10.なあ、最近ちょっと変わった気がするんだ
朝の日差しが差し込む小さな宿の一室。
ギルドからの報酬で借りているこの賃貸部屋は、簡素ながらも最低限の家具と寝具がそろっていて、ひとまず生活には困らない。異世界に転生してからというもの、毎日のように何かと事件に巻き込まれていたが、ようやくレンにも静かな朝が訪れていた。
「んー……静かだ」
ソファに背を預け、湯気の立つハーブティーを口にする。リズもメルも今朝は「買い出し行ってくる!」と出ていってしまった。まさか二人で出かけるとは思わなかったが、どうやら女子同士で話したいことがあるらしい。
「……まあ、こっちとしては気楽で助かるけどな」
ぽつりと呟く。フェロモンのスキルが常に発動しているせいで、街中に出るだけで視線を集めてしまうのは相変わらずだ。それでも最近は、慣れてきたというか、諦めの境地というか……。
「ちょっと街でも散歩するか。部屋にこもってても退屈だしな」
そうしてレンは、軽装に身を包み、外へ出た。
今日は市場の通りが賑わっていた。屋台の食べ物、商人の呼び声、通りを行き交う人々。異世界の雑多な喧噪に、少しずつ心が馴染んでいる自分に気づく。
「……」
その時、ふと視線を感じて振り返ると、一匹の小型の魔物――いや、魔物というより、ふわふわとした小動物――が道の片隅で鳴いていた。丸くて、耳の長い、どこかマスコットのような存在。
「迷子か?」
思わずしゃがみこもうとしたその瞬間、
「その子、私が預かりますね」
声がした。
振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。
亜人――いや、獣人だろう。猫のような耳に、長い尻尾。くすんだ金髪をゆるく結び、落ち着いた色合いのローブをまとっている。目元は涼しげで、どこか凛とした印象。
「この子、うちの診療所で飼ってるんです。時々こうして逃げ出すんですよ、ふふっ」
彼女は笑った。スキルの影響を受けているはずなのに、その笑みには必要以上の媚びも、感情の暴走も見えなかった。ただ、柔らかく――自然体だった。
「……お前、俺に……平気なのか?」
思わず出たレンの言葉に、彼女は小さく首をかしげた。
「うーん……平気、とは言いません。でも、あなた、距離の取り方をちゃんと見てくれるから。だから大丈夫です、今のところはね」
さらりとそう言って、小動物を抱き上げる。
レンは、無意識にその女性の後ろ姿を目で追っていた。
獣人の女性が歩き出してから、レンはしばらくその場に立ち尽くしていた。
あれだけ女性に囲まれる状況にうんざりしてきたのに、なぜか今の時間だけは、不思議と居心地が悪くなかった。
「……ちょっと、気になるな」
そのまま自然と足が動いた。別に追いかけるつもりはなかったが、偶然のようなタイミングで、女性の前方から大声が響いた。
「おい、そこのネコ女! さっきぶつかっただろ!」
粗暴な声。よく見ると、酔っぱらった中年の男が彼女の肩を乱暴に掴んでいた。
「ぶつかった? 私は何も――」
「言い訳する気か? 金出せ、金! 診療所のやつらはどうせ儲けてんだろ!」
明らかに因縁をつけているだけだ。通りの人々は見て見ぬふり。
レンは、迷わなかった。
「おい、おっさん。女に手ぇ出すとか、恥ずかしくないのか?」
「なんだと?」
男が振り返った瞬間には、レンの拳が目の前に迫っていた。
軽く一撃を与え、男はあっさり地面に転がる。
「ったく、酔っ払いに絡まれるとか、災難だな」
レンがため息混じりに呟くと、女性はほんの少し、目を丸くした。
「……ありがとう。でも、私のこと助けたからって、特別に好意持ったりしませんよ?」
レンは笑ってしまった。
「安心しろ。俺も、そっちのことを"特別"には見てない」
けれど、嘘だった。
少しだけ――ほんの少しだけ、特別な存在に感じ始めている自分に、レンは気づき始めていた。
「……俺、橘レン。ちょっといろいろあって、この街にしばらくいる」
「私はソルフィ。診療所で助手をしてます。……良ければ、また動物を見に来てください」
彼女が微笑んだ瞬間、レンの心がわずかにざわめいた。
「おーい、レン! どこ行ってたのよ!」
遠くから元気な声が響いた。レンが振り返ると、リズとメルがこちらに駆け寄ってくる。二人とも買い物袋をぶら下げていて、満面の笑みだ。
「お前たち、ずいぶん早かったな。何買ってきたんだ?」
「それは後で見せます! でも、途中でレンさんに会えなくて心配しちゃいました」
メルが少し拗ねた顔をして、リズも肩をすくめる。
「すまん、ちょっと散歩してたんだ」
レンが苦笑いを浮かべて答えると、リズが鋭くこちらを見た。
「誰かいたの?」
「……ああ、ちょっとな」
レンは視線をソルフィに向ける。ソルフィは落ち着いた微笑みで会釈した。
「こんにちは、はじめまして」
リズとメルも軽く会釈を返し、警戒心は少し緩んでいる様子だった。
「何だか、いい感じですね...」メルがうらやましそうに言う。
「別に、そんなことないよ」レンは照れ隠しに顔を背けた。
その日、いつもとは少し違う空気が、三人の間に流れていた。




