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10/19

10.なあ、最近ちょっと変わった気がするんだ

 朝の日差しが差し込む小さな宿の一室。

 ギルドからの報酬で借りているこの賃貸部屋は、簡素ながらも最低限の家具と寝具がそろっていて、ひとまず生活には困らない。異世界に転生してからというもの、毎日のように何かと事件に巻き込まれていたが、ようやくレンにも静かな朝が訪れていた。


「んー……静かだ」


 ソファに背を預け、湯気の立つハーブティーを口にする。リズもメルも今朝は「買い出し行ってくる!」と出ていってしまった。まさか二人で出かけるとは思わなかったが、どうやら女子同士で話したいことがあるらしい。


「……まあ、こっちとしては気楽で助かるけどな」


 ぽつりと呟く。フェロモンのスキルが常に発動しているせいで、街中に出るだけで視線を集めてしまうのは相変わらずだ。それでも最近は、慣れてきたというか、諦めの境地というか……。


「ちょっと街でも散歩するか。部屋にこもってても退屈だしな」


 そうしてレンは、軽装に身を包み、外へ出た。


 今日は市場の通りが賑わっていた。屋台の食べ物、商人の呼び声、通りを行き交う人々。異世界の雑多な喧噪に、少しずつ心が馴染んでいる自分に気づく。


「……」


 その時、ふと視線を感じて振り返ると、一匹の小型の魔物――いや、魔物というより、ふわふわとした小動物――が道の片隅で鳴いていた。丸くて、耳の長い、どこかマスコットのような存在。


「迷子か?」


 思わずしゃがみこもうとしたその瞬間、


「その子、私が預かりますね」


 声がした。


 振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。

 亜人――いや、獣人だろう。猫のような耳に、長い尻尾。くすんだ金髪をゆるく結び、落ち着いた色合いのローブをまとっている。目元は涼しげで、どこか凛とした印象。


「この子、うちの診療所で飼ってるんです。時々こうして逃げ出すんですよ、ふふっ」


 彼女は笑った。スキルの影響を受けているはずなのに、その笑みには必要以上の媚びも、感情の暴走も見えなかった。ただ、柔らかく――自然体だった。


「……お前、俺に……平気なのか?」


 思わず出たレンの言葉に、彼女は小さく首をかしげた。


「うーん……平気、とは言いません。でも、あなた、距離の取り方をちゃんと見てくれるから。だから大丈夫です、今のところはね」


 さらりとそう言って、小動物を抱き上げる。


 レンは、無意識にその女性の後ろ姿を目で追っていた。


 獣人の女性が歩き出してから、レンはしばらくその場に立ち尽くしていた。

 あれだけ女性に囲まれる状況にうんざりしてきたのに、なぜか今の時間だけは、不思議と居心地が悪くなかった。


「……ちょっと、気になるな」


 そのまま自然と足が動いた。別に追いかけるつもりはなかったが、偶然のようなタイミングで、女性の前方から大声が響いた。


「おい、そこのネコ女! さっきぶつかっただろ!」


 粗暴な声。よく見ると、酔っぱらった中年の男が彼女の肩を乱暴に掴んでいた。


「ぶつかった? 私は何も――」


「言い訳する気か? 金出せ、金! 診療所のやつらはどうせ儲けてんだろ!」


 明らかに因縁をつけているだけだ。通りの人々は見て見ぬふり。

 レンは、迷わなかった。


「おい、おっさん。女に手ぇ出すとか、恥ずかしくないのか?」


「なんだと?」


 男が振り返った瞬間には、レンの拳が目の前に迫っていた。

 軽く一撃を与え、男はあっさり地面に転がる。


「ったく、酔っ払いに絡まれるとか、災難だな」


 レンがため息混じりに呟くと、女性はほんの少し、目を丸くした。


「……ありがとう。でも、私のこと助けたからって、特別に好意持ったりしませんよ?」


 レンは笑ってしまった。


「安心しろ。俺も、そっちのことを"特別"には見てない」


 けれど、嘘だった。

 少しだけ――ほんの少しだけ、特別な存在に感じ始めている自分に、レンは気づき始めていた。


「……俺、橘レン。ちょっといろいろあって、この街にしばらくいる」


「私はソルフィ。診療所で助手をしてます。……良ければ、また動物を見に来てください」


 彼女が微笑んだ瞬間、レンの心がわずかにざわめいた。


「おーい、レン! どこ行ってたのよ!」


 遠くから元気な声が響いた。レンが振り返ると、リズとメルがこちらに駆け寄ってくる。二人とも買い物袋をぶら下げていて、満面の笑みだ。


「お前たち、ずいぶん早かったな。何買ってきたんだ?」


「それは後で見せます! でも、途中でレンさんに会えなくて心配しちゃいました」


 メルが少し拗ねた顔をして、リズも肩をすくめる。


「すまん、ちょっと散歩してたんだ」


 レンが苦笑いを浮かべて答えると、リズが鋭くこちらを見た。


「誰かいたの?」


「……ああ、ちょっとな」


 レンは視線をソルフィに向ける。ソルフィは落ち着いた微笑みで会釈した。


「こんにちは、はじめまして」


 リズとメルも軽く会釈を返し、警戒心は少し緩んでいる様子だった。


「何だか、いい感じですね...」メルがうらやましそうに言う。


「別に、そんなことないよ」レンは照れ隠しに顔を背けた。


 その日、いつもとは少し違う空気が、三人の間に流れていた。

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