三軍暴骨……関東進出戦⑰
◇◇
上杉軍の関東進出よりも前、長尾政景の一件が片付いた後の初めての評定でのこと。
反旗を翻したと言われてもおかしくなかった『揚北衆』の面々は、非常に肩身の狭い立場にあった。
――分厚い面しやがって。
――第二の長尾政景が現れれば、また御屋形様にたてつくに違いない。
――今のうちにまとめて処分してしまった方がよいに決まっておろう!
部屋のあちこちから聞こえてくる彼らを糾弾するささやき声を耳にしながらも、何も言い返せないもどかしさに、揚北衆の人々は体を震わせるより他なかった。
特に長尾政景を見限ったことで、異例とも言える昇進を果たした加地 春綱に対する風当たりの強さは、想像を絶するものであったのである。
当主の上杉謙信と軍師、宇佐美定龍がそろって部屋に入ってきたところで、ピタリと陰口は止まる。
――虫のいい奴らめ……。御屋形様に良い顔ばかりを向けて、腹のうちでは何を考えているか分からないのは、貴様らの方だろ。
春綱は心の中でそう愚痴をこぼしながらも、嘲笑や侮辱にさらされるのが罪滅ぼしだと考えてこらえていたのだった。
だが、その空気は宇佐美定龍の第一声で一変したのであった。
――評定を始める前に、亡き義父、宇佐美定勝殿の夢を皆さまにお話しいたしたいと思います!
評定の間に集まった人々が互いに顔を見合わせ、定龍の不可解な言葉の真意をはかりかねている。
にわかにざわついてきたところで、謙信が太い声をあげた。
――続けよ。
再び静寂に包まれる一同。
そして定龍は、どこまでも響き渡る澄み切った声で言ったのだった。
――定勝殿の夢は、長尾家に『和』をもたらすことでした。全員がいがみ合う事なく、手を取り合って長尾家の未来を作る……。それが義父の成し遂げたかった夢なのです!
そこまで一息で告げたところで、定龍は驚くべき行動に出た。
――ガバッ!
なんとその場で土下座をし、床にひたいをこすりつけたのである。
これには全員が言葉を失い、それは加地春綱もまったく同じであった。
――どうかこの通りでございます!! これからは譜代、新参、揚北などいらぬ派閥にとらわれぬ、『一つ上杉』として、皆で手を取り合い、背中を預け合う『和』を作ってはもらえませんでしょうか!!
この通りでございます!!
表も裏もなく、純粋に上杉家のことだけを想う痛切な願いに、見る者すべての心は打たれた。
中には涙を流し、何度もうなずいている者もいる。
加地春綱もまた、目尻に光るものを携えていた。
そして彼はこの瞬間に手に入れたのだ。
自分の命をかけるに値する人物を――
………
……
「か、加地殿……! 早く手当てを!!」
血まみれの将が目の前に現れたなら、誰もがそう声を張り上げるだろう。
しかし春綱は首を横に振ると、定龍の両肩をしっかりと掴んだ。
「全て返り血だ。案ずるな」
荒い息遣いに、震える声、それに焦点の合わぬ目。
どれをとっても甲冑を染める赤い血の半分以上は、彼のものであることは明白だ。
しかし有無を言わせぬ春綱の顔に、定龍はただうなずくより他なかった。
それを見て、口元をかすかに緩める春綱。
彼は続けた。
「このままでは全滅するぞ。どうするつもりだ?」
ごまかしがきく状況でないのは、もはや誰の目から見ても明らかだ。
定龍はごくりと唾を飲み込むと、低い声で答えた。
「かくなる上は残った兵全員で玉砕しかございませぬ」
春綱はじっと定龍の目を見つめる。
定龍は彼の視線から目をそらすことなく、強い眼光を向け続けた。
嘘はない。
いや、宇佐美定龍という男は、元より相手にも自分にも嘘をつけるような器用な生き方をするような者ではない。
もし嘘がつけるなら、こうして泥まみれで窮地に立たされているなんてありえないのだから。
春綱は、定龍を試したことを後悔しながらゆっくりと彼の肩から手を離した。
そして空を見上げる。
暑い。
陽射しが痛い。
「ああ……。越後の空が恋しいな」
正直な気持ちが口をついて出てきた。
定龍は目を細めて無言のまま、春綱の様子を見つめている。
その視線を感じながら、春綱はゆっくりと顔をもとの位置に戻すと、静かにその場でひざまずいたのだった。
「さあ、命じてくれ。不肖、加地春綱にしんがりの大役を」
定龍の目が大きく見開かれ、何かを言おうと口は半開きになる。
しかし春綱は言葉を挟ませない。
「俺は自分が生きるために、誰かを殺した男だ。せめて最後は、誰かを生かすために、命をかけさせてくれ。頼む。この通りだ」
深々と頭を下げた春綱に対して、定龍もまたひざを曲げ、彼の頭を起こそうとした。
「お待ちくだされ! そんなことは……」
「許せ! 定龍殿! これは俺の『夢』でもあるのだ!」
夢という言葉に定龍は固まる。
春綱は畳みかけるように続けた。
「俺はお主のために命を燃やすのが『夢』であった。上杉のために命をかけることよりも、お主のためにこの命を使いたかった。それが今、まさに叶おうとしているのだ。身勝手な俺を許せ!」
とうてい崩せそうにない春綱の不退転の覚悟に、定龍はただ驚くより他なかった。
「どうして……。どうしてそこまで私のことを……」
春綱はその問いに答えなかった。
もうこれ以上、問答を繰り返している暇など残されていない。
そう自身に言い聞かせ、本心を隠したのだ。
再び頭を下げる。
「さあ……。下知を。ここでの大将は、宇佐美定龍。お主なのだから」
「私に……死んでください、と命じさせるつもりですか?」
定龍の目から涙が滂沱として流れ落ちる。
春綱の視界に入っている土にも黒いしみを作っていった。
しかし春綱は頭を上げない。
「下知を」
ただそれを繰り返すだけであった。
それは彼にとっての「武士の一分」であり、定龍に対する叱咤でもあったのだ。
もし……。
もしこの場に、彼の義父、宇佐美定勝がいたならば。
きっと同じことをしたに違いない。
定勝の代わりなんて、おこがましいことは重々承知のことだ。
だが、若い定龍を導く『手』に、最期の一瞬だけでもなれたなら……。
――馬鹿野郎! 余計な気を使ってんじゃねえよ! でも、まあ……。ありがとよ。
天で待つ定勝は、笑いながらそう言うに違いない。
「加地春綱殿に……。しんがりを命じる……。全軍……即撤退いたせ……」
消え入りそうなか細い声が頭上から風鈴の音のように響く。
春綱は立ち上がると、定龍に背を向けた。
そして、青天に向かって雄たけびを上げたのだった。
「全軍!! 撤退!! しんがりは、この加地春綱が仰せつかったぁぁぁ!! 皆の者!! 大将に続け!!」
――おおっ!!
弓矢を放った後のように、清々しい余韻だ。
ただそれに浸る前に、春綱にはあと一つだけやり残したことがある。
それは『遺言』を託すことだった――
「さあ、行け。定龍。行って、上杉を勝利に導く星となるのだ。それまで死ぬな。これを俺の遺言といたせ。よいな」
「うあああああああっ!!!」
いかに高い地位を得ようとも、いかに美しい妻をめとろうとも、いかに神算鬼謀の士であろうとも、宇佐美定龍はけがれを知らぬ少年の域を脱していない。
抑えきれぬ感情は慟哭となって天を突く。
だが……。
――ザッ……。ザッ……。
体だけは動くのだ。
行け! 行け! 行け!
という聞こえない言葉と見えない力に押されて。
小畔川を渡り、越辺川を越えて行ってしまうのだ。
それに続く宇佐美定龍の軍勢。
彼らもまた、大将と同じように涙にくれながら、その場に残った揚北衆の兵たちと別れていった。
傍から見れば、仲間を見捨てているように見えるかもしれない。
現に小島弥太郎と仙吉の二人に抱きかかえられながら進んでいく宇佐美定龍の心は砕かれている。
だがそれは薄情でも、卑怯でもないのだ。
胸を張って、堂々と、前に進めばよいのだ。
なぜなら彼の背中には、死を目前とした揚北衆たちから魂の叫び声がかけられているのだから――
「生きよ!! 生きよ!! 生きよ!!」
最初は祭りのように多くの声が重なっていたが、それが徐々に小さくなっていく。
そして最後の声が聞こえなくなったその時……。
宇佐美定龍隊は、関東平野の遥か北を疾風となって進んでいたのだった――




