第15話 暗闇の世界から
想像もしていなかった言葉だった。ソーンの起動? それが何を意味しているのか、全くわからない。
しかし、眼の前のこのリリィは口元に不敵な笑みを浮かべている。彼女の話した言葉の内容からすれば、もっと深刻な表情をしても良さそうだろうに。
取り敢えず、私の過去を探りに来た、という訳ではない事は分かった。それだけだが。
「ソーンの起動? 失礼じゃが、それが何を意味しているのか分かりかねぬ」
「そうですね、少しばかり長い話になります。その為に早くから出てきたのです」
リリィはそう言って応接室のソファに座り込む。私はその真正面に腰を下ろし、カロリーヌが入れた茶のカップをリリィへと勧める。
「東方諸島から届いたばかりのリョクチャじゃ。お口に合うかは分からぬが……」
「ありがとうございます。頂くことにしましょう」
そう言って、リリィは淹れたてで湯気が立っているカップを口に運び、チャを飲んでいく。
「とても良いものですね、これほど良いチャを頂いたのは、旅の最中に立ち寄った東方諸島以来です」
私としては、その話の方が気になる(というよりは、その中で間違いなく出て来るであろうグリン様の話が)が、余計な事を口走ってボロを出しては行けないので聞き流す。
「お褒め頂き、感謝致します」
「いえいえ、感謝したいのは私の方です。良き香りによって、かつての旅路の事を鮮明に思い出す事ができました。腐った頭を担ぎ上げながらとは言え、仲間たちと世界を巡ったあの日々の中の一幕を……」
その言葉を聞いた途端、笑顔を忘れそうになった。腐った頭? この女がもう一度そんな事を言ったならば、怒りを抑えられなくなるだろう。
「失礼、少しばかり話が逸れてしまいました。あの建築物の件ですよね」
「“起動”とは一体?」
「それについては、魔物たちの生態が絡んできます。この大陸の北、“龍の牙”《ドラゴンズティース》山脈の向こう側に彼らの本拠がある事はご存知ですね?」
「当たり前の知識じゃのう、そこらの子供でも知っておるわ」
「私達は、その人と魔物を隔てる向こう側にも、旅を行いました。そこで得た事実というのが、彼らが山脈の向こう側へと遠征をし、攻撃を行うその理由です」
この女は、今何を言っているのだろうか。それが、沖合のソーンと何の関係があるというのだろうか。
もう話を強引に打ち切ろうかと考えたその時だった。彼女がある言葉を口にしたのは。
「彼らは、故郷に帰る手段を探しているのです。その故郷へと帰る手段はただ一つ。世界のあちこちに存在している装置を全て起動させる事。その装置の一つがあの沖合の建築物なのです」
リリィはそう言った。目元を覆い隠し、口元に笑みを浮かべながら。
その言葉を聞いた時私は恐怖に襲われた。そんな恐ろしい事を、何故この女は喜々として語っているのだ?
この女の目的は、明らかに別の所にある。私にはそれは分かる。
だが、それを指摘する事は出来ない。否定する事も出来ない。そんな事をすればどんな言いがかりを付けられ、異端者扱いされるか。
「あの建築物、つまり我々がソーンと呼んでいる物が、実は一つの装置であるという事は分かったのじゃが、ソーンに何を行うつもりで? まさか、破壊する等と言うのではあるまい?」
「まさか! 古代の装置です。そんな事をすれば何が起きるのか分かった物ではありません。私が行いたいのは、あの建築物を間近で確認する為に船をお貸し頂きたいというのと、建築物の周囲に結界を貼るので、付近を航行しないで頂くようにこの街を訪れる船に周知して貰いたいのです」
この女の言葉に裏がある事は間違いない。だが、この場では否定は行えないだろう。
「……我が商会で使用しておる中型の船を一隻すぐに手配する。そして、周知も行おう。それで良いのじゃな?」
「ええ。話がすぐに伝わり、何よりです!」
とりあえず、これで終わりのようだ。ホッと胸を撫で下ろしたその時だった。
「感謝の印として、貴方の過去についてはこれ以上詮索しない事にしましょう。あの薄汚い獣、忌むべき男、人類の敵と深い繋がりがある、貴方の過去を」
その時の私の表情は、きっと見るに耐えない物となっていただろう。
――数時間後、海上――
声が聞こえている。
あの時から、ずっと。
彼はそれを、“神の声”だと言っていた。
だが、リリィは彼と旅をする内に悟った。これは神の声などではないと。
それでも、この声は有用な助言をリリィに与えてくれた。今までも、そしてこれからも与えてくれるだろう。
リリィは、この街の者達がソーンと呼んでいる建築物を見る。
いや、違う。リリィは目が見えない。盲目のリリィはこれを見る事は出来ない。
だが、リリィの内なる声が告げている。
これだと。
これこそが、最初の一つだと。
リリィはしっかりと“それ”に触れて、表面に刻み込まれた溝をなぞって行く。
それは、深部に今もなお熱を持っている。
だから、リリィがそれを揺り動かすのは簡単な事だった。
リリィは目が見えない。だからこそなのだろうか、他の人達よりも分かる事もある。
たとえば、“それ”がゆっくりと動き始めた事とか、全てが始まった事とか。