三軍暴骨……関東進出戦⑬
◇◇
上杉謙信が河越城からの撤退を決意するよりも前のこと。
謙信から解任と謹慎を言い渡された宇佐美定龍は、いつも通りの穏やかな表情のまま、自分の率いる小隊のもとへと戻ってきた。
そこに出迎えたのは、彼の与力である小島弥太郎であった。
「やいっ! 辰丸!! いったい御屋形様となにがあったんだ!?」
弥太郎の威勢の良い声が、陣の中に響き渡る。
しかし定龍はニコリと微笑むだけで、何も答えないまま、大急ぎで集団で待機している兵たちの中へと入っていった。
謙信に足蹴にされた際に負った傷を隠すために、額金をつけた鉢巻を巻いた彼の頭の中には一つのことしかなかった。
それを現実のものとするため、兵たちの武器や体調などの確認を念入りに行っていたのだ。
そして、戻ってきてから四半刻にも満たぬうちに号令をかけた。
「これより我が隊は、撤退を始めます! みなのもの! 私に続いてください!」
上杉軍の最前線では北条軍との激しい攻防が繰り広げられている中にあって、退却を命じられたことに不安と不満を隠せないでいたのは、顔を真っ赤にしている弥太郎だけはなかった。
しかし、その弥太郎にすら有無を言わせぬほどに厳しい表情に変えた定龍は、誰かが口を開く前に馬を北方へと走らせたのだった。
………
……
一方――
「撤退せよ」
という謙信の短い号令の瞬間から、一斉に城から離れる上杉兵たち。
しんがりには本庄繁長をはじめとする揚北衆の兵たちが名乗りをあげてきた。
「御屋形様! ここは俺たちにおまかせくだされ!!」
「うむ、死ぬなよ」
「おおうよ!! みなのものぉぉぉ!! いくぜぇぇぇ!!」
――うおおおおおっ!!
ひと固まりとなって北へ、北へと急いでいく軍勢。
その中にあって本庄隊だけが河越城から少し離れたところで仁王立ちとなって、敵の追い討ちに備えた。
そしてついに城の中から疾風怒濤の軍勢が姿を現したのである。
「勝つぞ! 勝つぞ! 勝つぞぉぉぉぉ!! いけぇぇぇ!!」
――オオオオオッ!!
それは、北条軍最強……すなわち関東最強の軍――
北条綱成率いる無双の軍団であった。
『八幡』と書かれた旗を高らかと掲げながら、雷光のごとく一直線に本庄隊へと突っ込んでいく。
――ドガガガガガッ!!
と、地面が割れるような甲冑同士がぶつかり合う音が響くと、一瞬だけ綱成隊の動きが食い止められた。
しかし……。
それは本当に一瞬だけだった――
「ぐおおおおっ! 耐えろ! 耐えるんだ!!」
一人火を吐く繁長であったが、大海の波を一艘の小舟が食い止められるはずもないように、彼一人の力ではいかんともしがたい勢いと兵力の差があったのだった。
「敵大将とお見受けする!! 覚悟!!」
「なんのぉぉぉ!! 俺の首、取れるものなら取ってみよ!!」
――カアアアアアン!!
繁長は、四方八方から飛んでくる槍や刀をどうにかさばきながら、それでも勢いにのまれずに足と大地を一体にしていた。
しかしいかに猪武者の彼と言えども、しょせんは人の子である。
「御大将!! 命があってこそでございます!! ここはいったんお退きくだされ!! ぐわっ!!」
繁長を諌める忠臣たちさえも敵の凶刃にかかり始める頃には、涙をのんで撤退を決意した。
「くそぉぉぉ!! くそぉぉぉ!!」
武蔵の空を繁長の無念の咆哮がこだますが、それをかき消すくらいに、綱成隊の地を蹴る音が強かった。
「見えたぞぉぉぉ!! 上杉だあああ!!」
――うおおおおおっ!!
獲物をその目に捉えた猛獣のように疾駆していく綱成隊。
そしてついに上杉本隊の背中に深々と槍を突き立てたのだった――
――ドシャッ!!
長槍が上杉兵の頭上から繰り出されると、脳天を割られる不気味な音があちこちから聞こえてくる。
軍勢の中ほどを行く謙信のもとにも、本庄隊壊滅と敵襲の悲報は届けられた。
同時に自然と彼に意見しようと、重臣たちも集まり始めたのである。
まず口を開いたのは猛将、柿崎景家であった。
「御屋形様!! 追いつかれましたぞ! ここは陣を立て直して迎撃いたしましょう!!」
その意見に斎藤朝信が真っ向から反対した。
「陣を立て直す間に左右の北条軍に退路を断たれましょう。ここは多少の犠牲を覚悟の上で撤退をするのみ」
「なにを言うか!! 毘沙門天に護られし我が軍が敵に背を向けたまま逃げ落ちるなど……。よしんば生き長らえても、ご先祖様に顔向けができんわ!! 御屋形様!! 迎撃のご決断を!!」
「ならぬ!! 我が軍を護るのは毘沙門天の御加護ではなく、ひとえに御屋形様のご決断と兵たちの底力である!! ついては、目の前の屈辱にとらわれずに、一縷の望みに賭けるべきだ! 御屋形様!! 悩む必要などありませぬ!」
互いに一歩も引かない柿崎景家と斎藤朝信の様子を見て、謙信は目が覚めたような感覚をおぼえていた。
――ああ、定龍よ……。俺が馬鹿であった……。お前はこのような心持ちだったのだな……。
つまり彼は二人の主張を耳にしたことで、ようやく『己の決断の愚』を客観視できたのであった。
そしてこうして重臣たちが言い争っている間にも、軍勢の最後尾では兵たちが次々と斃れていっている。
のんびりしている暇などないが、冷静になって彼らの主張に耳を傾ければ、いずれが今取るべき選択かは、一目瞭然だ。
――どうしてわれはそのことに気付かなかったのだろうか……。
たとえ毘沙門天の加護があろうとも、人の体は、敵の槍一突きで地に伏せてしまうのだ。
すなわち理にかなわぬ勝利などあり得るはずもなく、また敗北も同じなのだ。
勝つことに慣れ、勝つことしか知らぬ軍神にとって、負け方を説こうと必死になっていた定龍の言葉は、今の今までまったく心に響かなかった。
しかしこうして敵の鋭い牙が間近に迫る恐怖を知ったことで、彼の諫言は何にも代えがたい貴きものであったと痛感していたのだった。
「撤退を続けよ。奇跡などありえぬ。加護などない。あるのは現実のみ。ならば撤退の他に選択の余地などない」
いかなる反論もよせつけぬ冷たい言葉に、重臣たちは言葉もなく、唇を噛みしめながら自分の隊へと戻っていった。
敵の足音が徐々に謙信の耳にも大きくなる。
――定龍よ、愚かだったわれを許せ。忠言をはねのけた罪は、我が身で受けねば道理が立たん。
もはやそのように覚悟を決めた謙信。
馬の首を反転させようと手綱を絞る。
しかしそばにいた千坂景親が、ぴたりと横に並んでそれを許さなかった。
ふと見れば彼の目は真っ赤に腫れあがり、無念の涙をいっぱいにためている。
それでも彼は声を絞り出した。
「なりませぬ。逃げてはなりませぬ!」
「なに?」
「これは撤退戦にございます! 撤退戦とはすなわち戦! 御大将である御屋形様が戦から離れてはなりませぬ!」
謙信は大きく目を見開いた。
勇気ある千坂景親の諫言に、ぐわっと腹の底から熱いものがこみあげてきた。
だが、それは何度も体験したことだ。
そしてそれを体験するたびに目の前にあったのは……。
「定龍か……」
謙信の言葉に千坂景親は大きくうなずいた。
定龍が謙信の本陣を去る際、千坂景親に対して、謙信の行動を諌めるよう伝えたことを意味していた。
つまり定龍はすべて分かっていたのだ……。
屈辱に耐えきれなくなった謙信が自ら命を絶とうとすることを――
「……その他に何を言った? 漏らさず話せ」
謙信は穏やかな口調で千坂景親に求めた。
千坂景親は、ぐっとあごを引くと力強い口調で告げた。
「必ずや道は開かれます。御屋形様には毘沙門天の御加護がおありなのですから……とのことでございます!」
謙信は口元にかすかな笑みを浮かべると、小さくうなずいた。
定龍の言う「毘沙門天の加護」……。
そんなものは現実にありえるはずはない。
しかし彼はあえて「毘沙門天」という名を出した。
それは言うまでもなく暗示だ。
――私、宇佐美定龍が毘沙門天となって御屋形様を御守りいたしましょう。
と……。
「行くぞ!」
謙信は、自分でも驚くほどに強い口調で周囲にそう告げると、馬の腹をめいっぱい蹴った。
そして、北を目指して風のように駆けていったのだった――




