第四話…147円/リットル
やった。間に合った!
ひぃひぃ、ぜぅぜぅ。
必死のいで東に西に、商店街を反時計回りにぐるり。ふらり聞こえる四面楚歌に、気がつけば路地の裏。
しかしここで捕まってしまえば今までの苦労は灰燼に帰す。
えぃやっ、と更に国道沿いを南に突っ切り、やっとのことで追っ手共を巻いた。
情けない。最後まで追いかけろよ。根性が足りん根性が!若者がそんなんだから今の日本は…………。
「いたぞーッ!」
常人では考えられない反射的クラウチングスタートで、俺は数百メートルを追いかける奴らとどっこいどっこいの早さで走った。
こっちは重荷を背負っているのだからどうして私も健脚の持ち主であろう。
走りながら私は考えた。なぜ自分が追われる身であるかを。
バットを持った男達の目は血走っている。しかし、そいつらが着ているTシャツでは某アニメで見覚えのある女性達が笑っている。
そう、その姿さまさにオタク…。
そしてそいつらが追いかけているのが…俺。リュックサックを背負う俺の姿は第三者から見たらあいつらと同じだろうな…。
背中のリュックサックが一段と重く感じられた。
あれ?さっき門の先で俺を轢きかけたワゴンが止まっている。そしてどういう訳かその運転席の窓から白髪の老人が身を乗り出して「早ク、早ク!」と叫んでいる。後部席のドアは開いている。
まさに渡りに船!!
細かいことは全く考えずに後部座席に滑り込み、私が乗ると同時に車は急発進した。オタク共は風景の後ろへと流されていくかのように見えなくなった。
「さっきは悪いことしたアル。オマエオワレてる。悪いことしたからワタシオマエ連れてく。行きたいトコ言え。」
ニコッとした笑顔が可愛らしい謎の中国人らしき男は、私を、追っての届かない私の知人の家まで送ってくれた。
「ワルイことしたら警察行くアルヨ〜!」
時速90キロで進むワゴン車に向かって手を大きく振り、感謝の言葉を送った。
そして私はたどり着いたのでアル。
木造でやたら洋風のアパートの一室の前に立った。
憎しみの篭った人差し指で、しかし優しく、なおかつ花を見つめてためらう蝶のように優雅にインターホンを押した。
「ぴんぽーーん。」
「ぴんぽーーーーーーーーーーん。」
「………。」
薄茶色のインターホンはやたらと「ぽ」と「ん」の間が長い音を出した。久しぶりの国際交流にうきうきしている俺を小馬鹿にするような音だ。
「ぴんぽーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。」
「ぴんぽーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。」
おいっ、さっさと出てこい!私は激怒した。なかなか表れない友に対してではない。
次はこの変わったイントネーションの持ち主ともおさらばだ!そう思いながら手頃なコンクリートブロックを振りかぶり、狙いを定めていると、やっとのこと「ハイオク」が出てきた。
ハイオクはコンクリートブロックを振りかぶる俺をみて、一瞬「なんぞ?」という顔をした。が、俺は構わず狙い続けた。
ハイオクは二度三度、俺とブロックを見比べると何に合点したのか転がしてあった角材を拾い、「ばっちこ〜い」とケツをぷりぷりバッターのように立った。
そのまま数秒間私達は相対し続けた。吹きすさぶ冷風が私達を冷やした。
それに比例するかのように私の体温はみるみる上がっていく。
負けてなるるものかとも思ったが、風より寒い視線を感じた私はついには恥ずかしさのあまりブロックを脇に捨ててしまった。
ブロック塀の隙間からは、らんらんと輝くチルドレン達の目が見える。おおよそ、得体のしれない変な奴として常日頃マークされているのだろう。こんな辺境ですらこの人数を集めるとは、まったくプロ顔まけの集客率である。
ハイオクは汚れの無い視線など一向に気にする様子などなく、相変わらず汚い尻をぷりぷりやっている。
「やめろ。君のその姿は目に毒だ。その迷惑なインターホンを壊すのはあきらめるよ。」
仕方ないので自分から切り出した。恥じらう気持ちなんぞに負けたのだ。
「なんだ投げねぇのか…。」
そうとう残念そうにハイオクは呟いた。放っておくとあのまんま何時間もぷりぷりやっていそうで怖い。
整理の行き届いた玄関から上がって、いつもの部屋に座った。応接間だ、いやキッチンだ、リビングだ。ありとあらゆる条件にピタリと当てはまる超理想的機能空間は、2LDKの部屋に無限の奥行きを与えている。どれもこれもハイオクに初めてできたらしい彼女の身技なのだそうだ。
そのことで私とハイオクは再三電話で協議し合い、意見を戦わせた。といっても一方的に好きになったのはその彼女のほう。男どもがとやかく言える筋合いではなかった。その彼女はたびたびハイオクのアパートにやってきては散らかった部屋をかたずけ、やってきては食いもしない料理を振舞うのだそうだ。
顔にはまるで生気がなく、だのに目だけはやたら赤々とぎらついている。その姿は鬼かもののけの類のちかく、もし深夜にばったり出会おうものなら二目となく逃げ出してしまうだろう。浮世離れした風貌の奥底、人がこころとかいうところに、少女のような心が眠っていると知ったのは俺とその彼女くらいのものだ。
顔に生気がないのはハイオクがほとんどいっさいのものを口にしないからである。そして唯一飲むのが、花村印の栄養ドリンク「地上人」である…。謎の多いそのドリンクのパッケージには「ヒトよりもヒトに近い飲料水!」と書いてあり、ただでさえ胡散臭い花柄の見た目をよりいっそう胡散臭くしている。
人に必要な栄養素が全て入っているんだ、と昔ハイオクが自慢げに言っていた。本当かどうか俺は知らない…。
そして目が赤い…、これについては説明する必要もないだろう。ただ充血しているだけだ。年中。
その「ハイオク」の顔に惚れたのだそうだ。まったく人の出会いとはわからない。ゴキブリすら住めない「廃屋」のようなアパートで一人「ガソリン」のような臭いのする飲料水をエネルギーにする男…。だから私はこいつに「ハイオク」と命名したのだ。
だのにその決定的事項の一つ、無添加百パーセントで散らかっていた部屋はこのとおりかたずいている。彼女の作ってくれた手料理を口にするのも時間の問題である。
まったく人の出会いとはわからないものだ。よく磨かれた窓から降り注ぐ、甘酸っぱい太陽のビーム光線に立ち向かおうとした。立ち向かおうとしたけど、立ち向かおうとすればするほど、きりきりむねが痛くなって、私はカーテンを閉めた。
机兼椅子にもたれかかると、逃げ切った安心感と疲れが一気に俺に追いついてきた。リュックサックを枕に寝転がりたかったが、そうしてしまうと直ぐに寝てしまいそうなので辞めにした。
「その様子だと成功したみたいだな。」
ハイオクが去年の夏祭りで手に入れたらしいハイカラな水色の盆に、「地上人」を二つ乗せてやってきた。