三軍暴骨……関東進出戦⑭
◇◇
河越――
東海道を外れ北上していけば、なるほど確かに多麻河(後の多摩川)や入間川といった大きな河川が同地を防ぐように流れている。
しかし、河越城よりさらに北。すなわち松山城へと向かえば、まさしく『河越』の地名にふさわしいほどに、大小多くの河川が連なっているのだ。
『軍師』北条氏康は、まさにその地形を利用しようと目論んでいた。
ちょうど松山城と河越城の中間点付近。
そこは雄大な入間川。そのすぐ北に小畔川と越辺川の三つの河川が、文字通りに『川』の字となって、東西に流れているのだ。
渡しの場所や数は限られているし、すべて北条軍の息がかかっている者たちばかり。
いかに足腰の強さに定評のある上杉軍と言えども、そう簡単には川を渡り切ることはできまい。
ちょうど入間川を渡ったところが中州のようになっており、足場も緩い。
ここで北条綱成の軍勢の槍が上杉の中軍に深々と突き刺されば、完全にその足は止まるだろう。
そこで西に展開していた氏康の率いる北条本軍と、東での役割を終えた北条幻庵や松田 憲秀の軍勢が挟撃を加えれば……。
「さしもの軍神と言えども、息の根を止めるだろう。くくく……」
あまり好きにはなれない残虐な『軍師』の言葉に、もう一人の自分が大きなため息をつく。
ただ、『軍師』が打ってきた数々の計は、見事に戦局をとらえ、まるで手のひらの中にあるかのように、上杉謙信を躍らせている。
それだけにもらした嘆息には呆れというよりも、感嘆の方が強い。
そうして一度目をつむり、心の中を『大将』の顔を持つもう一人の自分に入れ替えたところで、ゆっくり目を開いた。
本陣の幕を開ければ目の前には味方の大軍。
永禄四年(一五六一年)六月五日の昼過ぎ。
ついに北条氏康は、手にした軍配を北に向けて大きく突き出した。
「敵は『軍神』!! 相手にとって不足なし!! 野郎ども!! 続けぇぇぇ!!」
――オオオオッ!!
ついに北条本隊が、入間川の北進を開始した。それに呼応するように、東の北条幻庵らも軍勢を進めていったのであった。
「王手だ……。上杉謙信!! はははっ!!」
馬上で勝利を確信し、高笑いをする北条氏康。
しかし彼は知らなかったのだ……。
上杉謙信に捨てられ地に堕ちた龍が、文字通りに泥にまみれて伏せているのを――
………
……
「殿。ここが勝負どころです! この勢いのまま一気に入間川を渡ってしまいましょう」
先陣を切る上杉謙信の本隊の目の前に川幅の広い入間川が見えてくる。
もし河越城へ侵攻してきた際と同じ状況であれば、船を並べて「舟橋」を作って対岸へと渡ることもできたであろう。
しかし、今はそんな余裕はない。
入間川が三本の支流に分かれている地点なら、それぞれの川幅は狭く、水量もばらけているはずだ。
そう考えた千坂景親は、陣頭に踊り出て軍勢の向きを少しだけ西へと変えた。
背後から猛烈に追い立てていた北条綱成の軍勢の勢いも今は一息ついている。
このまま三本の川を渡り切ってしまえば、振り切れるかもしれない。
かすかではあるが、光を感じられたことで、景親の馬に鞭を打つ手に力が戻ってきた。
「もうすぐだ!! 足を止めるな!! 前だけを見よ!!」
――オオッ!!
気合いの入ったかけ声からして、兵の士気はまだじゅうぶんにある。
このままなら押しとおせる。
たとえ窮地に立たされて周囲が見えなくなっている彼でなくても、そう楽観的に考えるのが普通であろう。
――バシャッ! バシャッ!
そうして猪のような突進のまま、川の中へと突入したのだ。
しかし、その時だった――
――ウオオオオオオオッ!!
という地響きのような声が辺り一帯にこだましたかと思うと、息を吹き返したかのように北条綱成の軍勢の突撃が再開されたではないか。
長雨の季節を抜けたばかりで、増水した川を渡りきるには、いかに屈強な上杉軍と言えども、相応の時間を要する。
槍と槍が激しくぶつかり合う音が、不気味に上杉本隊へと近づいてきていた。
さらに彼らにとって脅威だったのは、明らかに東西から北条の三つ鱗の旗印が近づいてきていることだ。
――このままでは川と川に挟まれた場所に閉じ込められる……。
それはまさに窮鼠の状態。
常に冷静沈着に謙信の身を安全へと導いてきた千坂景親と言えども、背筋が凍りついてしまった。
彼でそうなのだから、兜をかぶらぬ兵ならなおさらだ。
川の中ほどにも関わらず、恐怖で足がすくんでしまっている者まで現れ始めていた。
――まずい……。これではこの川すら渡り切ることができないではないか……。
早い者では既に北条軍の中にも川の中ほどまで攻め立ててきているのだ。
川で混乱をきたせば、もはや立て直しは不可能。
千坂景親は己の無力さに、ぎりっと歯ぎしりし、いよいよ敵中に斬り込む覚悟を決めた。
……が、その時であった――
「諦めるな!! 我が軍を見捨てぬ龍がある限り、全力を持って前に進むのだ!! 信じよ!! 毘沙門天の加護は我にあり!!」
その声が天を貫いた瞬間。
一頭の白馬とともに、彗星が川を駆け抜けていったではないか。
それは言わずもがな、上杉謙信であった――
総大将の単騎駆けに、味方の心に火が灯る。
――負けるなぁぁぁぁ!! 御屋形様に続くのだぁぁぁ!!
気付けば柿崎景家ら、名のある大将たちもまた、血まみれになりながら大声で謙信の言葉の後に続いている。
――ぐおおおお!!
理屈を超えた何かが上杉軍に、最後とも言える力を与えると、川を進む歩みの速度が戻ってきた。
そうしてついに前、中、後の三軍全てが川を渡りきったところで、自然と歓声があがった。
――うわああああっ!!
だが、同時にそれは北条綱成の猛攻の舞台が、川と川に挟まれた『死地』に移ったことを意味していたのである。
背後の小畔川、さらには越辺川を超える体力はもはや残されていない。
誰もがこの地で北条軍との決戦を覚悟していた。
だが……。
まさかこの場所に龍が伏せていようとは――
それは最後尾の北条綱成が川を渡り終えた瞬間のことだった――
「うらああああああああ!!!」
一匹の鬼が綱成の本陣に目がけて飛びかかったのである。
「……なにっ!?」
さすがの綱成と言えども面喰らい、周囲を固める護衛の兵たちの手足も止まってしまった。
その隙をついて、鬼は手にした槍で次々と北条軍の兵たちを屍へと変えていく。
そうして鬼は高らかと名乗り出たのだった――
「おいらの名は小島弥太郎!! 人呼んで『鬼小島』とはおいらのことだ!! 死にてえ奴からかかってきやがれ!!」
まさに一騎当千の無双の槍が、数百はいる綱成の本隊の中で暴れ出す。
――守れ! 孫九郎様を守るのだ!!
ようやく平静を取り戻した足軽大将の一人がそう叫ぶと、それまでばらけていた綱成の軍勢が一か所に集まり始めた。
しかし……。
「集まるなぁぁぁぁぁ!! 散れ!!」
何かに気付いた綱成は雷のような大声で周囲を叱咤した。
だが、それはもう遅かった。
「敵は固まった!! 一斉にうてぇぇぇぇい!!!」
――ドドドドッ!
四方から炸裂音がこだましたかと思うと、ばたばたと無敵の綱成の兵たちが斃れ始めたではないか。
そして、鉄砲隊を指揮する透き通った声の持ち主も名乗り出たのだった。
「われは宇佐美定龍!! 上杉は負けぬ!! 覚悟せよ!!」
それは顔中を泥だらけに汚した天才軍師が、まさに毘沙門天の加護のように北条軍に立ちはだかった瞬間であった――