寒すぎると笑いだすホラーな詩野さんを守ろう
いつの間にか外はすっかり冬らしくなっていた。
ずっとしばらく暖かい日が続いてたけど、クリスマスが終わると、街に吹く風には白い雪が混じりはじめている。
「寒っ!」
温かい校舎から出るなり僕は思わず叫んだ。
「寒いね、詩野さん」
隣に並ぶ詩野詩美さんは産まれて初めてできた僕のカノジョだ。
ピンクの毛糸の手袋に白いマフラーをした彼女は大袈裟なぐらいにぶるるっと震えると、自分の体を抱きしめた。
「寒い! 寒いよう!」
そう言って、僕の胸の中に飛び込んできた。
「寒いよ! 抱きしめて、ヒカルくん!」
付き合いはじめて4ヶ月。彼女は僕を下の名前で呼んでくれるようになった。
しかし僕はいまだに彼女を上の名前で呼んでしまっている。『詩野さん』と。『の』を『み』に変えるだけなのに、どうしても彼女を『詩美』なんて呼ぶ勇気が出ない。
しかし彼女は大胆だ。下校する生徒がたくさん通っていく中で僕に抱きついてきた。ふふ……。僕も抱き返しながら『ああ、俺の胸で寛げよ、詩美』とでも言おうとしたが、やっぱり勇気がない。
「だ……、だめだよ詩野さん! みんなジロジロ見てるよ!」
オロオロしながら、両腕を宙でへにゃへにゃさせながらそう言ったが、詩野さんはその小さくて柔らかい体をぐいぐい押しつけてくる。
「お願い……。抱いて」
「だ……、抱い……!?」
「わたし、寒さにめっぽう弱いの。あたためて」
「は……、はわわわ……!」
「寒すぎると不気味に笑いだしちゃうの。お願い! わたしをホラーにしないで!」
それを聞いて理解した。
詩野さんと仲良くなりはじめたのは夏だった。居残り補習を受けた逢魔ヶ時の帰り道、『怖いから一緒に帰って』とお願いされたことがきっかけだった。
その時に知ったことだが、彼女は怖がると笑いだす。しかもとっても不気味な笑い声をあげる。変わった性癖の持ち主なのだ。
まさか怖いだけでなく、寒くてもあの不気味な笑い声をあげてしまうとは……。
大変だ! 彼女を寒さで笑わせてはいけない! ただでさえ寒い冬の日が、ホラーの一場面ばりに凍りつくことになってしまう! 真冬の街をホラーにしてはいけない! 僕は彼女を守ると決めた。
でも人前で抱きしめ合うなんて、そんなリア充みたいなことは僕には出来ない。腕を組むのはおろか、手を繋ぐことだってまだしたことがないのに……。
僕は風が吹いてくる方向に立ち、壁となって彼女を守ることにした。彼女に吹きかかろうとするけしからん寒風は、この僕がすべて防いでやるつもりで。
しかし風は、あっちこっちから回り込んできやがる。僕が守っていても、回り込んで向こう側から詩野さんの体に吹きかかってきた。
「あうう!」
詩野さんが派手に震えた。
「い……、いぎぎ……!」
ヤバい! 詩野さんが笑いだしてしまう!
僕は自分の着ているコートを脱ぎ、彼女の背中にかけた。寒いけど、詩野さんを寒がらせるよりはましだ。
「あっ……。ありがとう、ヒカルくん」
そう言って僕を見上げる彼女の目が赤く潤んでる。
鼻の頭も真っ赤だ。
唇の色はなんとなく青かった。
かわいいので思わず抱きしめたくなったが、やっぱり僕は両腕をへにゃへにゃさせるばかりで、何も出来なかったのだった。
建物のある通りを歩いているうちはよかった。
そのうち周囲は田んぼや畑ばかりになり、木々も疎らになった。
寒風を遮るものが、なくなった。
「寒い!」
詩野さんが叫び声をあげた。
「寒いの! ヒカルくん! 守って! お……、おねが、ねが、ねがががが」
ガチガチと激しく歯を打ち鳴らしはじめた彼女を見て、僕は慌てた。
温めなければ! 何か、彼女を温めてあげられるものは……
「ひ……、ひひひひ!」
ああ、だめだ! 遂に詩野さんが笑いだしてしまった!
しかし周囲を確認すると誰もいない。
ここは詩野さんに笑いたいだけ笑わせて、発散させてあげればいいのではなかろうか?
よし、それがいい。防げないのなら爆発させてしまえ。
好きなようにさせると、解き放たれた魔獣のように、詩野さんが激しく不気味に笑いだした。
「ギョへ! いきききき……! あはっ! あはっ! ゴホッ! ウゴゴゴゴゴ……! どへ! ウギャギャギャギャ! ウグッ……! ウォォォオオオ……だはーーーーッ!!!」
これは『シバリング』だ! と僕は思った。激しく自分の体を動かすことで寒さに耐える、人間の体に備わった防衛機能だと、昔『トリコ』で読んだことがあった。ふつうのひとならただ激しく体を揺すったりさすったりするところ、詩野さんは変わってるから笑いだしてしまうんだ!
自分を守るように抱きしめながらその身をよじり、エノキダケが揺れるような動きを繰り返しながら、詩野さんは笑った。
僕は恐怖に目を見瞠きながら、ただ見守るしかなかった。
笑い疲れれば、そのうち止まるはずだ。
それまで、僕にはただ見守ってあげるしか出来ないと、そう思っていた。
「カタカタカタ……! ゲボギャホ! イヒーーーッ!! ひ……、ひかかかかるくん! かるかるかかかかガガガ! コチコチコチコチ……! まままままま……! アハーッ! ウヒョーッ! ウキキッキキキキ……! たたたたすすすすけけけけケケケケ! うっキャッキョーーーッ!!!」
泣いている。
不気味な大笑いをしながら詩野さんが泣いている。
助けを求めるように、その視線は、閉じられた目がたまに開くたびに、僕を捉えていた。
その涙が語っていた。
『助けて……ヒカルくん』
『助けられないのなら……わたしを……見ないで』
『こんなわたしを見ないで!』
「ウキョーッ!」
狂ったように笑い声をあげる彼女の体を、僕は思わず抱きしめていた。
詩野さんの笑いが一瞬で止まった。
不思議だ。人間の体は抱きしめ合えるように出来ている。ぴったりと重なりはしないけれど、抱きしめられると心がしっくりして落ち着くのだろう。悪魔に取り憑かれたようだった彼女がすっかり大人しくなり、その温かさが伝わってきた。
北風がヒョオヒョオと音を鳴らす田園風景の中、僕は折れそうな彼女を抱きしめ、じっとしていた。彼女の腕が、ゆっくりと僕の背中に回ってきた。
ふたりはぎゅっと抱きしめ合い、冬の寒さをこらえながら、心を触れ合わせ、温め合っていた。僕は彼女を守り、彼女がそれに応えていた。
「あったかい……」
詩野さんが正気に戻った。
「あったかいよ、ヒカルくん……」
「あったかいだろう? 詩美」なんてことは言えず、僕はただ黙って彼女の体を抱きしめていた。
そこから初めてのキス……なんてことも出来なかった。
照れくさかったからじゃない。ふたりとも鼻水がダダ漏れだったからだ。
翌日の朝、僕は風邪で40℃の高熱を出した。
それでも心は晴れやかだった。僕は詩野さんを守れたのだ。彼女に取り憑いた悪霊を祓ったエクソシストのような心地だった。
「やったぞ……」
僕は寝込みながらも、勇ましく拳を天井にむけて振り上げた。
「やったんだ……、僕は!」
冴えないクラスのモブ男子みたいだった自分が、何か特別なヒーローになれたような気持ちが僕を包んでいた。