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短編 文芸

男は歩き続けていた。

歩き始めたのが、いつであったかも忘れるほど長い間、男は歩いていた。

道が続く限り、歩を進めるしかないのだというように。

目的もなく、何を求めるでもなく、ただただ亡霊のように。


道ゆく人は、男のことが見えていないかのようであった。

見えていたとしても、気味が悪いとでもいうかのように目を逸らした。

そのような周りの視線も、男は気づいていなかった。


男の中にあったのは、虚無だけであった。

朧げな過去の記憶も、男が歩き続ける理由にも、足を止める理由にもなりはしなかった。

それでいて、過去はやはり、男の背にしがみついて、男が忘れることを決して許しはしないようだった。


ある日、男は道端に倒れていた。

降りしきる雨の中、濡れた服が体温を奪っても、助けを呼ぶこともなく。

男のそばを、何台もの車が飛沫を上げて通り過ぎて行った。

車が跳ね上げていった泥水に濡れても、男は何も思わなかった。


長いこと、暗い空を見上げていた男のそばに一台の車が停まった。

運転席から降りてきた男 ー彼ー は、傘を差して、恐る恐る男に近づいた。

彼は、得体の知れないものを見つけてしまったかのように、ゆっくりと、近づいた。

彼は見つけたのが人だとわかると、駆け寄って、男に声をかけた。

男が反応しなかったので、彼は男が死んでいるのかと恐ろしくなり、車に戻って立ち去ろうかと考えたが、男の目が開いているのに気づくと、恐る恐る覗き込んだ。

車のライトの影の、さらに夜が濃さを増したその場所で、確かに彼は男と目が合ったのを感じた。

男の闇を覗き込んだような瞳に、一瞬ぞくりとした寒気を感じたが、彼は首を振り、男を自分の車に乗せた。

男は抵抗することはなかった。


車が停車しても、男は後部座席に横倒しになっていた。

彼が扉を開け、男を車から担ぎ出してようやく、壊れた操り人形のように体を動かした。

彼は男の濡れた服を脱がせると、体を拭い、ベッドに寝かせた。

男が目を開けたまま天井を見ているのに気づくと、彼は手でそっと男の瞼を閉じさせ、部屋を出ていった。


彼が部屋から遠ざかると、男は目を開けた。

男は先ほど彼がそうしたように、瞼の上に掌を乗せ、そして目を開けて掌を見つめた。

(人に触れたのはいつぶりであろうか)

男には、もはや日付の感覚はなかった。

季節の移り変わりも、月日が過ぎていくことも、男にはわからなかった。


人の活動する気配に目を開けると、彼がコップとお椀を持って、扉を開けたところだった。

「食事は必要ない」

彼は男が話したことに驚き、そして、その内容に驚いた。

「必要ない?」

男は頷いた。

「食べたくない、とかじゃなくて?」

男はまた、頷いた。

「そっか」

彼はそれだけ呟いて、水の入ったコップだけを置いて部屋を出ていった。


男がぼんやりと天井を見つめていると、彼が戻ってきて、ベッドのそばの椅子に座った。

「ねぇ、どうして、あそこに倒れていたの?」

彼は世間話をするように男に尋ねた。

「何かに躓いたのだ」

男は答えた。

「何に躓いたの?」

彼は聞いた。

「何かに」

男は答えた。

「わからないの?」

彼は不思議そうに尋ねた。

「ああ、見えなかった」

男はまた、答えた。

「ふ〜ん」

彼はまだ不思議そうな顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。

「いつからあそこにいたの?」

彼は別の質問をすることにした。

「いつからであろうな」

男は答えた。

「それもわからないの?」

彼はまた不思議そうな顔をして言った。

「ああ」

男はやはり、天井に目を向けたまま答えた。

「ねぇ、どうして僕を見ないの?」

彼は尋ねた。

「私は前を向くしかできないのだ」

男は彼を見ることなく答えた。

「そうなんだ、不便だね」

彼は言った。

「そうかも知れないな」

男は答えた。

「ねぇ、あそこで倒れるまではどうしていたの?」

彼は気を取り直して尋ねた。

「歩いていた」

男は答えた。

「どこに行こうとしていたの?」

彼は聞いた。

「どこにも」

男は目を閉じて、それから答えた。

「じゃあ、何のために歩いていたの?」

彼は心底不思議だという風情で聞いた。

「何のためでもない。ただ前を向くしかできなかったが故に」

男は答え、そして目を閉じた。

「ふ〜ん」

彼は関心を失ったようだった。


それから、男と彼の奇妙な共同生活が始まった。

共同生活といっても、男は寝室に篭ったまま、彼らが接触するのは、彼が仕事に行く前と寝る前、男の枕元に訪れてポツポツと話をする時だけであった。

男はベッドに寝たきりで、食事も取らず、それでいて衰える様子もなかった。

彼はそんな男の元に来ては、思いついたことを話していった。

何も話さず、ただ椅子に腰掛けているだけの時もあった。

男は、彼がくるときは必ず目を開けていて、彼を見遣ることはなかったが、質問されれば返事を返した。


そんな日々がどれほど続いたのか。

彼が、仕事を退職し、少し呆けてきて、それでも男と彼の共同生活は続いた。

彼は頭部が薄くなり、皺が増え、動作がゆっくりになった。

今では、男を支えることはできないであろう。

対して、男は、何1つ変わっていなかった。

寝たきりで、食事も取らず、衰えることも、老いることもなかった。

男だけが、取り残された時間の中にいるようだった。


ある日、彼の心臓が動くのをやめた。

幾日か経って彼が発見された時、寝室のベッドは、一度も使われたことがないかのような整然とした様子で残されていた。

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