111.命の危機?
―腕一本ろくに動かせないわ……自分では分からないけど、どこか怪我でもしているのかしら?
二度目の医務室籠りは懲り懲りだと思いつつ、どうやって学園に戻ったらいいのかと思案する。
―銀の鍵が唯一の方法だったのに。
~「逃げることが出来なければ、諦める外ない。当人も、周りの者も」
スローン先生の教えが、カトリーナの胸を締め付ける。
―諦めたらどうなるの?人魚の気まぐれで殺される?あの子に頼み込んだら、私を帰してくれるかしら?でも、あの子は急に刃を向けてきたわ。機嫌を損ねた風には見えなかったのに。
力を持つ人魚にとって、人間などなんとなく気分で握りつぶす程度の存在なのだろう。その時の気分で相手して、気が変われば……。
考えながらカトリーナは、目を閉じて深いため息をつく。今の自分では、この状況をどうする事も出来ないと悟ったのだ。
けれども、自分がこんな目に遭った理由すら知らずにいるのも癪だった。何度も、何度も巡る疑問。その答えは、カトリーナの中には全く浮かばない。
―魔法を使ってからは、絶対に誰にも屈しないと思っていたのに。
カトリーナはこの場で弱者であるという事実に、苦し紛れに小さく舌打ちをする。そんな事をしても、この事実は変わらない。
―こんな事なら、伯爵家を出る前に屋敷の人間を皆殺しにしておけば良かったわ。そしたら、心残りが一つ減ったのに。
レーム学園在籍中に命を落とせば、必ずその知らせは家族に伝わる。カトリーナの死は、使用人も含めて伯爵家に大きな喜びをもたらすだろう。特に、夫妻は目論みが上手くいって、高笑いするに違いない。
―よりによってあいつらを、良い気分にさせるなんて最悪だわ。
不快な想像に眉間に皺が寄る。
それとほぼ同時に―
「ねぇ」
たった一言。人魚の声が聞こえて、身体が強張る。いつの間にかあの心地よい歌声は止まっていた。
「目がさめたの?」
明らかにカトリーナに向かって投げ掛けられた声。水辺から目を背けているが、見なくてもわかる。彼女の歌声に魅了されたというのに、自分に向けられる人魚の声は緊張しかもたらさなかった。
―急にどうしたのかしら?さっきまで、私の事を忘れているみたいに歌っていたのに。舌打ちが聞こえた……訳無いか。
このまま忘れてどこかに行ってくれれば……という淡い期待は消え去った。どのみち動けないとはいえ、少なくとも命を取られる事は無かっただろうが、そうはならなかった。
バシャパチャバチャ……ザザァ……
ズリ…ズリ…
静かな水音の後に、地面を這う音が近づいてくる。人魚がこちらに来ているのだろうか。
―人魚って陸に上がれるの!?
カトリーナは閉じていた瞼を薄く開き、おそるおそる音の方向に首を動かす。予想通り、人魚が上体を起こした態勢で、尾ひれを引きずりながら近づいて来ていた。
水に隠れて見えなかった半身は、カトリーナの身長を優に超える長さだ。図書室に飾られた蛇に巻き付かれて、今にも食べられそうな男の絵画が思い出される。最近、ラトリエルとエステル姉妹と一緒に見つけたのだ。
―あの時は、こんな事になるなんて想像もしていなかったわ。
現実逃避の様に、友人と想い人との思い出に心を馳せる。
が、それも長くは続かない。
身動きが取れないカトリーナの元に辿り着いた人魚が、覗き込むように見下ろす。人魚の髪や睫毛から落ちた雫が顔を濡らし、反射的に目を閉じる。
「あら、ごめんなさい。わざとじゃないの」
カトリーナの頬に落ちた雫を、人魚はその辺の草を千切って拭おうとする。葉の先が肌をなぞり、地味に痛い。
「うーん。あんまりイミないわね」
人魚は千切った草を放ると、カトリーナに呼びかける。
「ねぇ、おきたんでしょう?へんじなさい」
人魚の命令に、カトリーナは素直に従う。
「はい、起きてます」
掠れた声はずっと黙っていたからよ、とカトリーナは自分に言い聞かせた。決して恐怖などではないと。
「?さっきと話し方がちがうわ。どうかしたの?」
「先程は大変失礼いたしました。どうかご無礼をお許しください」
「やめて。アタシさっきの話し方のほうがすき」
カトリーナは何と答えたら目の前の機嫌を損ねないかと一瞬考え、
「そう、わかったわ」
と答えた。
すると、人魚が顔を歪ませたのでカトリーナは心の中で
―さよなら、デイジー、エイミー。そして、エル。
と大事な人たちに別れを告げた。
お読みいただきありがとうございます。
次回も読んで貰えると嬉しいです。
よろしければ評価★★★★★や、ブックマークをお願いいたします。




