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捲土重来……悲涙と逆襲 ②


 上野国、萬松寺。

 箕輪城からわずかに離れたこの寺の一室で、宇佐美定龍は静かにその時を待っていた。

 否、見た目は涼やかな秋の空のような彼であったが、内心は焦燥の炎を燃えたぎらせていたのである。

 

――もはや一刻の猶予もなりません。

 

 しかしその焦りを、これから顔を合わせる相手に覚られてはならない。

 

「ふぅ……」


 一つ大きく息を吐いた。

 普段は四季の変化に喜びはすれど、嫌味を覚えたことなどない彼であったが、この時ばかりは別であった。

 

「鬱陶しい暑さです」


 せめて鼻から入る空気だけは爽やかであって欲しいと願いつつも、それは己の未熟さへの単なるあてつけであるといさめる彼もあった。

 

 ふと天井を仰ぐ。

 

 古い木に黒いしみ。そのしみがさながら自分の不安を示しているようで、気になって仕方ない。

 

――しけた顔してんじゃねえよ。


 こういう時には、心の中でなおも生き続ける義父ちちがいつも励ましてきた。

 小隊と言えども、一軍を率いる大将であり、妻もある一家の主でもあるのだ。

 

「もう少し、強くならねばなりません」


 そうつぶやいて、ゆっくりと目を閉じた。

 そして半ば強引に口元にかすかな笑みを浮かべる。

 

 ひたひたと廊下を歩く人の音が耳に入ってきたところで、彼は唇を震わせた。

 

「いよいよですね」


 高鳴る鼓動を力に変え……。

 

 ついに迎える、始まりの時。


「お待たせした」

 

 『軍神の軍師』宇佐美定龍と、『甲斐の虎』武田信玄。


 いざ、対談――

 

 

………

……


 一方、沼田城。

 城からは利根川を挟んだ西側の、城が一望できる小高い場所に真田幸隆は陣を張っていた。

 彼は、先の岩櫃城に対した時とは違って渋い顔をしていた。

 

「父上! かようなところでもう十日も過ごしております! なぜ動かないのでしょうか!?」


 息子の喜兵衛が快活な声でたずねてくる。


「そう毎日、毎日、同じことを聞くでない! わしとてかように堅い城は初めてなんじゃ!」


 喜兵衛は目を丸くした。

 思わず本音が漏れてしまった幸隆は、「しまった」と漏らしたが、もう後戻りはできぬ。

 彼は観念したように、大きなため息をつくと、城に恨めしそうな視線を向けた。

 

「たいした御仁じゃよ……。新たな沼田城主、本庄ほんじょう 実乃さねよりという武士は」


 幾度となく放った間者はことごとく捕えられ、内部から切り崩そうにも、実乃への人望があつく、誰も内応には応じない。

 寡兵を率いる幸隆では、もはや打つ手がなかった。

 しかしここまで来て、そうやすやすと引くのも面白くない。

 彼は次なる一手をどこに打とうか、朝から晩までそのことばかりを考えていたのであった。

 

 ……が、そこに彼を仰天させるような報せが飛び込んできた。

 

――北条軍が北上中! 既に平井城を陥落させ、厩橋城に近付いております!


「なにっ!? 北条がこっちに向かっているだと!?」


「父上、よかったではありませんか! 北条と手を組み、共に上杉を攻めましょうぞ!」


「馬鹿者! お主は何も分かっておらぬ!」


 嬉々とする喜兵衛を、頭ごなしに叱りつける幸隆。

 若い喜兵衛は、むっとして父に口を尖らせた。

 

「では、教えてくだされ! それがしは何を分かっていないのでしょう?」


「ふんっ! 北条は『敵』じゃよ」


 父の言葉に目を大きく見開く喜兵衛。

 

「そんな……。当家と北条家は手を結んで、共に上杉を攻めているのではないのですか!?」


 幸隆は「はぁ……」とため息をつくと、息子の両肩をがしっと掴んだ。

 そして低い声で告げたのだった。

 

「よいか、これだけは覚えておけ。わしもお主も、京に旗印を掲げられる器などではない」


「父上、それは真田は弱き者と言っているように聞こえます!」


「うつけが。強い、弱いは相手あってのこと。今はかようなことを話しているのではない」


「ではもう少し、分かるようにお教えくだされ!」


「よいだろう。では、はっきり言おう。お主が真田を名乗る以上は、決して天下の覇者を目指してはならぬ」


「では、何を目指すのでしょう?」


「生き残る! ただその一点のみに集中せよ」


 生まれて初めて見る父の険しい顔つきに、喜兵衛はごくりと唾を飲み込んだ。

 

「生き残るには兵がいる。兵を養うには田畑がいる。田畑を治めるには城がいる。よいか。生き残るためには、兵、田畑そして城。これだけはいくらあっても多過ぎることはない」


「つまり父上は、沼田が欲しいと……。その沼田を守る者が敵なら、攻める者も敵だと……」


 幸隆はニヤリと笑った。

 そして喜兵衛の頭をごしごしと撫でながら続けた。

 

「さすがはわしの息子。物分かりだけはよいのう。その通りじゃ。わしは上杉が勝とうと、北条が勝とうと、そんなことは知ったことではない。当家……すなわち信玄公が負けなければ、それだけでよい。もっと言えば、信玄公が仮に敗れても、真田の城が奪われねばよい」


 幸隆から喜兵衛……後の真田昌幸に、『真田の魂』が脈々と受け継がれていく瞬間だった。

 

「戦を大局で見るのは大将の仕事。わしらのような者たちは、局地だけに集中せよ。小さく見るからこそ、見えるものもある。よいな」


「はっ!」


「うむ。よい返事じゃ! では、帰るぞ!」


「はっ?」


 父の言葉の意味が分からずにぽかんと口を開けた瞬間には、父はすでに馬上の人となっていた。

 

「後始末は任せたぞ。わしは信玄公に報せねばならぬことがあるでな」


「ちょっとお待ちくだされ! 信玄公に何をお伝えするおつもりなのでしょう!?」


 幸隆は馬にまたがったまま、息子を見下ろしている。

 そして口角を上げて告げたのだった。

 

「きりの良いところで手を引きなされ、と進言するつもりじゃ」


「えっ?」


 喜兵衛が何か問いかける間もなく、幸隆はその場から風のように消え去っていった。

 

 そうして真田の兵が姿を消したわずか三日後には、入れ替わるようにして北条の三つ鱗の旗が、その場所に立てられていたのである。

 

「攻めよ。城にいる者は、残らず討ち首といたせ」


 『軍師』北条氏康の口から冷酷な号令が飛ぶと、北条の大軍は沼田城へと殺到していったのであった――




今回のお話のテーマは「局地」と「大局」でした。

若い喜兵衛は、世俗的に大局から物を見て、戦況を判断しようとしておりました。

しかし父の幸隆は、分をわきまえて「局地」だけを見るように彼を叱りつけたわけであります。


後の昌幸公は「局地」を乗り切る為に「大局」から判断する力を身につけ、見事に真田を後世に残すことに成功したということになります。


己の力の及ぶ範囲で、見るべき視野を変える。

これは現代に通ずるところがあるのではないかと、思わざるを得ないのであります。

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