第2話…まゆみ
さてと。誰に会うこともなく無事玄関に辿り着いた。
玄関を出たとしてもまだ敷地の中だ。完全に脱出するには門を抜けなければならない。
ドアを開けた私は上着のチャックを引き上げた。
寒冷前線はいまだ日本に踏ん止まり、もうすぐ五月だというのに肌寒い。
長袖のシャツに厚手のフリースでちょうどいい程だ。
背中のリュックがずしりと重い。だが、その中身のことを考えるとその重さがむしろ俺を中に浮かせた。
軽く屈伸した後、軽快なステップで自転車置場に向かった。
ドスッ、ドスッ、ドドス!
端から見ればさぞ重苦しいステップだったに違いない。
自転車置場に着くとすぐに使い古した自分の自転車を見つけた。ボディは剥げかかった赤いペンキでコーティングされていて、俺ごのみの愛着の湧く仕様となっている。
もう五年乗り続けたサドルはしっくりとお尻にフィットする。包みこむ感触は滑らかでひんやりしていて気持ちいい。
このサドルはおそらくもう俺以外の誰の尻に合うこともないだろう。
使い古されたハンドルはがたがたとよくゆれ、チェーンは錆びついている。
買い替えるつもりはない。
こいつは俺の共であり戦友だ。
こいつは俺が鉄拳を持って憎きアンチクショウに制裁を加えんとする度に、息巻く俺を制し、
「殴るのはいけません。あなたはそんなことする人じゃないでしょう!」と月日を重ねた付き人の如く俺に諭すのである。
本当にそう言っているかのように、そういう時はいつも空気は満タンだ。
そしてその後、俺を無理矢理戦場から外へと連れ出すのである。
手際と速さといったら他に比べようもなく、その場に本当に俺がいたのかさえ敵に気づかれない程である。
おかげで俺はいまだこの手を振るわずに済んでいる。
軋むペダルを踏み込み、門へと走り出した。朝の日差しの中、私はゆっくりと優雅に進んだ。
だがものの百メートルと進まない内に、背後に猛烈な視線を感じた。私は素早く、しかしあくまでナチュラルにスピードを加速させた。
私の努力も虚しく後方で、私のことを呼ぶ声が聞こえる。
「イカサマ野郎!!まて、一緒に来い!!」なんだ、違った。俺じゃない。俺はイカサマなんてやってない。全てはあの男がやったんだ。
私は一度止まり、きっちり和解を済ませた上で反論しようと思った。
が、残念なことに私には時間がない。後ろを見るとバットを持った屈強な男たちが5・6人、追いかけてくる姿が見える。
何だろう。野球をするんだろうか。私は野球は得意ではないので誘ってもつまらないと思うのだが。
だから他の奴を誘ってくれ、頼むから。
彼らのためを考えて私はさらに足に力を込めた。
私の自転車も俺に賛同してくれるのか、ぐんぐんスピードが上がっていく。
今日も空気は満タンだ。ペダルを踏みながら考えた。
うむうむ・・・。
よし、せっかくだからコイツに名前を付けてあげよう。緊急事態にもかかわらず私は突拍子のないことを考えはじめた。
必技、現実逃避!!
………そうだ!
「まゆみ」にしよう。漂う上品さがピッタリな気がする。
しかしこのままでは人名なので敬意を評して「号」を付ける。
…よし!
「まゆみ号、いくぞー!」私は右手を掲げながら叫んだ。
眼前には壁のように立ちふさがる門が見える。コンクリートで塗り固められた姿は見るからに頑丈そうだ。高さはだいたい一メートル五十センチといったところか。
残り六十メートル。開いた隙間は通るには充分そうだ。
残り四十メートル。一瞬後ろを振り返ったがすぐに前を向いた。
荷台にバットをたくさん積んだ黒い軽トラックが迫ってくるのが見えた。
残り十メートル。
おそろしいことが起きた。私の逃走経路すら奴らの魔の手が伸びていたのである。
スローモーションのように世界がゆっくり流れていく。
門の横にある藪のなかから突然現れた奴らの手下共は、何を血迷ったのかいそいそと門を閉めはじめた。
「何のつもりだ!」俺が叫ぶ。
「こうしないと俺たちが行かないといけなくなる!」群集の一人が言った。
「甲子園でもなんでも目指すがよかろう!」
「甲子園?何のことを言っているんだ。奴らはそんなの目指しちゃいない」
「じゃあ、あれはなんだ!!」真後ろを指差した。
「さぁな、昨日の腹いせじゃないか!?」同情と哀れみのこもった声だった。
「そうはいかん!!」
股間がじっとり汗をかいていた。
門はみるみる閉じていく。まゆみ号も廃車を覚悟したのか、ぎゅうぎゅううなり声をあげている。
だか、俺はスピードを緩めない。閉まる。進む。進む。進む。進む。
猛然とつき進み、まさにぶつかろうとしたその時、
「いっけーーー!」
私の自転車は高く、高く跳躍した。
昔みたビデオのワンシーンに同じようなの同じようなのがあった気がした。頭の中をぐるっと見回したが、見つかったのは借りっ放しの猥褻ビデオだけだった。
。
ガガッ、ゴン!!
バッ、ごろごろ。
ききっ、バカヤロー。
飛び越えたかに思えたが、実際はたいして飛ばなかった。前輪が見事、門に挟まった。
幸い私の身は門をすり抜け、越えた先の道路をころころ転がった。背中のリュックがクッションとなったおかげで全くの無傷だ。
道ゆくワゴンに轢かれそうになり、あわてて歩道へと走った。
あわてて走った先は門とは反対側だった。
私は自分の過ちに気づいた。
まゆみ号はまだ門の中にいた。
門の内には奴らが大挙として押し寄せている。今にも道路を渡って来そうな勢いだ。
真由美は酷い有様だった。激突の衝撃でかごは変形していた。しかしそれでもなお私を守っていた。
門は真由美がうまく引っ掛かり、開かなくなった。その姿はとても勇ましく、彼女とともに歩んだ五年間を思い出させた。
「真由美ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
そしてその姿はいつものように俺の背中を押してくれた。
見送る真由美を背に私は泣きながら走った。その足となっていた真由美はもうおらず、一人で走る姿はいつもより遅かった。