7.魔物と竜と
すっかり日も傾くころ、馬車は一軒の農家にたどり着いた。
奥から、ニワトリやアヒルの鳴き声が響いてくる。他に馬や牛もいるようだ。動物たちの体や飼料の臭いが漂ってくる。
その手前に、ピッコの入った籠を降ろす。
「ちょっと待っててね」
言い置いて、ラミッタは早足で歩き出した。振り返らずに、他の二人が隠れている場所へ。
遠くから、籠のなかのピッコがどうするのか、見張るのだ。
ピッコの声が聞こえる。いつものヒヨコの声。
そう、ピッコはピッコで変わらない。魔物だなんて、やっぱり嘘だよ。いつまで籠に閉じ込めているの。可哀想だよ。早く出してあげなくちゃ。たっぷり餌をあげなくてはね。
ラミッタは心のなかで呟く。祈りながら。
ぴよぴよ。
訴えかけるような声のあとに、籠が揺れる。何か連続して千切れるような音がした。鉤爪のようなものが籠を切り裂いたのだ。
ラミッタは息を吞む。隣のアルマも口元に手をやって、声を上げないように堪えている。
ぎぎぎぃ、というような不快な鳴き声とともに、裂けた籠から黒々とした怪鳥が現れる。ピッコの面影は微塵もない。
ヒヨコだったことを、こんなにも容易く否定されてしまうとは。
理解を拒みたくなるような現実が、すぐそこにあった。
「ギーム鳥か。まだ子どもだな」
サリアが囁く。それは確かに魔物の名前だった。
ラミッタは何も考えられず、ただその大きな黒い鳥を目で追うしかない。
怪鳥はすぐに羽ばたいた。鳥小屋へ向かって。
その気配を感知したのか、小屋のなかの鳥たちが警戒の声を上げ始めた。
怪鳥は音もなく小屋の手前に降りる。翼をたたみ、近づいていく。明らかに獲物を狙っている。
気づくと、ラミッタは駆け出していた。
「ラミッタ!」
アルマとサリアが強く呼びかけるが、ラミッタは止まらない。
「ピッコ!」
ラミッタは叫ぶ。
怪鳥は、こちらへ大きく首を捻った。
「ねぇ、ピッコ。ピッコはピッコだよね。悪いこと、しないよね」
声が震えた。
ピッコは今や小さなヒヨコではなく、自分の背丈ほどあり、危険で威圧感のある魔物だった。大きな鉤爪のついた足先、黒光りする羽と鋭い目。それに、赤黒くて長い嘴には牙がぎらついている。
ギーム鳥について、ラミッタは聞き知っていた。成鳥なら人間でさえ喰らうということを。
それでも、逃げるような真似はしたくなかった。ピッコを信じたかった。
怪鳥は、ラミッタに向かってつんざくような声を上げる。
「ピッコ」
名を呼ぶが、通じているのかさえ不明だ。魔物の姿に身をこわばらせながらも、ラミッタは向かい合って声をかけ続ける。
「ピッコ、お願い、戻って。ピッコ」
しかし、再び怪鳥は耳障りな大声を出す。
何か。何か少しでもヒヨコになってくれないかと、幾度も呼び続け、息が切れる。
「ピッコ……」
怪鳥はそのまま何も変わらなかった。
あのふわふわとした毛並みも、つぶらな瞳も小さな鳴き声も、かわいらしい姿も、何もかも戻ってはこない。
ラミッタは、とうとう分かってしまった。もう元のピッコが自分の前から失われてしまったのだと。
魔物になってしまった以上、ピッコがこの町に留まることはできない。
夢のなかのピッコの姿を思い浮かべる。
何度自由に空を飛んだだろう。
あの金色に輝く翼を、私は手放すんだ。
もう黒い翼を自分のものにして、帰ればいいよ。
さようなら、ピッコ。
無意識のうちに握りしめていた手を、力なく下ろした。
ラミッタは忘れている。本来、魔物は人間を攻撃するものだということを。
怪鳥は黒い羽を広げ、一歩踏み出す。次の瞬間、ラミッタに向かって襲いかかってきた。
そのときだった。
空からすさまじい勢いで何かが飛んできて、ラミッタの目の前の怪鳥を弾き飛ばした。
叫び声を上げ、怪鳥は鈍い音とともに地面へ転がる。その前方には、攻撃をしかけた赤銅色の竜が舞い降りる。竜騎士を乗せて悠然と佇む。
怪鳥は威嚇の声を上げるが、竜の咆哮には敵わない。竜騎士が声をかけ、竜は炎を吹きかけた。
怯んだ怪鳥が後退する。素早く翼を羽ばたかせ、飛び上がる。
竜と竜騎士はすかさず追う。
怪鳥と竜は、日の暮れゆく上空へ飛び立ち、やがて大空に溶け込むようにして姿を消した。
すべては、ほんの僅かの間の出来事だった。
ラミッタはしばらく呆然と空を見上げていた。
「ピッコが、行っちゃった……」
小さなヒヨコだったピッコ。それがあんな怪鳥に変わって、いなくなってしまった。
遠い空を見つめながら、もっとどうにかできなかったのかとラミッタは悔やむ。
魔物の本能で自分を攻撃しようとしたことも、かわいいピッコが失われたことを示していて、恐怖を感じず、ただ悲しかった。
何があっても、やはりヒヨコのままでいてほしかったと思ってしまう。
もう、ピッコは帰ってこない。
左手を胸もとに押し当てる。何か喉もとに向かって込み上げてくるものを抑えようとして。
それなのに。
「どうして……アルマが泣いているの」
「だって。だってラミッタが……」
声にならず、しくしくとそばで泣く友を前に、ラミッタももう何もかも抑え込むことはできない。
ラミッタとアルマは身を寄せ合って、声を上げて泣き出す。
サリアは二人の肩を叩いてなぐさめた。
落ち着いてくると、ラミッタはアルマに声をかけた。
「ごめんね。ピッコは魔物じゃないかって、薄々思ってたんだけど、それでもピッコはピッコで、違うんじゃないかって……」
「うん、分かるよ」
アルマが頷いてくれて、サリアも静かに話しかける。
「ピッコはピッコだったと思うよ。ピッコは魔物だったけど、普通の魔物のようにすぐにはラミッタに攻撃してこなかった。ラミッタが声をかけたときも、ためらっていたよ」
「そうだよ。ラミッタのこと、ピッコはちゃんと分かっていたと思うよ」
「うん……」
すると、サリアが大きく息を吐いた。
「正直なところ、ラミッタが魔物の姿を見ても逃げるどころか声をかけているから、驚いたよ」
「あ……。私、自分のことばっかりでごめんなさい」
ラミッタは慌てて謝る。考えてみれば、決してサリアの計画した通りじゃなかったはず。
「いいんだよ。今はラミッタの気持ちを優先させて」
「ありがとう……」
二人の気遣いがじんわり心に響いてくる。
また視界が滲んできた。目元を手で拭うと、ラミッタは自分に言い聞かせるようにゆっくり伝えた。
「ピッコは私のこと、よく理解してくれたよ。私が空を飛びたいことを知って、願いを叶えてくれたんだ。魔物だから騙したって言われるかもしれないけど、私にはそうは思えなかった。最後にさよならは言えたと思う。でも、今は……ピッコがいなくなって、仕方がないことなんだけど、それでも寂しい……」
「ラミッタ」
アルマが優しくラミッタを抱きしめてくれる。
こんなにも自分を気遣い、一緒に涙を流してくれた友人に、自分はどうすればいいのだろう。
何もかも話してしまいたいと、ラミッタは急に強い衝動に駆られた。
途端に、謝りの言葉が口から零れる。
「ごめんね、アルマ。結局アルマを巻き込んじゃって」
七月の竜騎士団の見学を目前にして、ラミッタは仕事をしていた農場から今後正式に来てほしいと頼まれた。母が「よかったわね」と言い出すので、その表情を見たら、見学に行けなくなってしまった。何とか農場には保留にしてもらったものの、後悔の念は強かった。
五月の見学の帰りには「やっぱり竜騎士になりたいから、お父さんにもちゃんと話すよ」とアルマにも話していたのに。それができていたら、こんなことにならなかったかもしれない。
さらに、ピッコがもしかすると魔物かもしれないと疑いを持ち始めたころに、突然アルマが家を訪ねてきたのだった。
「アルマがうちに来たとき、どうしようかって思ったの。私、考えるの苦手だから、あのときは咄嗟に農場の仕事をするって言っちゃったんだ。でも、本当は竜騎士になるのを諦めてなんかいなかったよ。だけど、アルマがもしピッコが魔物だと知ったら、私以上に悩んじゃうって思った。だから、アルマに知られないように離れなきゃって考えて、嘘ついたんだ。ごめんね。私、ずっとアルマに謝りたかったんだ」
「ラミッタ……」
見学にはもう行かない。農場の仕事をすると決めた。そんなふうに、全くの嘘をついて。おまけに、アルマはまだ決めていないの、とまで訊いた。まるで無関心なように、感情のこもらない言葉で。
それに、もうかかわりを閉ざしてしまうかのように、勝手に話を終わらせてしまった。
ラミッタは、そのときのことを考えると胸が苦しかったのだ。
「アルマに嘘をついたり、ひどい態度をとったりして、本当にごめんなさい。それに、すごく迷惑をかけてしまって……」
「何言ってるの、ラミッタ。考えるの苦手って言いながら、いろいろ悩んで、私のこともすごく考えてくれたじゃない。それにね、迷惑なんてかけてない。嘘つかれたのはちょっと嫌かな。でも、それだってもう話してくれたから全部いいよ」
「アルマ……」
アルマの言葉がとてつもなくありがたかった。
怪獣映画ってこんな感じだったかなあと考えながら書いてみたり……大丈夫かしら。