろうに。
私は微笑み、冷たく言い放った。
「殿下――あなたは、わたくしの好みではございませんの。」
会場が凍りついた。
殿下の瞳に、怒りの焔がともる。次の瞬間、平手打ちが頬を焼いた。
誰かが悲鳴を上げ、音楽が止まる。
怒号とざわめきの中、私は唇から血を流しながら、静かに立っていた。
――この痛みなど、足を折られたあの日に比べれば、何でもない。
舞踏会は混乱のうちに中止され、私は「国の恥」として家を追われた。父は冷然と告げた。
「お前のような家に害を及ぼす娘など育てた覚えはない、出ていけ。」
私は侯爵家を追い出され、恐らく腹いせだろう王命にて貧乏子爵デニスの妻として嫁ぐことになった。
振られた女と結婚など許せぬ、プライドの高いあの男のやりそうなことだった。
***
子爵の屋敷は、外見こそ地方紳士としての体裁を保っていた。
表の庭は整えられ、外壁はきちんと塗られている。訪れる客が見れば、格式を損なわぬ家に見えたであろう。
だが扉の向こうは違った。
玄関から居間へ続く室内には、埃を帯びた調度が静かに並び、壁紙の模様は色あせ、天蓋付きの寝台の縁はほつれていた。
毛布は薄く、羽根布団の中身は随分と抜かれているらしく、枕は片側がへたっている。
食卓には控えめなスープと黒パンが並び、献立にはいつも同じような品が多かった。
表向きの「体裁」を保ちながらも、暮らしの中身は削られ、質素にされている――それが、ここローゼン家の現実だった。
だが、家の中には緩やかな温度があり、皆が穏やかそうに暮らしていることも事実だった。
結婚式の夜、つまり初夜に。デニスは言った。
「君が大変な思いをしてここにいるのは知っているから、僕は君に手を出すような不埒な真似はしない。なるべく関わりも持たないようにするから」
いくら貧乏であるとはいってもあの夜会は貴族であれば誰でも参加は必須、当然いただろうし騒ぎも見たはず。
厄介な不良債権を押し付けられた・・と思っているだろう。
なのに、なぜ?
そう言って彼は、添い寝だけをして夜を明かしたあと、一切私の部屋には近寄らなかった。
あの夜が、彼とまともに話した最後の夜になるとは思わなかったが、その時の私は、ただ静かに眠りについた。
***
結婚式からひと月経ったある晩、初めてデニスが私の部屋を訪れた。
彼はおもむろに書類を差し出す。
「折り入って相談がある」と、思いつめた顔。
昼間きた怪しげな商人から渡された書類らしい。
さっと目を通しただけで、胡散臭い投資話だとわかった。
なるほど、子爵家がこれほどまでに貧乏な理由がなんとなくわかった気がした。
「情けない話だけど、もう僕にはどうしたらいいかわからなくて。君がアカデミー時代、学年一位だったのを思い出してさ。どうか、力を貸してほしい」
この国の男が、女に弱みを見せるなどあり得ない。
ましてや妻に助けを求めるなど。
だが、彼は素直に助けを求めた。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
なるべく気に障らないよう、言葉を選んでアドバイスをした。
「お話の筋を拝見しましたが、少し調べてみる必要があるかもしれません。今すぐに判断するのは危ういかと」
デニスは唸るように頷いた。私はさらに続けた。
「時間を稼ぎましょう。今はまだ資金の余裕もないでしょうし――“今すぐは無理ですが、一月後なら”と伝えてください。その間に、裏を取ります」
彼は一瞬驚いたように私を見つめ、それから小さく笑った。
「わかった、ありがとう。・・・僕が変なことを口走らないよう、明日の話し合いにも同席してほしい」
私は静かに頷いた。
翌朝、話し合いの場に私が現れたとき、商人は露骨に眉をひそめた。
女がしゃしゃり出てきた――その目がそう言っていた。商談のような”男の席”では、普通妻は同席しない。
デニスは昨日伝えた言葉そのままを発した。
「今すぐは無理ですが、一月後なら」
あの返事に、また金を巻き上げられると思ったのか、商人はホクホク顔で帰っていった。
その笑みを見送りながら、これはなにか裏があると確信を抱いた。
その夜から、私は机に向かい、灯火の下で一枚一枚の書類を読み込んだ。
まずはこの投資の裏を取る。
存在する会社か、資金の流れはどうなっているのか、誰が背後にいるのか。
調べていくうちに、胸を締めつける寒気を覚えた。
あの投資先は存在しないのだ。書類は巧妙な偽造だった。
そして、そこに刻まれた印章のひとつが、見覚えのある家紋――皇太子の縁者が所有する商会のものだった。
腹いせに結婚させたのにまだ許せないのだろうか。
けれど、もう私はあの日の私ではない。
私は銀行へ赴き、「この投資先は審査を受けていない架空のものである」という証明書を発行してもらった。
それを商人の提出した書類とともに法務局へ提出する。
数日ののち、詐欺であることが証明され、商人は指名手配となった。
危機を乗り越えたデニスは、私に深く頭を下げた。
「君がいなければ、領地は潰れていた。本当にありがとう」
以後、彼は商談には必ず私を同席させ、密かに私の意見を求めるようになった。
私は彼の体面を守るため、商談の場では言葉を発さず、膝に手を置くなどの合図で意思を伝える方法を提案した。
そうして幾度かの取引を経るうち、領地経営は目に見えて安定しはじめた。
私は、生まれて初めて“誰かを信頼し、また信頼される”という喜びを知った気がした。
***
その知らせが届いたのは、秋の終わりの雨の日だった。
雨に濡れた外套を抱え、子爵が一通の手紙を手にして戻ってきた。
「ようやく、君が安心して暮らせるようになったと思う。」
そう言って笑ったとき、その瞳の奥に、ほのかな安堵と――それ以上の何かが宿っているように見えた。
詳しい話は、あとから耳にした。
皇太子が街歩きをすると聞きつけた誰かが、彼の好みに合いそうな平民の娘を見つけ、礼儀作法を仕込んで引き合わせたのだという。
そして、思惑どおり皇太子はその娘に心を奪われ、正妃に迎えようとした。
だが、皇帝は激怒し、皇太子を廃嫡。
新しい皇太子が傍系から立てられ、旧皇太子は平民の娘とともに遠い地に幽閉された。
その一連の策に、子爵が関わっていたという噂を、私はあとで人づてに聞いた。
なるほど、彼の「人のよさ」はただの素朴さではなかった。
ほんとうの彼は、笑みの下に計算を隠すことができる人間だったのだ。
あの、怪しげな商人との席でも見せなかった一面。
私はそのことを知っても、驚きはしなかった。
むしろ、少しだけ胸の奥が温かくなった。
――この人もまた、共に生きるために、自分なりの戦場で戦っているのだ。
子爵は何かを決意したように、雨に濡れた庭の地面へと膝をついた。
その瞳は、まっすぐに私を見上げていた。
「僕はこんな情けなくて平凡な男だけど・・・どうかこれからも一緒にいてほしい、アンネリーゼ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
長く凍っていた心が、ようやくあたたかさを思い出したのだ。
元皇太子の影も、痛みの記憶も、雨とともに洗い流されていく。
私の名を呼ぶ彼の声は、祈りのように穏やかで、どこまでも優しかった。
ああ、もしこの人生が、あの痛みの日々の報いならば――私は、ようやく報われたのだと思った。
愛を尽くすのは、もう義務ではなかった。
この人と生きること――それが、私自身の願いになっていた。
「もちろんです、旦那様」
そう告げると、彼は少年のように照れた笑みを浮かべ、私の手をそっと包んだ。
そのぬくもりが、暗い記憶を静かに溶かしていく。
子爵としてではなく、ひとりの男として。
その妻としてではなく、ひとりの女として。
私たちは、ようやくこの雨の中で、共に立っていた。
***
窓の外では、まだ雨が降っている。
灰色の空の下で、庭の木々が静かに濡れていた。
部屋には火の匂いが漂い、彼の穏やかな笑みが揺れる灯に照らされている。
私はその姿を見つめながら、そっと瞼を閉じた。
――ああ、この静けさが、いつかすべての記憶を包み隠し、私たちの心をやさしく守ってくれますように。




