三軍暴骨……関東進出戦⑯
謙信と別れた定龍は、再び自分の小隊『枇杷島衆』の方へと駆けていった。
今度は完全に人の流れに逆らう形となったため、前に進むのが難しい。
それでもわずかな隙は、即全滅につながりかねない。
それほどに、「地黄八幡」の北条綱成の軍団を恐れていた。
しかし、同時に「我が策なれり!」と確信できるだけの余裕も持ち合わせていたのも確かだ。
東西から不気味に近付いてくる三つ鱗の旗もある。
いずれにしても彼に残された時間がわずかであることは、避けようもない事実であった。
――ダダダダン!!
少し先から鉄砲の炸裂音がこだましてきた。
定龍の手から采配を渡された小島弥太郎と仙吉が、枇杷島衆を必死に指揮をしているに違いない。
「とにかくこの難局を抜けること。それが最優先です!」
自分にそう言い聞かせると、彼はいよいよ目前に迫ってきた小島弥太郎の方へと足を急がせたのだった――
………
……
一方。
北上を続ける北条氏康の耳にも、「上杉の伏兵あらわる。北条綱成様の軍勢が奇襲を受けております」との報せが届けられていた。
『軍師』北条氏康の顔が大きく歪む。
伏兵の存在をなぜ事前に察知できなかったのか……。
情報収集能力は、広大な領土を持つ、北条軍にとって大きな武器であり、同時に生命線でもあるのだ。
その情報が遮断されていたとなればゆゆしき問題だ。
忍び衆をたばねる風間小太郎に問い詰めねば、気が済みそうにない。
無論、今は近くにいないため、彼は己の想像力を働かせるより他なかった。
「忍び衆の動きが封じられたとなれば、それは相手も忍び衆を使ってきたということか……」
だが直線的な進軍に加え、わき目も振らぬ攻城を繰り返してきた上杉謙信。
彼に、敵の情報を封じ、伏兵を配置するほどの細やかな戦略が施せるとは到底思えない。
「となると、上杉にも人がいる……となるな」
それはいったいどこの誰だ?
その時、ふと思い起こされたのは、先日彼が甲斐へと足を運んだ時のことだった。
武田信玄との会見を終え、城から立ち去る寸前。
彼を呼び止めたのは、信玄の懐刀で神算鬼謀の士、山本勘助であった。
――上杉に新星あり。ご注意なさいませ。
――ほう……。そのような者の存在など、聞いたことはないな。
――それがしが直接この目で見たのですから間違いござらぬ。
――ふむ。名は何と言う?
――辰丸……。今は宇佐美定龍と名乗っているとか……。
――宇佐美定龍……。
――さよう。あの者は『災いをもたらす凶星』。気をつけなされよ。
今回の伏兵について、その『宇佐美定龍』なる者によるかは分からない。
しかし顔も知らぬその男の存在は、『軍師』氏康にとって、確かに黒い影を落としてきた。
「後手を踏んではならぬ。常に先を取るのだ」
そう自分に言い聞かせた彼は、『総大将』に対して、一つ進言をした。
「松山籠城を見越し、補給線を絶つのだ」
そして、『総大将』に入れ替わった氏康は、前進を続ける軍勢の方向をわずかに変えた。
その上で、新たな目標を告げたのだった。
「目標は、『沼田』!! 上杉の退路を絶ち、関東の大地で殲滅してくれよう!!」
と――
………
……
乱戦が続く入間川のほとりで、小島弥太郎に代わり、再び采配を振い続けていた宇佐美定龍。
激しい戦闘が続く中、彼の耳にようやく待ち望んだ報せが飛び込んできた。
それは忍び衆『影縫』の頭、中西弥蔵からもたらされたものだった。
「北条本隊の目標が変わりました」
「沼田……ですね」
定龍がさらりと答えたにもかかわらず、何の驚きも示さずに「御意」と答えた弥蔵。
しかし、そんな弥蔵の様子に、面白いともつまらぬとも言わず、定龍は淡々とした口調で言葉を続けた。
「これで北条の総攻撃が松山城に集まることはなくなりました。すべてこちらの思惑通りです」
「では、そろそろ次の一手を……」
弥蔵の低い声に、定龍はコクリとうなずく。
「雪音を、春日山の屋敷にいるお勝殿の元へ送ってください」
「雪音を……?」
弥蔵の顔がにわかに曇る。
それは彼がいまだ『仇敵』加藤段三の娘、加藤雪音に警戒を解いていないことを示していた。
だが、定龍は気に留めることもなく、すらすらと続けた。
「これをお勝殿に手渡すように、と」
それは、一通の書状。果たして中は何が書かれているのだろうか。
少なくとも愛する妻に向けての甘美な愛の言葉でないのは、弥蔵であっても容易に想像がついた。
「御意」
「大丈夫です。きっと彼女ならやり遂げてくれるでしょう」
「定龍様がそうおっしゃるなら、必ず、事はなりましょう」
弥蔵が書状を懐に入れたのを見て、ニコリと定龍は微笑む。
そして次の瞬間には、さらに指示を出してきた。
「弥蔵殿には『道』を作っていただきます。分かりますね?」
「御意」
短い返事をした直後には、弥蔵の姿は煙のように消えていた。
その様子を確認したところで、定龍はぐっと腹に力を入れて、次の行動へと移っていったのだった。
「さあ、もう少しです! もう少しだけ北条軍の猛攻を食い止めよ!!」
――おおっ!
しかし、いかに彼に人智を超えた力があろうとも、圧倒的に足りないものがあるのも事実だ。
それは「戦の経験」……。
経験の少なさで見誤ってしまうもので、致命傷になりかねないのは『敵の強さ』と言えよう。
その事実を、最前線から戻ってきた伝令よりもたらされた一報で、気付かされたのだった――
「申し上げます!! 鮎川清長殿、討ち死!! 北条軍の勢い凄まじく、このままではここを突破されます!!」
「な、なんと……」
多少の犠牲は計算の上であったが、まさかここまで早く味方が瓦解してしまうとは……。
あらためて東国無双の名を欲しいままにしている北条綱成の強さに、背筋が凍りつく。
耳を澄ませば北条軍の咆哮が地響きとなって聞こえてくるではないか。
押し寄せてくる大波の気配に、定龍の顔色が青く変わった。
「しかし、今退くわけには……」
背中には未だに川を渡り切れていない上杉本軍の兵がいる。
せめて彼らが対岸に着くまではこらえねば、せっかくの奇襲が無駄になりかねない。
悲壮な使命感と、眼前の恐怖に、頭の中がかき回されていく。
いつも『一つ』のはずの答えが、今は二つにも三つにも分かれていく。
しかもいずれの答えを選択しても、見える未来は地獄ばかりだ……。
「これが窮地……ということですか……」
精一杯強がってみせるが、己の心はごまかせない。
自然と全身から汗が吹き出し、表情は険しくなっていった。
それでも彼は孤独であることに変わりはない。
彼の替えが誰もいないことは、彼の周囲に人がいないことからも明らかであった。
小島弥太郎、中西弥蔵、仙吉……。
彼を慕う仲間たちは今、己の役割を果たすことに命をかけており、それは決して定龍の横で支えることではなかったのである。
彼の混乱などよそにして、全滅の危機は刻一刻と近付いてくる……。
何か決断せねばならないのは分かっていたが、彼一人で決断をくだすのは重すぎた。
いや、たった一つだけ、彼自身でも決断できる選択は残されている。
「腹を決めるしかありませんね……。定勝殿と定満殿には申し訳ないが……」
その言葉を口にした瞬間に、太陽のような笑顔を向ける勝姫の姿が思い浮かぶ。
恋しさと申し訳なさの二つが胸を強くうつと、自然と涙が頬を伝った。
「最近は涙もろくて仕方ありません……」
口元だけは笑みを浮かべる。
それは最期の最期まで、そうしていた定勝の真似であり、上杉家の武士としての矜持だ。
せめて心意気だけは、亡き義父のようでありたい。
その一心で、彼はついに心を決めた。
玉砕の選択を……。
だが、天は彼を物言わぬ亡骸にするつもりなどなかった。
すなわち彼に代わる『生贄』を代償として求めてきたのである。
その『生贄』は徒歩のまま、血まみれになって定龍の前に現れた。
「加地殿……?」
そう。それはかつて宇佐美定勝への銃撃を見て見ぬふりをし、定龍を死地に追いやった宇佐美家の仇敵。
加地春綱であった――