6.夢から醒める
ラミッタは、大きくなったピッコの背に掴まる。ピッコはぐんと高度を上げた。
「わあ。すごいよ、ピッコ」
ラミッタははしゃぎ声を出す。
黄金色の翼で、ピッコは悠々と明るい空を飛んでいく。
遥か遠く下界を覗いてみれば、家々が豆粒のように小さくなっている。動いている人や家畜がただの点にすぎない。町を囲んでいる大きな山々が間近に迫り、ふわふわとした白い雲にも手が届きそうだ。
何より空の上で気持ちいい。何ともいえない心地好さ。
ラミッタは、ピッコの背で思う存分、空の旅に浸る。
「ピッコ、もっともっと飛んで!」
ラミッタの願いに応えるように、大きなピッコは羽ばたく。更に速度を上げ、高く舞い上がり、ラミッタの心も浮き上がる。
そのときだった。
「ラミッタ」
自分の名を呼ぶ声に、ラミッタは一瞬びくりとする。が、すぐにピッコの背を撫でる。
「気のせいだよね。さあ、あの山を越えて……」
「ラミッタ」
声は大きくなり、繰り返す。
「誰?」
思わず問いかけた途端、ピッコががくんと前につんのめるようにして進まなくなった。
「ピッコ、どうかした?」
ピッコは羽をばたつかせるが、どんどん下降していく。
「どうしたのよ」
ラミッタの声はそのまま悲鳴に変わる。ピッコはいきなり羽ばたきをやめ、猛スピードで螺旋を描きながら地面へ向かって落ちていく。
「ラミッタ」
続く声と自分を揺さぶる手に、ラミッタは目を覚ました。
「あ、アルマ。ピッコが……ピッコと空を飛んでいたのに」
急に夢から起こされ、ピッコの墜落に心は引きずられたまま。眠りの世界から放り出されて、ラミッタはまだぼうっとしながらも、目の前のアルマを見つめた。
その背後に、サリアが控えていた。
ラミッタの心臓がどきりと鳴る。
どうしてアルマのお姉さんが。
もしかして、ピッコのことで何か……?
頭の靄が消え去り、はっきりと覚醒する。
アルマが不安げな表情で謝ってきた。
「ごめんね、起こしちゃって」
「ううん。戻ってきたの?」
何を言ってよいか分からず、そう尋ねてみる。
具合いを心配してアルマが訪ねてきたのは、ほんの数時間前のこと。
そこで何があったのか、アルマと何を話したのだったか。夢の印象が強すぎて、今の状況が繋がってこない。とにかくピッコのことを何か知られてしまったのではないかと、ラミッタは焦った。
アルマは、淡い褐色の瞳をこちらへ向ける。
「あのね、ラミッタは夢にとらわれているみたいなんだよ」
「夢にとらわれる?」
ピッコについてではなくて、意外な言葉。それでも、思い当たることだった。
「うん。眠いのは眠りに誘い込まれているからなの。夢も……」
「違うよ。ちょっと風邪で眠りが必要だっただけ。いい夢を少しくらい見たからってとらわれたりなんかしてないよ」
つい話を遮った。しかし、視線を揺るがすことなく、アルマは問いかける。
「いつもピッコと空を飛ぶ夢だよね?」
「……」
「その夢は、ピッコが見せているかもしれないのよ」
ラミッタは固唾を呑み込む。
「何を言っているの……」
二人の会話にサリアが入る。
「ラミッタ。ピッコはただのヒヨコじゃない。ヒヨコだったら、もうニワトリになっているはずだよ」
サリアの言葉に、ラミッタは来るべきものが来たことを悟った。
「……そう、だよね。何となく分かってた」
俯いて、唇を噛みしめる。
前々から気づいていたのだ。ピッコがどこか変だということを。鳴き声も動きも変化せず、何より成長しなくて。
だけど。それでも、ピッコは大事なヒヨコだった。
「でも、ピッコは何も悪くないよ。いつだってヒヨコと同じだし、一緒にいれば空を飛ぶ夢が見られるだけだよ」
「ピッコは魔物だよ」
サリアが低い声で静かに告げる。
ラミッタだって、本当は分かっていた。そのことを深く考えようとしても、最近は眠くて面倒になってしまったけれど。
そうであっても、言わずにはいられない。
「お願い。私からピッコを取り上げないで。ずっと木箱のなかで飼っているから。眠ってばかりいないで、明日からはちゃんと仕事もするよ」
「ピッコが夢を見せているとしたら、眠気はだんだんひどくなるかもしれない。そうなる前に、ピッコから離れるべきだよ」
アルマのお姉さんは、ピッコのことを聞いて、魔物だと判断したに違いない。それで忠告に来たのだろうと、ラミッタにも明確に分かった。
けれども。
「そんなの嫌。ピッコと離れるなんて、私にはできないよ」
大きな声を出してしまう。アルマの面持ちが、悲しげにゆがむのも構わずに。
「ピッコは、私がずっと大切に育ててきたんだよ。どこかにやったりしないで」
ラミッタはもう一度、サリアに訴えた。
「気持ちは分かるよ。農家の人もみんなそうだよ。自分の飼っているヒヨコやニワトリも、牛や羊も、どんな生き物だって、大事に愛情を持って育てている。そんな動物たちが突然食べられてもいいと思う?」
「思わないよ。……どういう意味?」
何か胸に重くのしかかるものを感じて、問い返す。
「この辺りで家畜の被害が出ている。魔物に襲われているんだ。その魔物は、ピッコなんだと思う」
「えっ」
突然頭から冷水をかぶせられたような気がした。
ラミッタも、最近の魔物騒動を知っている。
「そんな。そんなことあるわけないよ。ピッコは小さなヒヨコだよ。どうして疑うの。魔物だったとしても、こんなに小さいじゃない」
「魔物のなかには、小さな生き物にも、なり変われる物があるんだよ」
「だからって、ピッコを疑うなんて……」
ラミッタの声は、小さくなって途切れてしまう。
アルマが今にも泣きだしそうな顔でこちらを見つめている。
ピッコを拾ったのちに魔物の被害が出始めている。それに、竜騎士のサリアなら、今回の魔物について出現地域など様々な情報を把握して、そこから推測できたに違いない。
おそらく二人が確信を持ってここに来たのだと分かった。
本当は、アルマには何も知られないようにしたかったのに。
「夜中に木箱から抜けだして、外で食べ物を探しているかもしれないんだ」
「私、毎日ちゃんと餌をあげているよ。ピッコは大人しいし、家畜を襲うなんてあり得ない」
強く否定しようとするが、サリアは冷静に持ちかけた。
「信じたくない気持ちは分かるよ。それなら、実際にどうなるか見てみればいい。厳しい提案かもしれないけど、聞いてくれるかな、ラミッタ?」
ピッコを木箱からそっと出す。
「ピッコ、今日はお出かけするよ」
声が沈むことのないように、なるべく笑顔で。
ラミッタは普段どおりを装って、ピッコに接する。
これが最後なんだ。
そう思うと、手のなかのピッコのぬくもりがどうしようもなく愛しかった。
「ピッコは本当にかわいいね」
声をかけて、頭を撫でる。
ふわふわとした毛並みや温かみ、小さな命を感じるのに。
サリアの提案に、ラミッタはひどく胸が痛んだ。
ピッコが夜、自分の知らないうちに木箱を出て、魔物の姿になって……。そんなこと、考えられない。
絶対に違う。そんなことあるわけがない。
ラミッタは強くそう思った。
ピッコはずっと私のヒヨコ。このままでいる以外の選択肢などあり得ないと。
けれども、心の奥では予測できていたのだ。
いずれはピッコが魔物だと明らかになって、別れる日が来るのではないかと。
厳しい提案だと言ったが、竜騎士の権限でサリアがすぐにピッコを連れ去ることもできるはずだった。そうしないで、魔物であるところをしっかり見届ければいいと話してくれたのだ。
それに、アルマが姉のサリアを竜騎士として尊敬していることも日頃から感じていた。だから、信頼できた。
結局、サリアが提示したことに頷いたのだった。
ラミッタは小さな籠にピッコを入れると、決断の変わらないうちに蓋をした。
ぴよぴよと鳴き声が響いてくる。
思わず蓋を閉めた手に再び力を込める。もう一度開いて手に取りたい。そんな衝動を何とか抑え込んで。
籠を持ち直し、アルマとサリアが待つ馬車に乗る。動き出した窓を覗けば、裏庭が目に映った。
小麦はすでに収穫されていて、畑は次の作物のために更地になっている。そのすぐそばに見慣れている箱があった。
今度家に帰るとき、ピッコはいない。あの木箱は空のままになるんだ。
ピッコとの日々を突然断たれるのは、身を切られるように辛い。
もうピッコと夢で空へ旅立つこともない。
私は、空を飛べなくなったんだ。
ラミッタは、ただピッコの入った籠を胸に強く抱きしめた。