三軍暴骨……関東進出戦⑫
◇◇
同じ頃、甲斐躑躅ヶ崎館――
「御旗楯無、ご照覧あれ!!」
白熊の兜から長く垂れ下がった白い獣の毛。
手には立派な軍配。
赤い糸が織り込まれた甲冑。
有無を言わせぬ固い表情で告げた誓いは、反論を許さぬ出陣の触れだ。
甲州の虎、武田信玄。
ついに出陣の時――
――オオッ!!
山本勘助や武田信繁といった主だった武将たちもまた、同じように並々ならぬ決意のもと、信玄の号令に従った。
こうして武田家の本軍は、北条家との約定により出陣した。
彼らの目標は甲斐からみて東北に位置する、上野国の箕輪城。
つまり上杉謙信が西の防衛線としてたのみにしていた城である。
さらに言えば、岩櫃城が陥落した今、箕輪城も敵の手に渡れば……。
西の防衛線は完全に崩壊することを意味していたのだった――
◇◇
永禄四年(一五六一年)六月五日――
ついに『軍神』と畏れられた上杉謙信にとって、屈辱にまみれた一日が始まろうとしていた。
ただし、日付が変わったばかりの深夜、この時に手を打てば、まだ状況が変わったかもしれないが、未だに一つの城門ですら破っていない状況であるにも関わらず、謙信もそしてその他の重臣たちも、戦況を楽観的にとらえていた。
なぜなら河越城の南方に、なんの動きもなかったからである。
なお「河越」とは、いくつもの河を超えねばたどり着けぬ地、という由来がある。
河越城もまた同じであった。
入間川が二手に分かれ、城の北と西を流れ、このうち北の支流は荒川と合流し、城の東をゆうゆうと進む。
すなわち南方以外は川に囲まれた、天然の要害なのだ。
今、上杉軍はこのうち北方から攻め込んでいる。
そして彼らが恐れていたのは、川のない南方から北条氏康率いる大軍がやってくることだった。
そこで物見として多くの忍を、南方へ送り込んでいた。彼らから「北条軍、現る」の一報は届いていないのだから、謙信らが油断をしていたのも仕方ないと言えよう。
彼らは日没とともに城から少し離れたところで陣を構え、夜襲に備えながらも、束の間の休息の時を過ごしていた。
そんな中にあって宇佐美定龍だけは、夜のうちに河越城から離れることを進言しようと、謙信のいる本陣へと駆け込んだ。
「御屋形様にお目通りを願いたい!」
加地春綱らを見送った後、最前線に戻ろうとした定龍。しかし、完全に出遅れた彼は戦場に居場所がなかった。
そこで本陣が設けられた後に、再び謙信に近付こうとしたところ、謙信の護衛をしている千坂景親に止められてしまったのだった。
「待て、待て。定龍。御屋形様は少し酒をたしなまれて、もうおやすみだ。明日の朝にいたせ」
「さ、酒ですと……!? こんな時に、なぜ!」
「みなの士気を高めるため、諸将を本陣に集められて、軽い酒宴を催したのだ」
その言葉に定龍は絶句してしまった。
戦況が思わしくない中で、士気を保つのに酒を頼りにするのは、愚将の振る舞いとしか言えぬ。
しかし同時に、「これ以上、周囲から人を失いたいくない」という謙信の悲痛な叫び声が聞こえてきそうなことに、定龍は胸を痛めていた。
……と、その時だった。
「定龍か?」
と、謙信の声が聞こえて本陣の内側から聞こえてきたのだ。
幕は少しだけ開いているが、中の謙信の姿をうかがい知ることはできない。
定龍と千坂景親の二人は、さっとひざまずいた。
「はっ! 宇佐美定龍殿が参られました。お通ししましょうか!?」
と、千坂景親が大きな声で返事をすると、「通せ」と短い返事だけが中から聞こえてきた。
そして、定龍は千坂景親に小さく頭を下げると、すばやく本陣の中へと消えていったのだった。
………
……
酒臭い――
それが定龍が目の前に鎮座する謙信に抱いた第一印象だった。
彼は机に左肘を置き、もたれかかるようにして頭を左の拳に乗せている。
酔いの回った体を必死に起こそうと無理をしているのは、一目瞭然であった。
「御屋形様。今宵はお疲れのご様子。ですが、申さねばならぬ儀がございます」
そう切り出した定龍。しかし謙信は自由の効く右手を小さく上げると、定龍の言葉を制した。
「定龍。お前に申し付けねばならぬことがある」
「はい……」
謙信の雰囲気がそれまでよりも重いことに、あまり良い予感のしなかった定龍は頭を下げて、謙信の次の言葉を待った。
そして謙信は引き続き重々しい口調で続けたのだった。
「河田、加地、鮎川隊を勝手に松山城へ撤退させたと聞いた。まことか?」
「はい。しかし、それは……!」
と言いかけた瞬間に、はらりと定龍の目の前に複数の書状が投げられた。
定龍はそれらを目にした瞬間に、はっと顔を青くした。
なぜならそれらは全て、定龍が上杉憲政宛てに送った書状だったからだ。
つまり彼が上杉憲政を動かすために、送ろうとした書状はことごとく、謙信の手によって止められていたのだ。
返事が一切こなかったのもうなずけるというものだ……。
「毘沙門天に護られし我が軍において、心を一つにしてみな戦っておるのは分かっているな?」
「しかし、御屋形様!」
定龍がなおも食い下がろうとした瞬間だった。
――ガスッ!!
という鈍い音が、彼のひたいの辺りから聞こえたかと思うと、彼の視界は漆黒の夜空に向けられていた。
それは謙信が口で答える代わりに、彼を足蹴にしたことを意味していた。
ひたいの鈍痛よりも、驚愕によって仰向けに倒れたまま動けない定龍。
そんな彼に、謙信は冷たい言葉を浴びせた。
「今日よりお前を脇大将の座から外す。越後へ帰れ。以上だ」
突き放すような口調でそう告げた謙信は、本陣の奥にある寝床へと消えていく。
残された定龍は、未だに己の身に何が起こったのか分からずに、ただ夜空にまたたく星だけを見つめていた。
しかし、一筋の涙が白い頬を伝うと、ようやくゆらりと立ち上がって、その場を後にしたのだった――
こうして、夜が明けた――
そして、その直後だった……。
目を覚ましたばかりの上杉軍に悪夢がもたらされたのは――
「入間川の西岸に、敵大軍! の三つ鱗の旗! 北条でございます!!」
「荒川の東岸にも北条の大軍が現れました!!」
なんと謙信がふんでいた南方ではなく、東西の川岸に北条の大軍が姿を現したのだ。
川を挟んで向こう岸に陣を敷いているということであれば、すぐに攻め込まれる心配はない。
ただし、同時にそれは東西に逃げ道を失っただけでなく、援軍の可能性も消え失せたことも意味していた。
つまり上杉軍、およそ一万は完全に孤立してしまったのだ……。
もし東西の北条軍が川沿いに北上を続け、彼らの北側を制したなら、完全に退路と補給路を絶たれてしまう。
ただでさえ不利な攻城戦にも関わらず、それらが絶たれたならば、もはや行き着くところは唯一つだ……。
全滅――
ここにきて、謙信はようやく決断をせざるを得なかった。
「退却せよ」
と――
しかし、この号令を待ち望んでいたのは上杉軍のどの武将でもない。
河越城で牙を研ぎ続けてきた、稀有の猛将……。
「行くぞぉぉぉぉ!! 勝つぞ! 勝つぞ! 勝つぞぉぉぉぉ!!」
――オオオオッ!!
『地黄八幡』、北条綱成。
さながら獲物を追いかける猛獣のごとき彼の一軍は、逃げる上杉軍の背中へ容赦なく襲いかかり、その牙を深々と突き立てたのだった――