第48話 最後の境界
頭の中が、冷水を浴びせられたように冷え切っていくのが感じられる。先程まで感じていた怒りも、戸惑いも、どこかへと飛んでいってしまった。
「そうか……。望みの為、人の身を捨てたのか……」
出てきた言葉は、ただそれだけだった。
非難するつもりにすらなれない。ただただ、目の前の少女が、自分とは別の存在になってしまったという事実を痛感し、これから行わなければならない事に、心を痛めるだけ。
彼らは変わってしまった。そして、俺もまた変わった。
「俺は、全てを終わらせて平穏に暮らす事が“望みだった”」
「……」
「だが、それももう叶わぬ夢だ。お前の言う通り俺がやろうとしてたのは、安寧とした堕落だったのかもしれないな。でも俺はそれで良かったんだ。自分の手で作り上げた平和な世界で、剣でも教えながら皆と暮らせていれば、それで良かったんだ」
ここが境界線だ。今の俺にははっきりと分かる。
彼女は……今や変わり果ててしまったリリィ・アルクティクムは、それでも尚“教会”の枢機卿だ。人々の信仰の対象だ。
それを殺す。殺すと決めた。“奴ら”とも、そして人の世界とも、これから俺の歩む道はここではっきりと分かたれる。
別れの時だ。
「お前にこの“鍵”は渡せない。渡す気も無い。欲しいのなら、俺を殺して奪い取れ」
「……ええ、そうしましょう」
その時、頭上が黒い影に覆われる。
何が来たのか、何が起きるのか、俺にはすぐに分かった。
そして、彼女が姿を見せたという事は、アルカノーアは助け出されたという事だ。
頭上の巨大な存在は羽ばたきながら、その存在を誇示するかのように唸り声を上げる。
どこまでも響き渡るその声が、俺の耳の奥にこびり付いていた『声』を削ぎ落とした。
その間も、リリィの黒い眼はロレッタではなく、俺へと向けられ続けている。
俺が、剣を抜いた事が合図となった。彼女の操り人形と化した騎士達もまた同じように武器を構える。
「行くぞ、リリィ」
彼女は答える事無く、虚空から己の得物を取り出し、答えた。
見慣れた武器だ。彼女の魔力を増幅させる為のスタッフ。
ただ、その姿は今や見るに耐えないほどに黒く、歪みきっていたのだが。
俺は迷うこと無く、正面から突っ込んでいく。
彼女の周りの騎士が襲いかかろうとする。だが、彼らをロレッタが放つ炎の奔流が飲み込んでいく。
だが、炎の中で平然としているリリィの姿が見える。
そこへと、俺は突進する。
そして、首を狙い、剣を振るう。
初撃は彼女のスタッフによって防がれたが、俺は矢継ぎ早に攻撃を繰り出し続ける。脇腹、腰、腹部、頭部。フェイントを交えながら。
だが彼女は、口元に微笑みを湛えながら俺の攻撃を捌き続ける。そう、剣士でも無い彼女が俺の剣戟に付いてきているのだ。息一つ切らすことなく、平然と。
“眼”の力である事は間違いない。
あの眼が持つ力を想像する。攻撃を予測しているのか?
釈然としない。彼女が求めるような、“眼”がその程度の力である筈がない。
「アレが貴方の新しいお仲間ですか」
まだ頭上で羽ばたき、火炎を振りまいているロレッタの事を指し示しているのだろう。
「俺のカミさんだ、おっかねえぞ」
「随分と素敵な方を伴侶にしたのですね」
俺の言葉を聞いてリリィは苦笑する。旅の途中で見せたように。
しかし、その微笑みとは裏腹に、彼女の体内の魔力が増大していくのが感じ取れる。
来る。
「ルアーク・イェル・ハイム」
呟くように、彼女は魔法の名を告げた。神の嵐と言う意味の名を持つその魔法は、光魔法の中でも最大級の威力を誇る。
彼女を中心として集束して行く魔力が、ある点で爆発し、様々な色と、属性を持った嵐の様な魔力が船上に吹き荒れる。
俺の体を、様々な属性を帯びた魔力の刃が切り裂いていくのを感じる。相変わらず無茶苦茶な魔法だ。敵も味方も区別なく、ただ吹き飛ばし、切り裂く。
更に時間を掛けて詠唱を行い、幾重にも魔力を増幅させれば周囲一帯は跡形もなく切り裂かれるだろう。
だが、俺は魔力の暴風の中を進み続ける。狙うはただ一つ。
痛みを振り切り、嵐を抜け、彼女の眼前へと現れた俺は剣を振りかぶり――
「無駄です。貴方が“そうする“事は分かっていました」
俺の攻撃は、リリィへは届かない。剣は、彼女の体から滲み出した黒い何かに絡め取られた。
彼女は勝ち誇ったように笑った。
「神の御下へと往きなさい」
「ああ、お前がな」
俺の言葉の後、リリィの笑みが初めて消えた。
お読み頂き、ありがとうございました。
次回で決着です。