3.それぞれの家
「こんにちは」
アルマは、思い切ってラミッタの家を訪ねた。約束もなくここまで来たのは初めてだった。
「あら、いらっしゃい」
ラミッタの母親が扉から顔を出して、柔らかく微笑む。アルマの緊張はほぐれた。
「ラミッタなら、裏庭でピッコの世話をしていると思うわ。どうぞ」
「お邪魔します」
アルマは三か月ぶりにラミッタと再会することになった。
季節は、新緑と陽気の晩春から濃い緑と熱気の盛夏へと転じていた。
五月に会ったとき、帰りがけに七月の竜騎士団の見学で会おうと約束をした。それなのに、ラミッタはそこに現れなかったのだ。
「あ、アルマ。どうしたの?」
ところが、久々に会ったラミッタは、拍子抜けするような反応を返した。
「この間の見学に来なかったじゃない。何かあったんじゃないかと心配してたのよ」
曇り空のせいか、裏庭は真夏にしてはたいして暑くない。湿った風が二人の間を通り抜けていく。
小さな畑があり、小麦がまっすぐに生えそろって、緑の穂を揺らしている。
その手前に、檻のように穴の開いた木箱がある。布巾でそれを磨きながら、ラミッタは話した。
「何もないけど、心配かけたなら謝るよ」
「でも、見学には来なかったよね。どうしたの」
「見学……ごめんね、約束してたよね」
「じゃあ、次は来れる?」
何気なく問いかけたのに、ラミッタはひとり言のように呟いた。
「……もう行かないと思う」
「えっ?」
「私は農場の仕事をするって、決めたから」
信じられない言葉だった。
「もう竜騎士団に入る気はないってこと?」
「うん」
淡々と答えるラミッタに、アルマは思わず声を上げて問いかける。
「この前は、また見に行くって言ってたじゃない。行かないままで、入団しないって決めてしまっていいの?」
「アルマはまだ決めていないの?」
「私は……っ」
アルマはつかえてしまう。そんな様子をラミッタはあまり関心なさそうに見てから、告げた。
「今日もこれから農場に行く予定があるの。その前にピッコの世話もしておかなきゃならないから、またね」
「……」
結局、ラミッタに忙しいと押し切られ、それ以上ろくな会話もできなかった。二か月ほど前に拾ったというヒヨコの話を、少し聞かされたくらいだったかもしれない。
アルマは、予想外のラミッタの言葉に呑み込まれて、気が動転してしまったのだ。ほとんど何もできないまま、家に戻るしかなかった。
けれど、心のなかは疑問で膨れ上がっている。
この数か月の間に一体何があったの? 見学で、あんなに楽しそうだったラミッタが、こんな簡単に竜騎士を諦めるなんて。
到底納得できない。
ラミッタは何だか変だったような気もする。どこかうつろで、何となく避けられていたようにも思える。
しばらく会っていなかったから、事情が分からない。
それなら、近いうちにまた会いに行けばいい、とアルマは思った。
息をつき、汗を拭いながら山道を上り下りしたことも、もはや記憶から抜け落ちていた。
今度こそきちんと話してもらおう。
ところが、数日後にアルマは姉のサリアからよくない知らせを聞いてしまった。
「えっ、魔物が?」
「うん。まだ魔物の姿を見たという人はいないから、確かなことじゃないんだけどね、襲われた家畜を調べると、魔物の仕業としか思えないんだよ」
「怖い話だね……」
最近、この辺り一帯の家畜が、夜間に襲われる事件が相次いでいるという。その正体ははっきりしないが、おそらく何かの魔物だろうとのことだ。
今のところ、畑を荒らされたり、柵などを壊されたり、小さな鳥などの家畜を襲う被害がほとんどらしい。付近に棲むネズミなどの小動物はよく狙っているようだが、牛や羊などの大型の家畜の被害はない。
それほど大きな魔物ではないだろうと推測されている。ただし、特定できない以上、今後どのようなことが起こるか分からない。
魔物は人間を襲うこともある。
「竜騎士団もこのところは夜間の巡回を強化しているんだ」
「お姉ちゃんも大変だね」
「全くだよ」
夜の勤務が多く入り、サリアは騎士団の宿舎に泊まり込むことも増えた。表情にはやや疲れが滲んでいる。
「今はあまり一人で遠くまで外出しない方がいいよ。どこに魔物が潜んでいるか分からないからね」
「……うん」
アルマは俯いた。
ラミッタの家は、ひと山向こうの小さな集落にある。
普段からラミッタは平気で山道を駆けているらしいが、町の平坦地に住んでいるアルマが歩いて行くにはかなり困難な道のりだ。かといって、遠回りして馬車で行くのも代金がかかってしまう。
魔物が気がかりなうちは、ラミッタを訪ねに行くとは言いづらい。しばらく様子見になりそうだ。
「ねぇ、アルマ」
姉の声に、はっとする。
「竜騎士団に、そろそろ入団しない?」
「えっ」
「アルマの年齢なら仮入団をして、すぐに入れるよ。こんな小さな町で得体のしれない魔物なんて珍しいけど、早く見つけたいと思うと、やっぱり人手が足りない気がするんだよね。ちょうど出産でしばらく休む人が二人重なったりもしていてね。団員が増えると助かるんだけど」
アルマは戸惑う。突然の話にうまく返事の言葉が出てこない。
「まあ、急に決めることじゃないよね。でも、そろそろ考えてみて」
「うん」
姉の気遣いがありがたかった。
アルマは、竜騎士団に入るつもりでいる。悩んでいるラミッタに話すのは控えているが、実のところ、竜騎士以外の職業は考えたこともなかった。
姉は十三歳で入団した。幼いころから両親とも働いていたため、二人姉妹のアルマは姉の言葉にはいつも耳を傾けてきた。
日々修練を積むことの多さや厳しさ、魔物に遭遇する怖さなどを聞いて、不安を覚えたこともある。しかし、訓練を経て竜騎士になると、パートナーになった竜に騎乗して、常に竜との絆を深めることができるのだ。
竜は賢く誇り高い。一見気難しい生き物だが、一度相棒として認めると、細やかな親愛の情を示すという。その竜とともに飛翔することの素晴らしさは何度聞かされても魅力的だった。竜の加護のおかげで、歓迎もされるし。
いずれは姉と同じような竜騎士になりたいと、アルマは望んでいた。
それでも、今すぐに、という気持ちにはなれなかった。
最初の見学で、竜に騎乗できると聞いて、全く臆せずに背に乗ったラミッタを、すごいなとアルマは純粋に思った。
黒竜からすれば小型とはいえ、赤竜は馬より一回り大きい。しなる尾も蝙蝠のような翼も力強く、慣れないうちは圧倒されてしまう。さらに、光沢のある硬い鱗に覆われており、威厳さえ感じられる姿をしている。その上で、不安定で高いところへ身を置く怖さもあるはずなのに。
ラミッタには、自分にはない勇気や行動力がある。
それにしても、ラミッタが二回目の見学のときに「私、団長に握手してもらっちゃったぁ」と嬉しそうに話したときは、さすがにその大胆さに引いた。
ジェルダ団長といえば、とても強そうで、何となく接するのに気後れしてしまうくらいに感じる。
「ちょっと変わったところはあるけど、わりと気さくな人だと思うよ」と姉は話すけれど、いきなりそんな行動に出るのは、アルマには考えられないことだった。
アルマは、自分の家が特殊なことくらい幼いころから知っていた。
母方の家系には竜の加護があるという。その力がどの程度なのかはっきりしないが、親類の多くは竜にかかわる仕事を選択している。
しかし、この町に住むごく一般の人は、農場の仕事をしている。作物の栽培や収穫、牛や馬や羊、ニワトリといった家畜の世話など、冬場以外は多忙で、小さな子どもも借りだされることはよくある。
それに対して、付近には他に竜騎士団はないため、この町の竜騎士は常に治安の維持や魔物の徘徊を防ぐために広範囲の町や村、都市までを巡っている。
この小さな町のなかで過ごす人々とは、まるで暮らしが異なるのだ。