失恋した夜
結婚も考えていたのに。
気が付いたときには、全てが遅かった。
「だってえええええ、私のこと、好きって言ってくれたんだよおおお!」
度数の高いアルコールを胃に流し込み、吉乃は叫んだ。
静かな音楽が流れるバーで吉乃の声は大きく響く。
他の客から迷惑そうな視線を向けられるも、彼女は一向に気付かない。
見かねて酔い覚ましに水を持ってきた忍は、深くため息をついた。
「だから言ったろ? なんか怪しいからやめとけって」
「だってだってええええ!」
水を忍から奪い取り、酒の如くぐいっと一気飲み。
忍は呆れた眼差しを向けながら、これ以上騒がないよう、吉乃をどうどうとなだめた。
「だって、初めて会ったときちゃんと名刺くれたし、いつだって優しかったんだもん。優しくしてくれたんだもん……。――マスター、カルアミルクください」
苦笑し、マスターは頷いた。
酔っぱらいの愚痴を延々と聞いている忍に、一瞬、気の毒そうな視線を向ける。
出来上がり、目の前に出されたそれを吉乃は一気に煽った。
「ばか、一気に飲むな!」
忍がグラスから引き離そうとするも、半分以上が胃の中に消えていた。
取り上げられたグラスと忍を恨めしそうに見ながら、吉乃はカウンターに突っ伏する。
「私の事を好きって言ってくれたの。お母さんの手術が終わったら両親と親戚みんなに紹介するからって。もうちょっと貯金が貯まったら結婚しようって。指輪も買ってくれたんだよ……!」
「その指輪だって、宝石商の友達に偽物だって言われただろ?」
「はっきり言わないでよ! 確かにガラスって言われたけど!」
静かに涙を流し始めた吉乃に、忍は「ならわかってんじゃん。騙されたんだよ」と言い放った。
「……傷を抉らないでよおおお!」
本格的に泣き出した吉乃に、再び迷惑そうな視線が集まる。
「ほら、後で好きなだけ泣いていいから今は泣き止め。店出るぞ」
「忍のばかあああ! なんでそんなにドライなの! もっと優しくしてもいいじゃないの!」
泣き続ける吉乃を引っ張り、忍は頭を下げながら店を出た。
ほんとに好きだったの。
忍の家に向かうタクシーの中で、吉乃がぽつりと言った。
「私って、もう三十路目前なのにずうっと女子校だったからか彼氏出来たこと無かったし、喋るのも上手くないし、それなのに好きって言ってくれたんだよ。たかだか落としたハンカチ拾っただけなのに、無視しない優しさが素敵ですって。好きですって。私を好きになってくれる人なんて初めてで」
「――うん」
「初めてだったの。好きって言ってくれたのも、好きになったのも」
「うん」
はらはらと、吉乃の頬を伝い涙が落ちていく。
忍は投げ出されるようにされた吉乃の手を握り、ただ、聞いていた。
「家族に紹介するって聞いた時は嬉しかったし、お母さんが手術するって聞いた時は支えようって。彼のサポートがしたくてお弁当作ったり、家事したり。でも、全部、浮気相手とデートするためだったんだって。私がアイロン掛けたシャツ着て、デートしてたんだって」
「うん」
「私は家政婦みたいなものだったんだって……!」
「うん……」
握っていた手を放し、忍はそっと吉乃の肩を引き寄せた。
泣き疲れて眠った吉乃をおんぶし、片手で家の鍵を開ける。
靴を脱ぎ散らかし、ベッドへ一直線に向かった。
眠ったままの吉乃を横たえ、忍はほっと息をつく。
起こさないよう静かにクローゼットを開け、部屋着を手に風呂場へ向かった。
酒でほんのり火照っていた体を、冷たいシャワーで冷やす。
「初めて好きになってくれた、ね」
ギリ、と強く唇を噛みしめる。
ずっと女子校だったのも、彼氏が出来ないと悩んでいたことも、告白されたと喜んでいたことも、結婚するかもと幸せそうに笑っていたことも、全部知っている。
――全部、知っている。
肌を刺すシャワーの冷たさに、思考は次第にクリアになっていく。
「なにしてんだろーな、俺」
金曜の夜を、傷心の酔っぱらいの介抱に捧げて。
体が寒さに震えはじめ、ようやく水を止めた。
タオルで体を拭き手早く着替える。
「しのぶ……?」
ぼんやり間延びした声に、忍は起きたのかと吉乃に近付いた。
「風呂入ってた。起きれるか?」
「……私もお風呂はいる……、ふく、ぬぐ」
「はいはい」
「ぬがせてえー」
「馬鹿言うな、俺は男だぞ」
「えー」
ケラケラと吉乃が笑う。
「だって、しのぶ、おとうとじゃん」
そうだよ。弟。
わざわざ酔いつぶれた姉を介抱してやる、弟。
「はやくぅー」
「血は繋がってないんですよ、オネエサマ」
「ごさいからきょーだいやってればかんけーないでしょ」
へらへらと笑う吉乃が、忍にはひどく残酷に見えた。
「やっぱいーや、眠くなっちゃった……」
言うや否や、吉乃から寝息が聞こえてくる。
むにゃむにゃと寝言をつむぐ唇を、忍はそっとなぞった。
「きょーだい、だもんな……」
二人の両親が再婚し、姉弟になったのが二十年と少し前のこと。
「あー、俺ってヘタレ」
――私を好きになってくれる人なんて初めてで。
脳裏に吉乃の声が蘇る。
「俺だって、ずっと思ってたよ」