捲土重来……悲涙と逆襲 ①
◇◇
永禄四年(一五六一年)六月一五日――
関東平野に黄旗八幡の咆哮が、間断なくこだます。
「攻めよ! 攻めよ! 攻めよ!!」
――おおおおおおっ!
言葉の鞭は、猛る野獣のごとき北条兵たちの血をたぎらせ、松山城の城門を叩く力に変わっていった。
しかし、
「毘沙門天の加護はわれにあり!! 越後の魂、ここに見せつけよ!!」
――わああああっ!!
軍神の雷鳴が松山城内に響けば、大手門、搦め手の二つの門は鉄扉のごとく固く守られていった。
北条綱成の軍勢が、上杉謙信のこもる松山城を攻め立ててから、早一〇日が経過していた。
急造の守備とはいえ、上杉軍は良く守り、城の門が突破される様子は微塵も感じられない。
どこまでも強気に猛攻をかける北条綱成。だが東国無双の彼にも、ここにきてわずかな焦りがちらついていた。
――なぜ新九郎殿はやってこないのだ……?
手負いの上杉軍が松山城に立て篭もるのは、事前から知れていたことだ。
それを北条綱成の軍勢が先鋒となって攻めるのも想定通り。
だが、そこに追撃をかけるはずの北条氏康の大軍勢がいっこうに姿を現さなかったのである。
おのずと彼らは決め手を欠き、長期の籠城戦の様相を呈してきてしまったのも、仕方ないと言えよう。
「攻めよ! 攻めよ! 攻めよ!!」
だが彼は今まで一度も氏康の鬼謀を疑ったことはなかった。
氏康の指示の通りに攻撃を続けていれば、必ずや勝利の道は切り開かれる。
そう信じて、彼は息つく暇もなく兵たちを叱咤した。
しかし、このわずかなほころびこそが、後の大勢に大きな影を落とすことになるとは……。
鬼神のごとく采配を振るう今の彼が気付くはずもなかったのである。
捲土重来――
仲間の血と屈辱の泥にまみれた軍神の逆襲の時は、誰に知られることもなく近付いていた。
いや、ただ一人だけ、その時を知る者がいる。
その名も、宇佐美定龍――
彼はこの時、上野にいる。
とある英傑に会うために……。
………
……
上野国、箕輪城。
上杉謙信が西の防衛線として恃みにしていたこの城もついに陥落し、当主の長野 業盛は無念のうちに首となって果てていた。
その城の新たな主となった男は、城主の間に入るとすぐに甲冑を脱いだ。
「こんな重いもの着ていると、蒸し暑くてかなわんね」
風通しのよい軽装に身を包み、どしりと重い腰を下ろす。
威風堂々。
その言葉がぴたりと合うこの男の名は、言わずもがな『甲斐の虎』武田信玄。
彼は小姓に出された、ぬるい茶を一息に飲み干した。
「ぷっはあ! 生き返るわい!」
男の目に光が戻る。
とそこに部屋に入ってきたのは、彼の軍師、山本勘助であった。
「謙信公は予想通りに松山城に立て篭もったようですぞ」
「ふむ。して、音を上げるのはいつと見る?」
上杉謙信の籠城と北条軍の攻城。ともに彼らが北条氏康から事前に聞かされていた通りだ。
そして、その続きについても氏康は信玄に告げていた。
――我が軍勢の猛攻に音を上げた謙信は、必ずや城を抜け、越後へと退散を始める。そこを信玄公には叩いていただきたい。さすれば、梅雨があける頃には謙信の首がおがめることでしょう。
と。
その言葉に従って、信玄は自ら重い腰を上げて甲斐から上野へと大軍を進めてきたのだ。
箕輪城を陥落させれば、あとは獲物が通り過ぎるのを待つばかり。
信玄ははやる心を抑えながら、勘助に対したが、軍師の目をそうやすやすとくぐり抜けることはかなわなかった。
「殿。焦ってはなりませぬぞ」
「焦ってなどおらぬ。ただ、空腹のまま馳走を待つのは、なかなかにして難しいものだ」
見抜かれたとみるや、素直に心境を吐露する信玄。
そんな彼に、勘助は声を低くして告げた。
「殿。とある男が面会を求めております」
「とある男だと? なぜそのようにもったいつけるのだ」
勘助は周囲をきょろきょろと見回し、近くに人がいないのを確認すると、グイッと身を乗り出してきた。
信玄と勘助の顔が急接近する。
そして思わず身を固くした信玄の耳元で、勘助は聞こえるか否かの限界のところにある声で言ったのだった。
「上杉家、家老。宇佐美定龍でございます」
「なんだと!?」
「しっ! お声が大きい!」
勘助が慌てて信玄の口を抑える。
信玄はギロリと勘助を見ると、すぐに彼は手を離した。
「これは無礼なことを。お許しくだされ。しかし誰の耳があるかも分かりませぬゆえ。くれぐれもご注意なさいませ」
誰の耳……。
ここで指すのは家中の者のことではないのは、勘助のひたいの汗を見ればすぐに分かる。
では勘助が恐れている『耳』とは一体誰のものか……。
答えはおのずと一つ。
北条だ――
「半刻後。萬松寺。よいな」
信玄がそう告げると、勘助は頭を下げてその場を後にした。
そうして再び一人になったところで、大きなため息をついたのだった。
「ふぅ。謙信らしからぬやり口よのう」
そう漏らした彼の口元には、確かな笑みが浮かんでいたのだった――




