乳ガンがわかって1ヶ月ですが、場面緘黙歴は36年です
もっちゃん。
まーちゃん。
えみちゃん。
そして、妹。
時々、かずみちゃん。
時々、あけみちゃん。
私の幼馴染です。
遠慮なく互いの家に出入りし、みんなの家をつなぐ円をかくと、その中心になるお宮さん(八幡神社)と敷地内の公園であらゆる遊びを繰り広げ、毎日おもしろおかしくやっていました。
たのしい日々は突然、終わりを迎えます。
私の幼稚園入園です。
実は、私の幼馴染は全員年下、時々遊んでくれるかずみちゃんとあけみちゃんはずっと年上でした。
幼稚園という知らない場所、知らない子どもや知らない大人に囲まれて、私は困って、どうしていいかわからなかったのだと思います。
わからないので、じっとしている、しゃべらない、しゃべれない。
場面緘黙です。
NHKハートネットTVで場面緘黙を取り上げられたこともあり、ご存知の方もおられると思います。
私は診断されたわけではないので、もしかしたら本物(?)の場面緘黙ではないかもしれません。
30歳辺りでしょうか、たまたま場面緘黙という言葉を知りました。
特定の場所でしゃべれなくなる。
家の中では問題ないことが多い。
大きくなったら軽減することがある。
これだ! と自分の幼少時の苦しみの理由を見つけて、楽になった気がしました。したいけどできない、しないといけないけどできない、どうしていいのかわからない状態で悩むより、名前のついた箱に収まる方が精神的に落ち着きますよね。
※場面緘黙については「かんもくネット」ホームページに詳しい。私は一時期入り浸っていました。
幼稚園時代は一言もしゃべらなかったらしいです。
今、長女が幼稚園年長でして、たくさんの歌をうたい、劇の発表をし、誕生会ではインタビューを受けることもあるようで、どう考えてもしゃべらずにやりすごすのは難しい。私にとっては毎日が針のむしろ、もはや地獄のような環境で2年間もよくがんばったものです。現在のように3年保育じゃなくてラッキーでした。
小学生になると、授業中、手をあげて発表し、もちろん歌もうたいます。
自分だけしか手をあげていない状況でも、あげなきゃいけないとわかっていても、体は動かない。歌も口パクです。
クラスメートたちはだんだん、私の態度に疑問を持ちはじめます。
なんでしゃべらんの?
うたってないやろ。
「あ」てゆうてみ。
気にかけてくれる子もいました。
幼稚園時代は、かずやくん。下駄箱でじーっとしていた私の手を引いて毎日教室に入ってくれたらしいです。残念ながらその場面は記憶には残っていませんが「やさしくて好き」、初恋の相手です。
小学校で覚えているのは、よこはまさん。校外で写生の授業があった日に、じーっと立っている私に声をかけて、一緒に行ってくれました。とっても嬉しかった。
友達がいないのを誤魔化すために、休み時間はずっと本を読んでいました。でも花いちもんめをした記憶があるので、誰か声をかけてくれたんですね。
年子の妹は、私にとって外への扉となってくれました。同級生に友達がいないので、妹の友達と遊んでいたのです。彼女らは下級生なので、私の教室での姿を知られていないというのも重要でした。妹が友達を連れてくるのがたのしみだった。特に覚えているのが、きゆ、なみちゃん。妹と一緒に、自転車でその子たちの家に行くことも多かったなあ。
当時の私は、体に鍵がかかっているような状態でした。もっとビジュアル的にいうと、鎖ががんじがらめに巻きついていていて、南京錠をかけられている感じです。
鍵は他の子なんですね。
鍵になってくれた子たちのおかげで、小学中学年辺りからは多少しゃべっていたと思います。
大学でスキー合宿に参加した時、初対面の男の子と一対一で自己紹介し合う機会がありました。そこそこ自然に会話ができました。不信感は持たれなかった…と思う。
私は会話できる!
成功体験です。
それで私の場面緘黙物語は終わるとよかったんですが、歌が残っています。
40歳になった今でも身内以外の前で歌えません。別に音痴でも誰も気にしない、とわかっていても、口は開きません。
一度だけ、そうとうの圧力をかけられて絶対歌わないといけない状況に陥った時、歌ったことがあります。あれほどの屈辱、あれほどの敗北感、無力感は味わったことがない。私は人が歌うのを聞くのは好きだったんですが、もう決してカラオケには行くまいと悲しみながら決心したのでした。
もう一つ、これも場面緘黙じゃない? と私が思うのが、パソコンやスマホ、手紙など「対面しない対話」です。
メール、ショートメール、LINE、Twitter、フェイスブック、手紙、小説の感想欄、色々ありますよね。
まとめてメールとします。
相手が私を否定するかもしれないメール。
私が傷付けたかもしれない相手からのメール。
たった一クリック、一タップが、雲にも届くような巨大な鉄門のように感じます。何日も悩み、ボタンを押しかけては手を引っ込める、最終手段は人に開けてもらって代読してもらう。
これにも対処法があって「来たらすぐ開ける」。開けてみたら、たいていどうってことない内容です。わかっていても難しい。今でも難しい。
長々と個人的なことを書いてしまいましたが、ぜんぶ前置きです。
当人としては本当に苦しい、どうしようもないことでも、集団で生きるヒトが存続するために必要な個性なんだろうな、というのが、今回の言いたいことです。
なにかあったらすぐとんでゆく人。
なにもなくてもうろうろしている人。
なにかある前から、なにかあると思っていた人。
安全を確かめてから行動する人。
誰かに言われて、従う人。
大勢が同じことをするから、自分もそうする人。
大勢が同じことをするから、あえて違うことをする人。
やっぱり引き返す人。
途中でとまる人。
困っている人を助ける人。
危機的状況でもじっとその場を動かない人。
人間の動向でなく、動植物の動向を見ている人。
なにかあった時、誰が生き残れるかわからない。
だから、誰かが生き残るようにする。
そのために様々な脳のパターンが作られていて、グラデーションでパターンの端がぼやかされながら、それぞれが一定の割合で発露される。一人だけ生き残っても意味がないですからね。
つまり、人類存続のためには、どんな人も必要なのだ、と私は思っています。
最近でいうと、引きこもりの人は、来るべきコロナのために部屋を出ない選択をしていたのかもしれない。
私のように動きが抑圧されている人は、動かないことで生き残ろうとしている。
だから現状を我慢しろというわけではなくて、この生き方には意味があると理解しながらくらしていきたい。もちろん生きにくいし、その人の持っている能力が隠されてしまっているから何かと不利です。なんとか対処法を見つけて、人に助けてもらいながら、同時に自分の脳パターンのことも大事にしてはいけないものだろうか。
乱暴な考え方だと眉をしかめる人もいるでしょうが、私はこう思っています。
みんな大事。
みんな必要。
あなたも必要。
私も必要。
次回は、
「乳ガンがわかって1ヶ月ですが、BL執筆歴は25年です」
をお送りします。
化学療法室にて、初めての抗がん剤の点滴(抗がん剤って点滴なんですよ!)を受けながら書いています。
すごいんだよ。
スマホOK。
Wi-Fi完備。
飲食OK。
テレビからワイドショーが流れてきます。
薄暗い個室かと思っていたら、カーテンで仕切られているだけで、ベッドとリクライニングシート的な椅子が並ぶ広くて明るい一室で、カーテンも完全には閉められていないのでお互い丸見え、もちろん会話も筒抜けです。
私のベッド(初回はベッドらしい)はカーテンも開けっ放しという。
開放的~。