109.人魚姫の魅了
歌声が聞こえる。
心地の良いその声は、どこまでも優しく、安らぎでカトリーナを包みこんでいく。
気が付いた時、視界は黒だった。
黒と言っても、真っ暗では無い。点々と粒が見える。
目を瞑っているのだとわかったが、瞼を開こうにも、何故かどうしても重たくて開く気になれない。こんなにも暖かで気持ちいいのだ。起きなくたって構わない。
―どこかで聞いたことある様な……ずっとこのままで居たいわ。でも、起きなくちゃ……今日くらいは休んでも良いじゃない。
今の状況を把握しようとする時分と、安らぎの歌に浸りたい自分とがせめぎ合う。そして、後者の方が強かった。聞こえてくる歌声が、カトリーナの不安と疑念を溶かしていくのだ。
カトリーナは目を閉じたまま、歌声に耳を傾ける。こんなにも優しい歌を誰が歌っているのだろう。そんな好奇心すらも直ぐに溶けて無くなっていった。
何もかもがどうでも良い。いまはただ、この声をずっと聴いていたい。
夢心地な気分で聞き惚れるカトリーナだったが、不意に寒気がして自然と身体が震えた。その振動で意識が覚醒するも、それを煩わしく感じる。
―最悪。せっかく気持ちよく微睡んでいたのに。
目を閉じたまま耳を傾けるも、興が覚めてしまった。先程までの心地よさが戻ってくる気配はない。
―どうしてこんなに冷えるのかしら?さっきまでは逆に暖かかったのに……いや、そういえば、私ずっと冷たい水に浸かっていたわ。どうして忘れていたんだろう。制服も濡れているのに。
歌に溶かされていた思考がどんどん湧き出て来る。
濡れた制服が肌にへばり付いて、体温を奪っていく。凍えはしないが、初夏の季節には肌寒い。
―まだ、ぼんやりとしているわ。このまま眠ってしまいそう。
耳には未だ、魅惑的な歌声が届いてきて誘惑に負けそうになる。眠気も襲ってきた。そのせいで、起き上がれない。ウィンターホリデーの朝と似ていると、カトリーナは思った。
―とりあえず状況を整理するのよ、カトリーナ。
自分で自分を言い聞かせるように、今日の出来事を振り返る。
―確か……校長室に呼ばれて、海に行ってくれと言われて……それから、小さな女の子みたいな人魚が……
豊かな髪と金色の瞳の美しい人魚。瞳を三日月の様に細めて、こちらを見つめる幼い顔立ち―鋭い爪と、人間の子どもを握り潰せる水掻きのついた手。
カトリーナはハッと目を見開く。勢いで開けた視界には、木々の若葉が広がっていた。葉の間から漏れる日の光が、キラキラとこちらに落ちている。少し顔を横に向けると、短くもピンと伸びた夏草が、頬を擽った。
その先の水際で、件の人魚が歌いながら小さく回遊しているのが見える。
―あの子の声だったのね。
自身の脅かす存在を目にしたというのに、カトリーナは恐怖では無く安心感を覚えた。心和らぐ声で歌う幼い人魚は、やはり神秘的で美しかった目を奪われる。
―駄目だと分かっているのに、やっぱり惹かれてしまうわ。
人魚から目を逸らしたくても逸らせない自分に、カトリーナの理性が警報を鳴らす。
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