108.幼い人魚姫
「あなたは誰?」
溺れかけて乱れた呼吸を整えながら、カトリーナは尋ねた。
自分をここに連れてきた、神秘的で愛らしい者の姿に、改めて目を向ける。
水掻きのついた手には、小さくも鋭い爪が尖っていて、ザラザラとした鱗は、日光に反射して所々が虹色だ。顔立ちは人間に近いが、両頬には鰓が2本ずつ曲線を描いている。
どう見ても人間ではない。
―人魚だと思うけれど、私には人間以外の知り合いは居ないわ。
ホルムクレンには先住民である「森の住民」や「海の住民」と呼ばれる存在がいるが、殆どを学園で過ごすカトリーナは出会った事が無い。大半は精霊や獣人族だが、今は関係ないので割愛する。
カトリーナの問いに、幼い少女のような人魚は、金色のまんまるとした瞳を細めて
「ヘンなことを聞くのね」
と愉快そうに言った。
「アナタがアタシをここに連れてきたのに」
フフッと笑い、三日月を思わせる目を向けられて、カトリーナは落ち着かない気持ちになる。
「私が?」
人魚の言葉に全く心当たりがないカトリーナは、首を傾げる。
―私じゃなくて、貴女が連れてきたんじゃない。
校長室からここに転移したのは、目の前の人魚だ。なのに、カトリーナが連れてきたとはどういう意味だろう。
「そんな覚えは無いわ。私、貴女とは初めて会ったもの」
それに……
「人魚を見たのも、今日が初めてよ」
そう言うと今度は「アハハ」と笑われる。
「いがいと察しがわるいのね。まぁ、いいわ。おしえてあげる」
人魚はカトリーナを抱き上げて仰向けになると、抱きしめるようにしてカトリーナを支えた。水から揚がったカトリーナの身体は、風による肌寒さと、日の光による暖かさの両方を感じていた。
か弱そうに見えた人魚の思わぬ力強さを見て、カトリーナは少し驚く。まさか、自分が抱き上げられるとは、思ってもみなかったのだ。
―私よりも小さくて、幼いって思っていたのに。
水に浸かっていた時は分からなかったが、人魚の体長はカトリーナよりも圧倒的に長かった。美しい尾ひれは観賞魚の様で、水面の近くでゆらゆらと揺れて、たまに静かな水飛沫をあげる。
「重くない?私、最近太ったの」
人魚と向き合う様に抱えられたカトリーナは、少し心配になって尋ねる。
カトリーナよりも大きく力強いとはいえ、人魚の身体や腕は細く、尾ひれに向かうにつれて薄くなっている事に気が付いたのだ。
「アナタくらい大したことないわ」
力自慢をするかのように、人魚はまた、カトリーナを抱き上げる。腕の長さのせいで、カトリーナはうつ伏せのまま、つま先立ちの状態になった。
―痛くないのかしら。私の足、この子に刺さるんじゃないかって程真っすぐだけど……
カトリーナの心配を余所に、人魚は得意げにケラケラと笑っている。
人魚の顔を見降ろすカトリーナに、人魚はいたずらっぽく目を細めて、両手に力を入れた。
「アタシはまだ子どもだけど、アナタのからだを握りつぶすくらいカンタンなのよ」
人魚の爪がカトリーナの両脇に軽く食い込み、カトリーナの危機感が警報を鳴らす。全身が逆立つような恐怖が、考えるよりも行動を優先させた。
「風よ、舞え!」
咄嗟に詠唱を唱える。
初歩的な風魔法だが、カトリーナの魔力なら立っている事の出来ない突風が生じるはずだった。
が―
「ふふふ。ざんねんでした」
風は少しも起きなかった。荒れるはずの水面は穏やかで、人魚の身体が当たる度にチャプチャプと音と立てるだけだった。
「アタシに風はきかないのよ。おとうさまの加護がつよくてね」
そっと降ろされ、また向かい合う状態で抱えられる。
完全に命を握られた状態に、カトリーナはここで初めて人魚を警戒した。
敵わないなら逃げるしかない。
―困ったわ。銀の鍵を使うにも、ポケットの中だし。
どうやって逃げようかと思案するカトリーナに、人魚は傷ついた顔をする。
「ごめんなさい。アナタをこわがらせるつもりは無かったの。だから、にげないで」
言い当てられたカトリーナは、心臓の音が強くなったのを感じた。
―人の心が読めるのかしら?
そう思ったカトリーナだが、実際は、考えが素直に顔に出ていただけだった。いつの日かイヴに指摘された顔に出やすい癖を、カトリーナは、まだ直せていなかったのである。
心を読まれたと思って、ますます表情の強張るカトリーナの様子に、人魚は金色の瞳を潤ませた。
「もういじわるしないわ。ゆるしてちょうだい」
まるで捨てられた仔犬のようになってしまった人魚に、カトリーナは警戒しつつも可哀想に思った。
―なんだが、落ちつかないわ。このまま泣かれてしまったら、罪悪感で死んでしまいそうよ。
カトリーナは泣き止んでもらおうと口を開けたが、言葉は紡げなかった。
人魚がカトリーナを逃がさない様に抱きしめたのである。
鼻と口が水に当たり、息がしづらい。
―顔、顔だけでも離れなくちゃ。
必死に身じろぐカトリーナに、人魚はまた悲しそうな声で「きらいにならないで」とカトリーナの後頭部に手を当てて自身の方―水面へと引き寄せた。
―逃げないわ。息を吸わせて!苦しい!!
そう叫んだカトリーナだったが、実際は、
「にげ―……き…て……い」
という弱弱しい声で、残念ながら人魚の耳には届かなかった。
こぽこぽこぽこぽ……
口から洩れる空気の音と、人魚の縋る様な声を聴きながら、カトリーナは意識を手放した。
お読みいただきありがとうございます。
次回も読んで貰えると嬉しいです。
よろしければ評価★★★★★や、ブックマークをお願いいたします。




