第35話 おっさんの変装
「おはよう、グリン様!」
グリンの部屋の扉が突然開け放たれ、ズカズカとアルカノーアが踏み込んでくる。
「ったく、アイツは」
「随分と好かれているじゃないか。子供にはモテるのだな君は」
「……そうだな」
苦笑しながら、俺は部屋へと戻る。
「おはよう、アルカノーア」
アルカノーアは早朝だというのにしっかりとめかし込んでいた。寝間着姿で髭も伸びた俺とは大違いだ。
「階下に朝食の準備が済んでおる、グリン様」
「わざわざすまんな、アルカノーア。ロレッタにも伝えてやってくれ」
俺がそう言うと、少し不満げな顔を見せたが、渋々従った。
朝食を終えた俺の所にやって来たのは、アルカノーアの秘書、カロリーヌだった。
「グリン様、少し宜しいでしょうか」
「ああ、どうした?」
「こちらへ」
有無を言わせぬ様子で俺を先導するカロリーヌ。彼女が俺を招き入れたのは、衣装室らしき一室だった。
カビ臭い匂いが少し漂い、随分と大きな鏡台が置いてある。
「こちらへ」
カロリーヌは鏡台の前の椅子へと俺を招く。渋々座ると、彼女は背後の棚からシーツの様な物を取り出し、俺に被せる。
「グリン様、今から少々髪型などを含めて手を入れさせて頂きます」
唐突な発言だった。散髪してくれるという事だろうか。だとしたらありがたいが、それだけが目的ではあるまい。
「何が目的だ?」
「グリン様は余りにも顔が知られすぎて居ます。おそらく、この世界の人間であるならば貴方の顔を知らないという人間の方が少ないでしょう」
「まあ、そうだろうな」
「ですので、今から私がグリン様を別人に変身させます」
そう言ってカロリーヌは次々と化粧品やら奇妙な小瓶やらを取り出し始める。
そして、その中の液体やらクリームやらを俺の顔に次々に塗りたくり始める。
それに合わせて髪にも手を入れられ、当然無精髭も全て剃り落とされる。
全てが終わる頃には、文字通り別人になった俺が鏡の前に居た。
「これが……俺か……?」
鏡に映っていたのは、褐色の肌をした数歳は若返った血色の良い快活そうな男性だった。
これならたしかに西方から流れてきた謎の剣士というアルカノーアの言い分通りの人間に見えるだろう。
「泳いだりしなければ大丈夫だと思いますが、一応食事などの際にはお気をつけ下さい」
カロリーヌは手を拭きながら言う。兵士たちを軽々と一掃した戦闘センスといい、この技術といい、随分と出来の良い娘さんのようだ。実に感心。
この姿をロレッタとアルカノーアに見せると、ロレッタは笑い、アルカノーアは困惑の表情で俺を見た。
「ククッ、随分と男前になったな、君は!」
「誰かと思ったら、グリン様か! まるで別人じゃの!」
この様子なら、俺だと気づかれる事は無いだろう。恐らく。
その予想通り、俺は顔を晒しながら外を歩いても、気づかれる事は無かった。
流石に有名人であるアルカノーアに街の人々の視線は集まるが、その横を歩く俺は道端の石程に気にも留められない。時折、怪訝そうに俺の顔を見る人間も居るが、それは恐らく俺の今の肌の色を見ての事だろう。
「グリン様、度胸試しをするつもりはあるかの?」
唐突にアルカノーアは言う。
「度胸試し? 何をするつもりだ?」
俺がそう問い返すと、彼女はある建物を指し示す。それは、クリーンポート地区の一角に聳え立つ教会。
それだけで、俺は彼女が何をしようとしているのか理解した。昨夜の事を直接教会の人々に問いかけに行こうとしているのであろう。
「アルカノーア様!」
「構わぬじゃろうが、カロリーヌ。それともお主は自分の行った変装に自信がないというのか?」
「それとこれとは話が別です!」
カロリーヌが怒る気持ちも分かる。もし、俺の正体がバレたとしたら、昨日の一件とは比べ物にならない程の騒ぎになるだろう。
「じゃが、そのリスクを取る価値は十分にあると思うぞ、幸いにもあのリリィ枢機卿はここには居ない」
その名前を聞いた途端、背筋が凍るのを感じた。
「ちょっと待て、今なんて言った?」
しまった、と口に出さなくても分かる表情をしているアルカノーア。しどろもどろになりながらも、何かを言おうとしている。
「あのう……、その……、今のは……」
「私が説明します」
カロリーヌがアルカノーアを庇うように前に歩み出て、俺に対して向き合う。
「貴方を陥れた“五人”の内の一人、リリィ・アルクティクムは確かにこの都市の近くへと現れています。現在は“大海の都”の領土外のガラント遺跡に陣を貼っています」
「……くっ」
「グリン」
怒りに震える俺の手を、ロレッタが握りしめる。俺の目をじっと見据えながら、自制するように則している。
分かっている。今はまだ手を出す時ではない。魔王として、“奴ら”と対峙する時は来る。
それは分かっている。それでも、やりきれない思いだけが残る。
「行くぞ、アルカノーア」
「えっ!?」
「教会だよ、教会。昨日の事を問い詰めに行くんだろ?」
「そ、そうじゃの、その通りじゃ」
今は、置いておく。“奴ら”への恨みも、何もかも。